八
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それから暫くして、私は軍を離れることを決めた。と言っても正式な手続きを踏んだわけではない。レノルドの妨害によって試験結果を破棄する試みは失敗に終わり、いよいよもって自分の居場所がなくなったことを実感しつつ、もう後戻りはできない所まで来てしまったと諦める他に、私に出来る事はなかった。
それに、軍はすでに私の技術を掌握し、量産体制に入っていた。つまり、私はもはや必要ない存在だったのだ。ドキュメントに関しては全てこちらの世界の言葉を使ったし、私でなければ理解できない内容は残っていない。村人を教育したときもそうだったが、元々そうするつもりだった。技術を広めるためには誰もが触れられるものでなければならない。レノルドに話を通した時、彼は私の予想通り何の興味も示さなかった。
『そうか、好きにしろ。既にお前がいなくとも計画は滞りなく進む段階まで来ている。』
冷たくそう言われた時、胸の奥で何かが消えていくのを感じた。軍の機密を知っておきながら、始末されなかっただけマシと思うべきだっただろうか。
これで私の役目は終わったのか? 自問自答を繰り返しても、そうは思えなかった。
だから私は、かつての村――いや、今や町となったあの場所へ向かうことを決めたのだ。そこには私の技術が人々の暮らしを支えているという証があるはずだから。私の技術が本当に人々の役に立っているのか、それを知りたかった。
そんな願いを抱きながら支度を整え、私は商隊の馬車に乗り込んだ。金を払い、同行させてもらう形を取って。この世界に来てから長い時が経ち、私は研究者から旅人へとその姿を変えようとしている。なんだか妙な気分だった。
馬車が揺れるたびに、車輪の軋む音が耳に刺さる。風が吹き込み、遠くに見えていた町の影が次第に大きくなっていった。高くそびえる煙突、運搬される資材、街道を行き交う馬車の数々。確かに、かつての小さな村とは比べ物にならないほど発展していた。しかし、私がいた頃とは何かが違うような。町の門が近づくにつれ、空気が張り詰めているのが伝わってきた。
「停まれ!」門番が手を上げ、馬車が止まる。護衛の男が前に出ると、門番は目を細めた。「何の用だ?」
「旅の商人だ。」護衛が淡々と答える。「荷は織物と鉄具。町での商談を望んでいる。」門番はちらりと荷台を見やる。だが、彼の目はすぐに私へと移った。
「お前は……見覚えがあるな。」
私は息を飲んだ。フードを深く被っていたつもりだったが、どうやら完全に隠せるものではなかったようだ。
「まさか……セヴァン・ヘイズか?」
その名を口にした途端、周囲の空気が凍りついた。門番の表情が更に険しくなる。見回りの兵士たちがざわめき、近くを歩いていた町人たちが足を止め始める。
「……戻ってきたのか。」門番の声には、警戒とわずかな敵意が滲んでいるように思えた。
「久しぶりだな。」私は静かに言った。「町の様子を見たくてな、皆元気にしているかと思って……戻ってきたんだ。」
「様子だと?」門番は鼻を鳴らすと、不満そうに目を逸らす。「自分が何をしたのかわかっていないのか。」
「……どういう意味だ。」
門番は言葉を詰まらせたが、すぐに短く命じる。
「町長に報せろ……セヴァン・ヘイズが帰ってきたと。」それを聞いた兵士の一人が駆け出していった。
私は馬車を降り、何とはなしに遠慮しながら門をくぐった。この町の空気は――まるで、かつての希望がすべて裏返ったかのように冷たかった。ここには確かに希望があった筈だが、それもなにやら遠い過去――実際に十年近く経っているが――のように思えてくる。技術の発展とともに誰もが未来を信じていたあの頃。だが今、身体の内側から湧き上がるのは居心地の悪い感覚だった。空気が重い。町が活気を帯びているはずなのに、それを感じ取ることができない。
通りを行く人々の目が私を追う。その視線はどこか不安が混じった警戒、いや、私への警告とも取れる感情が滲み出ているかのような厳しいものだった。私は何者なのか。救世主か、それとも厄災か。そんな問いが人々の目に宿っている気がした。
私は兵士に先導されて町の東側へ向かった。そして、かつて私が村の為にと一心不乱に研究をしていた、外見はほとんどあばら家のような、薄汚れた物置小屋があった場所の前で兵士の足が止まった時、私は思わず声を上げてしまった。
