七
七
「セヴァン博士、そろそろ試作機の稼働に入りますよ。」
技術者の声が薄暗い空間に反響する。私は実験棟の研究室で次の試作機を調整していた。燃焼効率を上げるための微調整を施しながらも、心の奥底で焦燥感が募っていく。周りでは技術者が慌ただしく、しかし嬉々としてあれやこれやと報告している。その成果がどう使われるのかを考えると、私は素直に喜べなかった。
「……その前に調整結果を確認する。」
私は報告書を手に取り、細かく目を通した。確かに諸々の効率は上がっている。だが、それが人を救うために使われるのか、それとも新たな破壊のために使われるのか、その判断は私の手の中にはない。
「異常無し、点火準備完了。これより最終調整に入る。」
オペレーターが黙々と作業を続ける中、私は触媒の試作装置の前で立ち尽くしていた。
ここに来てから七年半に及ぶ試行錯誤の末、ようやく形になった研究の集大成だ。ナノスケールの多孔質構造が燃料を最大限に吸着し、反応速度を飛躍的に向上させる特殊触媒の開発。この技術は従来の化石燃料だけでなく、生物由来の燃料や水素、さらには空気中の微量ガスをもエネルギー源として利用可能で、地球上に存在するほぼすべての有機物や気体を燃料として転換できるため、特定の資源に依存しない。つまりは発展途上国や資源の乏しい地域でも利用できるように設計されていて、多くの人々にエネルギーの恩恵をもたらす。おまけに自己修復機能まで持ち、劣化を知らない。
だが、何よりも異常なのは——これが私自身の持つ『炎の力』をコアにしているという事実だ。私の身体からこの力の一部を切り離し、安定した状態で封じ込めることが出来るようになるまでかなりの時間を要した。
「数値が安定している。出力も問題なし……いや、むしろ高すぎるくらいだ。こいつはとんでもないぞ。」
技術班の一人が慎重に計測装置を確認する。私は制御パネルの上に置いた手を強く握りしめた。火の輝きは、まるで生き物のように脈動しながら、燃料を限りなく変換し続けている。
「燃料消費、通常の三分の一。出力は……通常比の六倍以上です。」
自らが設計したのだから、当然これもわかっていたことだが、改めて目の前にするとその力に圧倒されてしまった。馬鹿げている。これは単なる効率の向上ではない。完全なエネルギーの再定義だ。そう思える程に実験の結果は異常な数値を叩き出していた。
「まるで……地獄の業火みたいだ。」誰かが呟くのを聞いて私は目を細める。確かにそう見えなくもない。だが、それはあくまで表面的な結果でしかない。「自己修復機能も正常に作動。触媒に劣化は確認できず……。」
予想していた通りの結果だったが、それが余計に不安を掻き立てた。私は深く息を吸い、制御装置を操作する。「一旦出力を落とせ、暴走の可能性がある。」
私の指示に、技術者が慌てて操作する。火の明るさが僅かに和らいだものの、根本的な違和感は消えない。
ふいに実験室の扉が開き、重い軍靴の音が響いた。
「結果は? 各自、数値を報告しろ。」
振り返って見ると、レノルド司令官だった。相変わらず彼の顔には何の感情も浮かんでいない。視線は試験炉に向けられ、純粋に評価する目をしていた。
「燃料消費は三分の一、出力は六・二五倍、試験時間は九分四十二秒。触媒の劣化はありません。」技術者が即座に答える。
「自己修復機能は?」
「問題なく作動しています。」
そこまで聞くと、レノルドは短く頷いた。
「つまり、運用可能ということだな。」
「……待て。」私はレノルドの言葉を遮るように声を発した。「この技術はまだ試験段階だ。検証も足りない。安易に実用化すれば、世界の均衡が崩れるぞ。今のままでは――。」
すると今度はレノルドが私の言葉を遮って口を開く。
「均衡? そんなものは既に崩れているぞ、セヴァン・ヘイズ。」彼は淡々とした口調で言った。「先に手を伸ばすのが我々か、敵か。違いはそれだけだ。」
「違う! これは武器ではない――人々を救う力なんだ、レノルド!」
「力とは、武器だ。」レノルドは改めて私の言葉を容赦なく断ち切った。「そして、武器は常に先に握った者が勝つ。」
私は言葉を失った。何か言いたいが、ただ絞ったような空気が漏れるだけで何も出てこない。冷酷な司令官は試験炉を見つめながらなおも淡々と続けた。「この技術のおかげで戦争の形は変わるだろう。だが、戦争そのものが消えることはない。この先もずっとな。」
思わず握った私の拳が震えた。前にもこんなことがあった気がする。そして、聞いても仕方がないとわかっていながらも、つい訪ねてしまった。わかっていながら作り上げたというのに。
「……お前は、この技術をどうするつもりだ? レノルド。」
まるで自分への問いかけのようにぶつけた言葉だったが、それを聞いたレノルドが静かに私を見た。そこにはなんの感慨もなく、ただ軍人としての冷徹な判断があるだけのように思えた。
「世界を平和にするために使うのさ。」
そう言って踵を返したレノルドは振り返ることなく研究室を去っていった。また何かを言いたくなったが、私はやはり何の言葉も持っていなかった。目の前で揺らめく炎は、私の理想を現実に変えた証だ。それなのに、今やそれは軍の道具として扱われようとしている。
「……ふざけるな。」
抑えきれずに声が漏れた。私は実験結果が印字された用紙を睨みつける。この燃焼効率、この出力、そして自己修復機能。全ては人々の暮らしを支えるために生み出したものだ。それが、軍事技術として消費される? 戦争の力として、数多の人間を死に至らしめるために? 馬鹿馬鹿しい。救うためにあるのではなかったのか、この力は!
