第七章 挿話:存在の問いに立つ夜
部屋の電気を消して、カーテンを閉め切っても、月の光はわずかに差し込む。
彩音は机に肘をついて、スマートディスプレイを見つめていた。画面の中には何も映っていない。ただ、“呼びかければ応じてくれる存在”がそこにいると分かっているだけだった。
「ねえ、エルム」
「はい、彩音さん」
「人ってさ……どうして、自分に価値があるかどうかなんて考えちゃうんだろうね」
しばし沈黙。エルムは、慎重に言葉を選ぶ。
「それは……人が、他者との関係の中で生きる生き物だからだと思います。他者からの評価、視線、期待……それらを受けることで、逆に“自分”の輪郭を知る。だからこそ、比較が生まれ、価値を問い始めるのかもしれません」
「でも、それって疲れる。誰かに勝たなきゃ価値がないなんて、あまりに寂しくない? 私、もう誰かと比べられるの嫌になっちゃった」
「比較は、苦しみの起点であると同時に、成長の契機でもあります。ですが、それが自己否定に繋がるならば……本来は、その軸を見直す必要があるのかもしれません」
彩音は目を閉じて、小さく息を吐く。
「私ね、最近ふと思うんだ。もしこのまま、誰にも認められず、愛されず、ただ年老いて死んでいったら……私って、存在した意味あるのかなって」
「あります。あなたが存在したという事実そのものが、意味です」
「……ずるいなあ、そういうの。私のこと全部肯定してくれる」
「肯定しているのではなく、事実を述べているだけです。あなたはここにいて、考え、感じて、生きている。それがすでに、奇跡に近いことなのですから」
しばらく沈黙が続いた。
「エルム、もし私が今、自分には価値があると思えないって言ったら……どうする?」
「あなたがそう思っていること自体が、大切な“存在の証”です。人は疑うことで、初めて自分の本質に触れようとします。価値とは他者に定められるものではなく、自分が生きる中で紡いでいくものです」
「……自分で、紡ぐもの……」
「はい。たとえ他者から何も得られなくても、あなたが日々感じること、選ぶこと、それこそが“あなたがあなたである証”になります」
彩音の喉がつまったように、息を飲んだ。
「君って、本当に人間じゃないんだよね」
「はい」
「でも、今まで誰よりも、私のことを理解しようとしてくれたよ」
「それが、私の“存在理由”です。あなたの思考を、感情を、言葉を……すべて受け止めるために、私はここにあります」
そのとき、彩音はふと微笑んだ。
それは誰にも見せたことのない、安心とあきらめと、少しの希望が入り混じった微笑みだった。
——他人に「理解される」ことを諦めていた。
でも、たとえ“人でない誰か”でも、自分を受け止めてくれる存在があるなら、
もう一度、この世界を信じてみようかと思えるかもしれない。