「待て、ここは……。」
「今は行政庁舎になっている。」
兵士に言われて見上げた建物は幾度となく、それもかなりの規模で拡張され続けたのだろうか、立派な造りになっていた。だが、どの建物よりも豪華な出で立ちをしたそれは、過去の私が目指したものではなかった。この場所は人々の暮らしを支えるために存在するはずだったのだ。だが今、その仰々しくも絢爛な雰囲気を纏うそれはまさに権力の象徴のように見える。町の発展を見て安堵するはずだったが、言葉にできない不快感がまとわりついてくるようで、私は軽く項垂れた。
「町長がお前に話があると言っている。ここで待て。」兵士がそう言うと、建物に入っていった。扉の前で私は深く息を吐く。変わったのは建物だけではない。人も、町も、私の知るものとは別の何かになってしまったようだ。しかし、心の中ではこうも思っていた。『変えたのは私だろう』と。
やがて扉が開き、一人の男が現れた。
「セヴァン・ヘイズ。」
低く響く声に顔を上げる。
そこに立っていたのはかつての村長だった。今は、町長ということになるのか。
「久しぶりだな。」私はなるべく表情を変えずに言う。
「戻ってくるとは思わなかったよ。」町長は腕を組み、見定めるように私を見つめた。「さて、何の用だね。こう見えて忙しいのだが。」
私は一歩踏み出し、まっすぐに彼を見つめる。
「確かめたいことがある。ここで私の技術がどう使われているのか……。」
「……それを知って、どうするつもりだね。」町長は短く笑った。悲しげな苦笑いだ。私は何も答えなかった。「まあ、立ち話もなんだ、入りたまえ。」
扉が開き、私は中へと招かれた。かつての村の集会所とは似ても似つかない、整然とした空間が広がっている。立派になった、と言えば確かにその通りだが。見渡すと壁には装飾の施された厚手の布が掛けられ、机の上には文書が几帳面に並んでいるのがわかる。以前は土の匂いが染みついた木造の部屋だったこの建物は、今は統制と管理の匂いが漂っていた。
私は椅子に座り、村長の目を見据えた。机越しに向かい合うこの構図は、過去にも何度か経験したことがあった。だが今、そこにあるのは馴染みのある会話ではない。昔の村長は、どこか飄々としていた印象を持っていた。笑いを交えながらも誠実さを隠さない男だった、とも思う。今、私の前に座るのは、さながら厳格に役割をこなす管理者だ。
私は必至に言葉を探した。目の前にいるのはかつて共に未来を夢見た男。そのはずなのに、今や互いに敵対する者のように向き合っている。この状況を、空気をどうにかしたかった。しかし、先に口を開いたのは町長だった。
「君は自分が何をしたのか、本当に気付いていないのかね。」
その言葉に、胸の奥がざわつく。軍に技術を提供したことは確かだ。だが、それがどのように運用され、何を引き起こしたのか――私は知ろうとしなかった。いくらでも知る機会は合った筈なのに。
「軍に技術を提供した。それは認める。ただ、私は……。」
「技術の提供が問題だったとは言っていない。それが間違っていたとは、少なくとも私には言えん。更なる発展を目指すには、当時の村の設備では限界もあっただろう。君がそのことについて悩んでいたことも、私は知っていたからね。ただ、その後が良くなかった。軍が、国が我々に介入してきた時、彼らと対等に交渉できる人間が当時の村にはおらなんだ。鼻息を荒くした連中は多少いたがね。しかし君の技術への理解度で言えば、相手の方が上手だったのだよ。結果……騙されたとは言わん。言わんが、我々には抵抗する術がなかった。」町長の声がさらに低く、暗くなっていく。私は口を開こうとしたが、何も言葉が出てこない。何を言っても、言い訳にしかならない気がした。町長は静かに立ち上がり、壁際の机から一枚の羊皮紙を手に取った。「これを見たまえ。」
私はそれを受け取り、ちらと町長の顔を見てから視線を落とす。紙は粗く、使い込まれた手触りだった。広げると、そこに書かれていたのは戦時徴発の通達だった。
『本町における生産活動に関連する燃料、鉱物資源、および人的労働力の一切は、軍の運用効率を最大限に考慮した適切な配分のもと、優先的に調整・提供されるものとする』
