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第三章 贖罪

――アキト


新入生の顔と名前を、ようやく半分ほど覚えた。

校庭の桜は、初夏の匂いを含んだ風に吹かれ、ゆっくりと地面に落ちていく。

黒板の前に立つ自分の声が、わずかに上ずっているのが分かる。理由は――彼女が、この教室にいるからだ。


――サクラ


チョークの音が教室を満たしている。

いつもなら右から左へと抜けていく授業の内容が、今日は耳の奥に張りつく。

離れてほしくない。

これが夢なのか現実なのか分からない。けれど、目の前にいるのは間違いなくアキトだ。

夢であってほしくない――そう思った瞬間、チャイムが鳴った。


「アキト先生、私のこと覚えていますか?」

「サクラさんですよね。名前覚えるのって意外と大変で苦労してるんですけど、しっかり覚えてますよ」

「そういうことじゃなくて! わたしと…」

「質問なら放課後でもいいでしょうか? 次の授業が始まりますので」

「……分かりました」


――アキト


彼女の問いかけで、俺が思い違いをしていないことを確信した。

近くで見たときよりも、はっきりと思い出す。

小さな唇、母親譲りの透き通った瞳――すべてに既視感がある。

忘れようとしていた記憶が、いやおうなしに引きずり出されていく。


(過去)


大学三年の頃、俺はすべてのことに嫌気がさしていた。

教師を目指して真面目に通っていたはずが、授業に身が入らない。

親から「安定した職業につけ」と言われ続け、気づけば将来は他人に決められていた。


そんな日常から逃げたくて、繁華街のネオンの下をさまよった。

甘い香水の匂い、酔った客の笑い声。

風俗の看板の光に足が止まる。

衝動のまま店に入り、案内された部屋で、ユキと名乗る女と出会った。


「今日はうちに来ない?」

彼女の笑顔は営業用のそれではなく、少し寂しげに見えた。


ユキの家は、生活感のない薄暗い部屋だった。

ベッドの上で行為を始めたとき、ふと視線を感じた。

階段の影から、小さな女の子がこちらを見ていた。

目が合った瞬間、彼女は慌てて二階に駆け上がっていった。


行為が終わり、ユキが眠りにつくと、俺はその子を探して二階に向かった。

部屋の隅で膝を抱えていた彼女は、怯えたようにこちらを見上げた。


「……これ、食べる?」

ポケットに入れていたコンビニのパンを差し出す。

一瞬のためらいのあと、彼女は包みを破り、夢中で頬張った。

パンの香りと、小さく響く咀嚼音。

その必死さに目を離せなかった。


食べ終えると、彼女はそのまま俺の隣で眠ってしまった。

寝息が、やけに穏やかで。

俺もいつの間にか、そのまま眠りについていた。


夜明け前、目を覚ますと彼女も起きていた。

「名前は?」と聞くと、小さく「サクラ」と答えた。

ぽつぽつと、自分の境遇を話してくれた。

母子家庭で、友達も頼れる大人もいないこと。

将来が見えない不安。


「……もう心配しなくていい。俺がついてる」

自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

庇護欲からなのか、昔の自分を重ねたのか――それは分からなかった。


それから毎日のように会い、他愛のない話を重ねた。

やがて関係は一線を越え、後悔と欲望が入り混じった日々になった。

「もうやめよう」と思うたび、会いたくなった。


そんなある日、ユキに関係がばれた。

「もう二度とサクラには会わないで」

その目は、氷のように冷たかった。


サクラから「もう会えないの?」とメッセージが届いた。

俺は、面倒だという理由で短く返信した。


それ以来、サクラと会うことはなかった。

危ないことはやめ、真面目に生きることを、自分への――贖罪として誓った。

だが、その誓いは、今目の前にいる彼女によって、また揺らぎ始めていた。

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