五
五
翌朝、私は村の広場に向かった。昨夜の出来事が心に残っていたが、どうせ今日もまた新しい問題が起きるのだろうという予感を胸に歩いていく。すると広場に続く道の途中で村人たち数人が集まっているのが見え、近づくと何やら言い争っている声が聞こえてきた。
「あ、セヴァンさん。俺、あの蒸気機関の使い方をもっと広げるべきだと思うんです。」
声を上げたのは若い農夫だった。彼は前の収穫期で恩恵を大きく受けた一人だ。隣には彼の妻と子どもが立ち、不安そうにこちらを見ている。
「……まあ、キミの言いたいことはなんとなくわかるよ。だが、どう広げるつもりだ?」私は足を止め、彼の話を促した。
「もっと多くの村でこの技術を使えば、皆が豊かになるはずです。でも、それには材料が必要だし、作り方も教えてくれないと……」気恥ずかしそうに言う彼の声には期待と切実さが混じっていた。
「材料と作り方があれば誰にでも作れるというものじゃない。それに、この技術をしっかりと管理しなければ、悪事に利用することを企てたり、利益を独占しようとする者が現れるだろう。まさに昨日の話がそれだ。それを防ぐ手立ては考えているのか?」
私の問いかけに、農夫は言葉を詰まらせた。その間に別の村人が口を挟む。
「だったら、セヴァンさんが全部管理してくれればいいじゃないか……あんたなら皆を守れるし。」
その言葉に、私は思わず苦笑した。「私がすべてを管理するって? そんなことをすれば、それこそ私がこの技術を独占する者になってしまうじゃないか。それではあの連中と何も変わらない。」
「……あの連中って?」
若い農夫が言った後、広場に一瞬の沈黙が訪れた。私が完全に無意識で放った『あの連中』という言葉は、恐らくはここ最近訪れる欲に塗れた商人や権力者たちを指したのだろうが、何故か私自身が誰の事を言ったのかわからなかった。
次の瞬間、脳裏に全く別の風景がフラッシュバックする。ガラス越しに見える煌びやかな夜景、部屋に騒然と並ぶ大量のスクリーン。なんだこれは、なんの記憶だ。何か、遠い昔の記憶のような……。そういえば昨日もこんなことがあったと思いながらも、私は軽く頭を振った。
「昨日の変な奴とか、な。ああいう連中のことだよ。」
私は少し混乱しながらも取り繕ったが、最早私の言葉が村人たちにどれだけ届いているのか、自信が持てなかった。
「それでも俺たちは、こいつがなかったら今も飢えてたよ。あんなのはもう二度と味わいたくないんだ……だから早く他の人達にも配るべきだよ!」農夫が再び声を上げた。「私たちは今までずっと貧しかったんです。去年の収穫期なんて、家族全員が飢えを耐えるのがやっとでした。けど、これのおかげで少しずつ希望が見えてきたんですよ……ここ以外にも困っている人達が大勢いるんです。」彼の妻も続いて訴えてくる。
彼らの言葉に、私もかつて抱いた理想を思い出した。技術が人々を救う。確かにそれを信じてここまで来た。しかし、現実はあまりにも複雑だった。
「分かった。」私は静かに答えた。「ただし、これを他の村や町に広げるなら、まず協力してくれる人を選ばなければならない。これは信頼できる者にしか渡せないものだ。それだけでなく、この技術を運用するための教育や組織が必要にもなる。いいかい、例えば、仕組みを理解し、操作や修理を学ぶための講習を開き、運用を任せる者を村の中から選び育てる仕組みを作る。最低でもそれだけの環境が整ってから、広げるための第一歩を踏み出せるんだ。」
「そんな大変な……それに誰が信頼できるかなんて……そんなのどうやって決めるっていうんだ?」
「ああ、実はそれが最も難しい。」私は深く息を吐いた。「だからこそ、まずはこの村でしっかりと運用する方法を固めてから広げるべきだと、私は思う。」
村人たちの間に再びざわめきが広がった。「あなたの言うことは正しいのかもしれないけれど、時間がかかるわ……。」と農夫の妻が呟くと、いつの間にか私の横に立っていた村長が窘めるかのように言った。
「まあ、まあ。みんな落ち着きなさい。我々がこの技術によって救われたこともまた事実。今はセヴァンの言葉を信じようじゃないか。それに……彼の言う通り、これを外へ広げるには準備もいる。慎重になるべきだろう。」そう言って、小さく頷きならが場をまとめる。私は彼らの不安と期待の間で揺れる視線を感じながら、広場を後にした。