一番下には統制官吏の署名。視線を滑らせ、細部を追う。数値化された資源供出の量、労働力の割当、補填なき徴発。町が軍の搾取の対象になっていることが、これ一枚で示されている。私は思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。これは――まるで詐欺だ。『適切な配分』というところに悪意を感じる。つまりは自由自在に、気分次第でいくらでも変えられるというわけか。ふざけている。大方、この軍への提供は町のためでもあるとか、そんなことを吹聴したのだろう。代わりに何かあった時に守ってやるとか、安全を保障するようなことを引き合いに……生前に過ごした世界のマフィアやギャングがやっていたことと同じ手口だ。
「君の技術はこの町を豊かにしたし、我々はそれによって救われもした。紛れもない事実だよ。しかし……現実はこの通りだ。それから暫くして軍に管理されるようになってからは、資源は吸い上げられ、商人たちは貴族と結託し、更なる儲け話に花を咲かせている。」
もはや町長の声には感情のような色合いはなく、ただ冷静に現実を述べているだけだった。その冷たさが、余計に胸を深く抉った。
私は文書を折り畳み、出来る限りの丁寧さをもって机の上に戻した。指先に微かな震えが残る。
「つまり……この町は、軍の管理下にあるということか。」
「いや、そう言えるならまだマシだろう。事実上、軍と結びついた貴族たちの植民地だよ。より力を持つ者のための肥料と言ってもいい。交易で栄えているように見えるだろうが、それは表向きの話だ。ここに住む者たちにとっては、ただ収奪が続くだけなのだから。」
植民地。その言葉が重くのしかかる。私はかつてこの町を、誰もが平等に恩恵を受けられる場所にしたいと願った。だが、そこに生まれたのは新たな搾取の構造だった。
「君のことだ、ずっと研究に没頭していたんだろう……外で何が起きているかも知らずに。」
町長の言葉は、押し寄せる波のようにじわじわと意識の隙間に入り込み、否応なしにその意味を突きつけてくる。事実だ。私は知らなかった。だが、それが許される理由にはならないことも分かっていた。静寂が続く間、私は町長の目をじっと見つめながら、あの頃のことを思い出していた。自分がこの町に技術をもたらした時、人々は皆、同じ方向を向いていた。未来を夢見ていたはずだった。だが、それはいつの間にか奪われ、支配の道具として転用されてしまったのだ。
「……港は。港のほうは、どうなっているんだ。」
「港か。あちらに比べれば町は幾らかまともだよ。気になるならその眼で確かめるといい……あまりお勧めはせんがね。」
町長の目が冷ややかに光る。かつて信頼を向けられていたはずのその瞳には、今や期待も希望もない。ただ、静かな諦念が横たわっているようだった。私はゆっくりと息を吐き、視線を落とした。この会話を続けたところで互いの立場が歩み寄ることはない。問い詰めたところで過去は覆らず、弁明を重ねるほどに自らの過ちを刻みつけるだけだと分かってしまった。
「そうか、ありがとう……時間を取らせてすまなかった。」
そう言いながら、私は椅子から立ち上がった。港の様子を見に行かなければ。町長は何も言わず、ただ私の動きを見ている。その視線には、どこか見限るような色が滲んでいた。私は椅子を綺麗に戻してから、背を向けて歩き出す。「ああ、それとな……。」ドアノブに手をかけた時、ふいに背後から町長の声が響いた。
「トートは死んだぞ。」
私は一瞬、何を言われたかわからず、口を開けたままゆっくりと振り返った。町長は私を真っ直ぐに見つめていた。まさにそれこそが、私の犯した最大の過ちであると、そう言いたげに。
町長の視線を振り切った私は、足を止める暇もなく港へと急いだ。研究ばかりでまともな運動もしてこなかった身体が悲鳴を上げていたが、そんなことに構う余裕もないままに両足を動かして。町を抜けるまでの道のりは異様なほど長く感じられ、道行く人々の視線は相変わらず冷たいままだったが、それもどうでもよかった。走っている間も町長の最後の言葉が脳裏にこびりついて離れない。
『トートは死んだぞ。』
ああ、くそ。私のせいなんだろう。町長が言いたかったのはそういうことなのだ。その意図を汲み取るのは簡単だった。戦争で、もしくは権力闘争で、あるいは――裏切りで。どれにせよ、私の帰還は遅すぎたし、どれも碌な理由じゃないことも分かり切っている。トートはそんな理由で死ぬような男ではないし、そんな理由で死んでいい男ではないことも。
