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『ひかりの器』

ーー第一章 捧げられる子ーー



村の朝は、いつだって霧の中から始まる。

山裾をなでるように漂う白い霞が家々の輪郭をゆるやかにぼかし、朝の鐘の音すらもどこか遠く、誰かの夢の残響のように聞こえる。


けれどこの日、十歳の鈴にとって世界は妙にくっきりと見えていた。それはまるで永遠に残される一枚の絵葉書のように、過剰なまでに鮮明だった。


籐の箒で地面を掃く母の背中。

縁側に座ったまま何も言わない父の手の節。

縁の欠けた茶碗に盛られた白米の湯気が、静かに空へ溶けてゆく。

「食べておきなさい。冷めるよ」

母がそう言った。けれどいつもより優しくて、いつもより遠い声だった。


村には「峠さま」と呼ばれる神がいた。

その名は、いつからこの地にあるのか誰も知らない。

誰かが語るとき、それはいつも「昔からそうだった」と始まり、誰かが疑おうとしたとき、それは「そんなこと言っていいのか」と終わった。

峠さまは、山に棲まう神であり、村に実りをもたらし、病を遠ざける存在だった。


けれどその恩寵には代償があった。

十年に一度、ひとりの子が捧げられる――それが“ひかりの器”の儀である。

それはこの村に生まれた者なら誰もが知る「決まり」であり、畑を耕すことと同じくらい、疑う余地のない「自然」だった。


鈴はその年の「器」として選ばれた。

それが決まったとき誰も彼女を哀れまなかった。ただ静かに微かに、目を逸らした。

「えらい子だ」「運命だから」「峠さまに近づける」かけられる言葉はどれも型通りで、どれも彼女の手のひらをすり抜けていった。

でも不思議と、鈴は泣かなかった。怒ることも、怖がることもなかった。


そのかわり、夢を見た。

朝靄の中で自分が山の上に立っている夢。

静かに風が吹き、どこまでも白く、まるで世界の輪郭が消えていくような感覚。

夢の中で鈴ははじめて、自分の声が聞こえないということに気づいた。


祭りの日の朝。

鈴は白い衣をまとい、髪を結われ、手に榊を持たされた。その小さな手を握る母の手は、凍えるように冷たかった。父は遠くからそれを見ていた。ただ煙草を咥え、山を見上げていた。


村の人々が静かに道を空ける中、鈴は祠への石段を登っていく。風がざわりと榊の葉を揺らす。白装束の裾がかすかに翻る。頭上には、まるく膨らんだ月がまだ昼の空に浮かんでいた。