「博士?」実験室にいた研究班の主任が、不安げにこちらを見た。
「司令部の命令はもう下っています。試作機の段階を飛ばして、量産化に移れと。」
「そんなことはさせない。」
私は即答した。主任が驚いたように眉を寄せる。
「し、しかし……軍がこの技術を独占するのは時間の問題です。それに、あなた一人でどうにかできるものじゃ——」
「私は止めてみせる。」主任の言葉を遮るように、はっきりと言った。
私は制御パネルに手をかけた。この小さな鉄の箱に、この中に全ての情報が詰まっている。これさえあれば、どの国も、どの勢力も圧倒的な力を手にすることができるのだ。だが、それを誰かに握らせることはできない。
「私に考えがある。」
「考えって……まさか……。」
「試験を破棄するんだ。結果を記した情報も全て、量産ラインが動く前に、私の手で。」主任は目を見開いた。「それは……さすがに危険です。軍に背を向けることになります。」
「軍が管理する限り、この技術は戦争のためにしか使われないんだ。」私は歯を食いしばった。
「それだけは絶対に避けねばならない。」
主任はしばらく沈黙していたが、やがて、小さく息を吐いた。「……本当に、一度決めたら変わりませんからね、あなたは。」
変わらない。その言葉を聞いた瞬間に、また記憶の一部か何かがフラッシュバックした。
『キミが生み出した世紀の大発明は確かに暖を取るために役立つが、使い方を誤ればすべてを焼き尽くしてしまう……諸刃の剣とはよく言ったものだね。』
あの声だ。確かに聞き覚えのある声が聞こえた。それに……見た事のある夜景、部屋、黒いスーツの男たち……。砕け散って消え失せた筈の記憶の断片が、逆再生されたかのように姿を取り戻していく。
『いいか、世界の平和を保つためには、キミの理想主義は邪魔でしかないんだ。』
この声は……ヴィクター・カッセル。私を殺した男。そうだ、私はかつて――エネルギー改革を起こした。世界中の全ての人に、生きる力を授けようとして。そうすれば、平和が訪れると信じて。
だが、結果は全く違った形でやってきた。人間の欲望と腐敗で編んだ襤褸切れを纏い、権力という名の鎌を持った死神が舞い降りたのだ。そしてあの日、私は命を刈り取られた――死神曰く、世界の平和を脅かす存在として。何を間違えたのか、世界を救う筈の力はいつの間にか破滅へと導く何かに変わってしまったらしい。一体何がどうしてそうなったのか、あの時の私には考える時間も無かった。
「博士……セヴァン? どうしました?」主任が心配そうにこちらの顔を窺っている。
「私は……また間違えたのか。」
「何をです? 試験結果は上々でしたし、あなたの計算も間違っていなかった。完璧ですよ。」
そう言ってにこやかに笑う主任。完璧だって? いや、違う。間違えていたんだ。私は重大なミスを犯していた。計算に必要な前提、そうだと信じていたことが、そう思い込んでいたことが、実は大きな誤りだった。
思考の隙間に滑り込んだ一つの疑念。それは瞬く間に形を成し、抗いようのない真理となって心の奥底に沈んだ。人間は、変わらないのだ。たとえ世界が変わったとしても。その瞬間に何もかもが遠のいて、目の前から世界そのものが霧のように消えていく感覚に包まれる。私は自分がここにいる理由を見失いつつあった。