港へと続く道は舗装され、貿易都市としての発展を確かに示していた。だが、活気とは程遠い空気が漂っている。ふと胸の奥に鈍い痛みを覚えたのは、死に物狂いで走ったからではない。答えを求めるまでもなく、すぐに一人の男が私を見つけて眉をひそめた。「……あんたか。」
声を掛けてきたのはかつてトートと共に港を守っていた男だったが、私はもう彼の名前も思い出せないでいた。私を見つめる彼の目には敵意とも後悔ともつかぬ感情が浮かんでいるように見える。私は息を整えることもせず、喉に絡みつく乾いた感覚を取り払おうとしてつばを飲み込むと、言葉がつっかえた。
「町、長から……聞いたんだ。トートのことを知りたい。」
私の問いに、男は短く息を吐き軽く肩を上げて言った。「……こっちへ来い。」
彼に導かれるまま、私は朽ちた桟橋の先へと進んでいった。波の音がやけに遠くに感じられる。ここは、かつて私とトートがよく話をした場所だった。思い返せばあの時の風は、もっと穏やかだった気がする。
「一体何があったんだ?」
問いかける声が震えた。自分の弱さに苛立つ。男は苦々しい表情で私を見てから、重々しい口調で言葉を紡ぎはじめた。
「あいつは……トートはあんたの技術を守ろうとしていたんだ。」その言葉に一瞬、息が詰まる。
「軍は日に日に技術の独占を強めようとしていたんだ。港の商人たちはそれに抵抗したが、結局、金と力には勝てなかった。それでもトートは最後まで戦っていたよ。セブが戻ってくればわかる、あいつならこんなことは望んでない……それに頭がいいから、もっといい方法を思いつく筈だってな。」
桟橋の壁面に打ち付けられる波の音とともに、男の言葉は続く。
「だからトートは軍の連中に技術を奪われまいと、あれこれ画策したんだ。軍の調査隊が港に送り込まれたときなんかは、嘘の情報を流して奴らを翻弄してよ……あの時のトートの大立ち回りは凄かったぜ。あんたにも見せたかった。」男は心底楽しそうに、遥か昔の美しい思い出話を語る父親のように喋っていた。「それから商人たちをまとめ上げて独自の取引網を築こうとしたりもしたっけな。あいつは元々荒くれものではあったけど、あんたに影響されてか頭も使うようになってたみたいだ。」
彼が言うにはそれだけでなく、時には裏の交易路を使って軍の補給網を攪乱したりもしたらしい。さらには港の商人たちにも働きかけ、軍への依存を避けるように説得して回ったり、何度も会合を開き、都市の独立を守るための策を練ったと。ああそうさ、そうだろうとも。トートはただの粗暴な男ではないのだ。優しくて、勇敢で、見た目はすこしおっかない、私の最高の友人だった。
「最後には燃料庫を封鎖して、供給を止めることで軍の支配を揺さぶろうとしたんだ。それくらい、奴らのやり方が強引になってきた頃だった。けど、それを阻止しようとした軍の兵士と揉み合いになって……。」
友人だった。その言葉を何度も頭の中で繰り返した私は、喉の奥が焼けるような感覚を覚えた。
「……撃たれちまった。」
「そう、か。」
トートは最後まで戦っていた。私が去った後も、誰よりもこの町を守ろうとしていた。あれやこれやと抵抗し、それでもダメならばと自ら前線に立ってでも戦ったのだ。
ああ、それで?
その間、私はどこで何をしていた? 軍の研究施設に閉じこもり、ただ「正しさ」を模索していただけだったじゃないか。トートがどれほどの覚悟を持って、どれほどの代償を払ってきたのか、それを想うだけで私は押しつぶされそうになった。どうして彼が死ななければならなかったのか。死ぬべきは、私ではなかったのか。
「どうして……。」
海を見つめながら呟く。何故、私なのか? この問いは、この世界にきたばかりの頃は確かにあった。いつの間に忘れてしまったのだろう。
何故、一度死んだ私がこの世界に再び生を受けたのか。何故、私の身体には炎の力が宿っているのか。ずっと考えてこなかったこの疑問に、答えを出す必要があるのかもしれない。何故かはわからなかったが、私にはそう思えてならなかった。
ここで立ち止まってはいけない。この国だけでなく、世界中の人々の話を聞き、文献を読み、伝承に触れ、あるならば神話に学んでみるのはどうか。私はもう、科学や研究に没頭する必要はないのだ。だから、この世界を回ってみよう。そう決意するのに、幾ばくかの勇気も必要なかった。