「峠さま、どうか……どうか今年も村をお守りくださいませ」

神主の声が祠の前に響いたそのとき、

重々しく閉ざされた扉が、音もなく、するりと開いた。


闇ではなかった。


鈴を包んだのは、音も色も温度もない――白だった。

すべてが消える直前、鈴はふとひとつだけ言葉にならない感情を抱いた。


それは恐れでもなく、哀しみでもなく、名前のない違和だった。

たとえばそれは、ここから先に「何もない」ことを知ってしまった者が抱くような、静かな確信。

そして、鈴の姿は、白い光の中に、溶けていった。

それは、村にとっての“救い”であり、鈴にとっての物語の終わりであるはずだった。


だが本当は、その瞬間こそが、世界の始まりだったのだ。



ーー第二章 生まれ変わりーー



目を覚ました瞬間、彼女はまるで海の底に沈んでいたかのようだった。

手も足も、まだ上手く動かない。けれど耳には誰かの声が、温かく流れ込んでくる。


目を開けると、そこには――光があった。

それは祠で見た、あの白く乾いた光ではない。

もっと柔らかく、深く、母の掌のような温度を帯びた光だった。


「……目を、覚ましたの? エリン」

そう呼ばれて、彼女は初めて自分の名前を思い出した。


この世界には、魔法があった。それは祈りに似ていた。

風にお願いすれば枝が揺れ、水に語りかければ杯が満たされた。誰かを想えば火が灯り、微笑めば草花が咲いた。


魔法はこの世界において特別なものではなく、空気のように存在していた。

けれど、誰もが自在に使えるわけではなかった。


「エリンは、魔法の風をよく知ってるねぇ」と、村の老婆が言った。

確かに彼女は、不思議なほど魔法に馴染んでいた。学んだわけでも、練習したわけでもない。それはあたかも、彼女自身がこの世界の理と響き合っているかのようだった。


エリンが生まれ育ったのは、ミルダ村という小さな村だった。

ひらけた丘に点在する赤い屋根。日が落ちると遠くの森からふくろうの声が届き、朝には必ずパン屋の煙突から白い煙がのぼった。


父は穀物を育て、母はチーズを作った。兄たちは薪を割り、妹は泉の魚を追いかけて笑った。そして彼女も、笑った。


その笑顔が、誰に教わったわけでもなく、けれど確かに「エリン」という名の人生の中に、根を下ろしていた。ときどき、夜が深くなってから彼女はひとりで窓辺に腰かけることがあった。


月の光を見ていると、心の奥がひどく静かになった。

なぜだろう――と、彼女はときどき思った。

なぜ自分は、この世界がこんなにも懐かしいと感じるのだろう。


村には旅の魔法使いが時折やってきた。彼らは火を操り、空を裂き、雨を呼ぶ術を知っていた。


あるとき、年老いた魔術師がエリンを見て、目を細めた。

「君の魔法は……風の流れを読んでいるんじゃない。風そのものになっている」

エリンは首をかしげた。


けれど、言われてみればそうかもしれなかった。水に願うと、水は答えた。火に呼びかけると、火は優しく頬を撫でた。それは、命令でも契約でもなかった。

もっとずっと、静かな共鳴だった。


春が過ぎ、夏が巡り、冬を越えて、また春が来た。

季節の輪のなかに、エリンの身体も心も、ほどけるように溶けていった。


この世界には、傷がなかった。飢えも、病も、争いも、どれもどこか遠い物語の中の出来事のようだった。そう、まるで夢のようだ。


けれど夢ではない。

パンの香りも、薪の温もりも、兄の声も、すべて確かに存在する。その確かさのなかで、エリンは思った。

「私は、もう大丈夫なんだ」

かつての名は、霧の向こうに消えていった。


あの白く乾いた祠の光は、もうどこにもなかった。


今はただ、エリンという名の女の子が、朝露の中で靴を履き、風に髪をとかし、魔法をうたうのだ。


ある晩。

冬の終わりの空気のなかで、ふと彼女は、耳の奥に小さな音のようなものを感じた。

それは声ではなかった。

けれども、どこかで聞いたことのある“沈黙”だった。

まるで誰かが、自分の名を呼ぼうとしてけれどその直前で、諦めて口を閉じたような、静寂。


その夜、エリンは久しぶりに夢を見た。

夢のなかで、ひとつだけ、白い扉があった。

手を伸ばそうとしたとき、扉は音もなく、ふいに開いた。

そして、その向こうには――


朝、目覚めたエリンは、何も言わなかった。

ただ、窓の外に広がる丘と空と森を見て、

静かに、そして深く、息を吸った。

それはまるで、この世界にもう一度、生まれなおすための呼吸のようだった。



ーー第三章 幸福という名の回廊ーー



朝の空気には、必ず音がある。

鶏の声。薪の割れる音。遠くで水を汲む桶の音が、風に乗って届く。エリンが暮らすミルダ村では、日々の音が目覚まし代わりだった。


誰もが陽が昇る前に起き、土に触れ、火を起こし、食卓を囲む。

「パン、まだ焼けてないの?」

そんな声が聞こえてくる頃には、彼女の家の台所にも、香ばしい匂いが満ちていた。薪の火にくべられた小さな窯のなかで、母がこねた生地がふくふくと膨らむ。


焦げた麦の端が少しだけ苦くて、そこがまた美味しい。

「今日はチーズもあるよ」

兄のノイがそう言って切った白いかたまりは、母が夜な夜な寝ずに撹拌し、塩で整えたものだった。

よく見ると表面に小さな気泡があって、それは彼女にとっては宝石のように見えた。


午後には、畑に出る。

エリンの家は麦と豆を作っていた。


足元にしゃがみこみ、豆の茎をそっと撫でると、葉の裏には小さな青虫がとまっていた。手で摘むと、にゅるりとした感触が指に残る。

「うえぇ……」

エリンがそう顔をしかめると、兄たちが笑った。

「平気だって、エリンの魔法なら、虫くらい眠らせられるだろ?」

その声に、彼女は指先で魔力の風を巻き起こす。風はそっと虫を包み、どこかへ運んでいった。

「ね、やっぱりエリンの魔法ってちょっとすごいよな」

そんな風に言われるのは、もう慣れていた。


夜になれば、村の広場で灯りがともる。

ひと月に一度のいちでは、各家から手作りの品が集まり、誰が決めたわけでもないのに、ちょうどよく物々交換が済むようになっている。


「エリン、来てたかい」

市で出会う誰もが、彼女に声をかけてくれた。

野菜の籠を持った老婆。魚の干物を吊るした若い夫婦。子を背負いながら笑う隣家の娘。

その一つひとつが、エリンには心地よかった。


人の重さ。火のにおい。地面のぬかるみ。

指先に残る粉の感触。

――全部、ほんとうに“生きている”と思えた。


ある日、旅の魔術師が村を訪れた。

灰色の外套に身を包み、少し癖のある口調の男だった。

彼は村の子どもたちに火の出し方や、風の結び方を教えながら、ふとエリンの魔法を見て立ち止まった。


「君は……願っていないね?」

「え?」

「普通は、魔法を使うとき、何かを“こうなってほしい”と願うものさ。でも君は、ただ“それがそこにある”ように振る舞っている。……まるで、自分の身体の一部みたいに」


エリンは答えなかった。

ただ、握った指先をそっと開くと、そこに小さな光が灯った。

火ではない。熱もなく、ただ、ふわりと浮かんだ光。

魔術師はそれを見て、しばらく何も言わなかった――


春が来た。

丘の桜がいっせいに花を咲かせ、草花は目覚め、川は雪解け水を運び、村中が目を細める季節。

エリンは草のうえに寝転び、空を仰いだ。

太陽はまっすぐで、風は歌い、雲はあまりにも白かった。


「幸せ、だなあ……」

誰にともなく、そう言葉がこぼれた。

声にすることで、はじめてそれが本物だと実感できるような気がした。

ほんとうに、わたしは――


その晩。

再び夢のなかで、彼女はあの“白い扉”の前に立っていた。

前よりも近く、手が届きそうな距離。

そこに風はなかった。音もなかった。

代わりに、不思議な既視感があった。

――ここは、知っている。

彼女は、扉には触れなかった。

ただ、その場で静かに立ち尽くしていた。


そして、目が覚めたとき――


彼女の頬には、一筋の涙が流れていた。

その日の夕暮れ、彼女は家族の食卓にいた。

皆で焼きたてのパンをちぎり合い、父が野菜スープをおかわりして、兄が干し肉の切れ端を妹に渡した。


エリンも笑った。

とびきり明るく、心から。

そう、これが“生きる”ということ。

彼女は、何も疑わなかった。

たった今この手でちぎったパンのぬくもりが、何よりも確かなものなのだ。



ーー第四章 終焉の記憶 ーー



秋が、何度巡っただろう。

木々が金の雨を落とし、空に白い鳥が弧を描き、かつて子どもだった者たちが、今は農具を持ち母となり父となり、村の輪は静かに確かに広がっていた。


エリンもまた、そのなかにいた。

歳を重ねることに、彼女は特別な感慨を抱かなかった。

ただ朝が来て、パンを焼き、畑を耕し、火を起こす。


そんな日々が、やわらかな水のように、ひとつひとつ重なっていった。


夫となったのは、幼なじみのレオだった。

快活でまっすぐで、誰よりもエリンの笑顔を大切にする男だった。


二人の間には、娘が生まれた。

その子の名はリサといった。

小さな指。はにかむような声。

母の髪を編み、父の背中にしがみつく、その無垢な眼差しは、あの時の自分・・・

この世界に来たばかりの頃のエリンに、どこか似ていた。


ある年の冬のこと。

夜中にふと目を覚ますと、隣に寝ていたレオが、静かに布団から出ていく気配があった。

つられて身を起こし縁側に出ると、彼は雪の降る空をじっと見上げていた。


「……何か、考えてるの?」

「いや。……たださ、」

そう言って彼は、ぽつりと呟いた。

「こんなに穏やかで、幸せで、何も問題が起こらなくて――本当にいいのかなって、たまに思うんだ」


エリンは、返す言葉を持たなかった。

ただその言葉だけが、やけに胸に残った。


歳月は、それでも歩みを止めなかった。

彼女の両親は静かに老い、ある春の朝に母がそして冬の夜に父が眠るように逝った。

涙は流れたけれど、不思議と悲しみに押しつぶされるような痛みはなかった。


代わりに、春はまた来た。

桜は咲き、鳥は啼き、子らは成長して巣立ち、日々はまた同じように続いていく。

繰り返しではなかった。

だが、揺らぎのない輪の中にある感覚――それだけが、歳を重ねたエリンの胸に残った。


老いたエリンは、今や村の長老として敬われていた。

魔法はまだ使えた。

だがその力に頼ることはなくむしろ誰よりも静かに、控えめに暮らしていた。

ある日、孫が訊いた。


「おばあちゃん、なんでそんなに魔法がうまいの?」

エリンは少し笑って答えた。

「きっと、生まれつき――この世界のことが、好きだったからよ」

その言葉に嘘はなかった。

本当に、彼女はこの世界が好きだった。


家々の赤い屋根。朝の霧とパンの香り。広場に満ちる笑い声と、炉の火のぬくもり。

それらすべてを、心から大切だと思った。


そして――ある春の日の朝。彼女は静かに、ベッドの上で目を閉じた。

誰にも知らせることのない、穏やかな旅立ちだった。

側にはレオの白髪交じりの手。

子どもたちと孫たちの声。

窓の向こうでは、桜の花がふわりと舞っていた。

痛みも、恐れもなかった。


まるで、あの祠の扉をくぐったあの時と同じように、ただ、光のなかへと歩いていくような感覚だった――
























彼女は再び目を開いた。


あたりには何もない。床も、壁も、空もない。

あるのはただ、沈黙と、白。

立っているのか、浮いているのかさえわからない。

けれど、そこで彼女はそこで一つのことを“理解”した。


――あの白い扉。

夢のなかで何度も見た、それ。

この世界が始まるよりずっと前に、最後に見たそれは・・・


「……これは、夢?」


誰にも届かぬ問いに、誰も答えなかった。

けれど確かに、心の奥底に“響き”があった。


違う、と。


これは夢ではない。

これは、“始まり”だったのだと。

世界は、そこから始まった。

幸福も、風も、村も、魔法も。

それらはすべて、白の奥にある“扉の向こう”から生まれたものだった。


そして、それを生んだのは――

――そうか、思い出した


思い出してしまった。


自分は鈴だったことを。祠に捧げられた器だったことを。信仰に根差した存在だったことを。そしてこの世界が、誰かの夢でも祈りでもなく自分自身の無意識が創り出した、閉じた光だったことを。


世界は美しく、整っていた。

幸福に満ち、争いも飢えもなかった。


けれどそれは、誰かの願いの先ではなかった。

自分が自分のために描いた、一人きりの理想郷。それを“幸せ”と信じて生きていた。


違和を感じながら、それに目を閉じて生きていた。

けれど、エリンとしての終わりを迎えた時、再び目を開けてしまった。


彼女は、扉の前に立っている。今度は夢ではない。

白い光のなかに、ただひとつ扉がある。あまりに静かで、あまりに明瞭な存在。


エリンは、ひとつ深く息を吸い、そして――

扉が開かれ、彼女は歩み出した。



ーー最終章 光の牢獄 ーー



そこには闇も光もなかった。ただ在るだけの場所が広がっていた。時間も、空間も、形を持たず、あらゆる境界が融解した先にある――思念の海。


そのなかに、エリンは浮かんでいた。

どれほどの時が過ぎたかは分からなかった。


けれどその静寂のなかで、彼女の“内”から声がした。

「神の御心のまま・・・」

それは告げるでもなく、ただ存在としての事実だった。


「私は、鈴だった」

そう思い出したとき、祠のあの光が胸の奥で膨らんだ。そして、それがすべての始まりだったと悟る。


あの時、峠様の供物として捧げられた少女、鈴。

名を呼ばれることもなく、ただ“器”として在った魂。

その魂が祠で迎えられたとき、村人たちの祈りが形を成し、無数の無意識が溶け合い鈴を神へと成した。


人々の畏れ、不安、病、災害、飢餓――

そうした“不確定”の闇から逃れたいという根源的な無意識が、鈴という存在に力を

与え、光に満ち穏やかで永遠に崩れぬ“異世界”を創り上げた。


そこは正に、神の世界と言うに相応しいものだった。

鈴がエリンとして生きた場所は、祈りの残響が紡ぎ続ける“完成された物語”。


あの世界において魔法とは、人々の集合的無意識に干渉し実存世界を歪める力。思念の流れに触れ、意志を形にする力。


だが、エリンの力はそれを遥かに超えていた。


彼女は無意識に“触れる”のではなく、“作る”側だった。

魔法とは神の力の矮小な表れにすぎず、エリン=鈴こそがすべての原点だったのだ。


「じゃあ、私は――」


その問いに、誰も答えはしない。

なぜなら彼女自身が答えであり、世界そのものだったから。


鈴も、エリンも、もう存在しない。

実体も、言葉も、時間も持たない精神的存在――

すなわちそれが“神”という存在なのだ。


人々が恐れ畏怖する“可能性”を闇とするならば、神とはそれらから解き放たれた“光”とも言える。

一度光へと解き放たれれば再び闇へと回帰することは無い。


神は、村人たちの「不安の排除」という願いによって生み出されたものであり、再び“闇”に戻ることは、もはや許されない構造の外にある者。器から零れた水を再び器に戻し留めることは不可能と同様、不変で絶対の不可逆な摂理である。


輪廻からも、歴史からも外れた、常世の在り方。

それが、“峠様”という名の牢獄であり、彼女自身が、その檻そのものだった。


彼女はようやく気付いた。


幸福は、与えられるものではなかった。

あまりに整った幸せは、可能性を失った“死”に近い。

未決の揺らぎの中にあって、痛みも、喪失も、失敗も引き受けながら進む“選択”を連綿と紡ぐこと、それこそが実存的なものの在り方であるということを。


鈴には、もうそれができない。

闇を排した絶対的な光。すべてを知り、すべてを照らす、物語の完了者。彼女はもう、賽を振ることができない。それでも、祈りは続いくのだろう。


村の誰かがまた火を灯し、義を執り行い、器に光を注ぎ続ける。それらすべてが、この“神”を永遠とするのだ。峠様という名の信仰も、鈴という魂の牢獄を永久に支える。


消えることも、戻ることも、許されない。

それでも彼女は、静かに“思い”を持った。


「せめて、次に捧げられる子がわたしのように孤独ではありませんように」


それが、彼女に許された、唯一の自由だった。

光のなかにわずかな陰りが差した。

白の中で永遠に揺らがぬ光となった少女は、ただ静かに、静かに、生まれもしない涙の代わりに、思念の花を一輪咲かせた。


――世界は、今日も祈られている。


終わりはなく、始まりもない。

けれどそこには確かにひとりの少女が生きた記憶が、どこまでも透きとおる“ひかりの器”として、在り続けていた。


──完──

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