作業場に戻る途中、ふと昨夜の商人の言葉が脳裏をよぎる。管理と保護。その答えはわかっている。彼らが言う管理とは支配のことだ。だが、そうしなければ暴走を止められないのも事実。管理と自由の狭間で、どちらを選ぶべきなのか……私が目指すべき道はどこにあるのか。技術を守りつつ、誰もが平等に使える未来を作るには、何を犠牲にしなければならないのだろうか。
「このままではいけない……。」
私は作業場の扉を開け、再び設計図に目を落とす。この技術には燃焼効率をさらに高められる箇所があった。もしこれを完成させれば、燃料の使用量を半分以下に抑えられる筈だ。これなら資源の乏しい地域にも導入が可能となる。しかし、より燃料分子を効率的に吸着させて反応速度を飛躍的に向上させるためには新たな媒体を生み出す必要があり、それには高硬度セラミックに代わる素材と、そこから複合金属を造り出すための資源と設備が足りない。
この技術を追い求める先に何が待っているのか、答えはまだ見えず、それどころか遠くでまた商人たちの策謀が進んでいるかもしれない。それでも、進むしかないんだ。この技術が引き起こす未来に向き合うために、私は再び手を動かし始めた。
私が港に向かったのは、村での教育プログラムを考え始めて二週間が経った頃のことだった。作業場に引き籠ってあれこれ考えていたら、どうにも息が詰まってしまったのだ。気晴らしついでにトートの顔でも見ようと思い立ち、気が付けばすっかり寒くなった外の景色をぼんやりと眺めながら、やおらコートを羽織って作業場を出た。
遠くから見える港は以前よりも活気に満ちていた。商船がいくつも停泊し、岸壁には荷物を運ぶ人々の姿が絶えない。大きな船から小さな漁船まで、あらゆる船が波間に揺れ、まるで港全体が息づいているかのようだった。
「こりゃあすごいな……。」
私は無意識に呟いた。確かに海賊船を撃退してからかなりの月日が経ったが、それでもこれほどまでに復興しているとは思っていなかった。かつて燃料が枯渇し、船は朽ち果て、食料も底をつく寸前まで追い詰められた場所がここまで蘇るとは。
「セブ!」
その声に振り返ると、トートが大きく手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。私の名を愛称で呼ぶのは、今のところトートただ一人だけだ。彼の顔にはいつものように陽気な笑みが浮かんでいたが、その眼差しにはかつて以上の自信が宿っているように見えた。
「よう、久しぶりだな!」トートが私の肩を軽く叩く。「あんたが作業場に籠りっきりになってから、こっちはずいぶん忙しかったぜ。」
「見れば分かるよ。港全体が生き返ったみたいだ……すごいじゃないか。」
「へへ、そうだろ? それもこれもみんな、あんたの手助けのおかげさ。」トートは少し誇らしげに笑う。「あの船だって、今じゃしっかり修理して現役復帰してるんだぜ。」
彼が指差す先には、かつて一緒に乗り込んだ商船が停泊していた。その船体は新しい板で補強され、帆も新品のように張り替えられている。
「まさかここまで戻せるとは思わなかったよ。」私は素直に感嘆した。
「いや、あんたがもたらした技術と閃きがなきゃ無理だったさ。」トートは右手であごひげを弄りながら真剣な表情で言った。
「あの蒸気機関の仕組み、こっちでも応用させてもらってるんだ。燃料の効率が上がったおかげで動かせる船が増えたし、長距離の航海だって出来るようになった。この間なんてシクアンテ大陸まで足を延ばしたんだぜ。」
「そいつは嬉しい報告だな。」私は少し微笑んだ。
「でもなぁ、セブ。」トートの表情が一瞬引き締まる。
「港が賑わいを取り戻す一方で、新たな問題も浮かんできちまってる。」
「新たな問題?」
「ああ。商船の数が増えたのはいいが、同時に海賊も動きを活発化させてんだ。テンパーズをやっつけちまったことで、他の連中が空いた縄張りを狙ってやがる。ついこの間だって、南方の船が襲われたって話だ、もう聞いたか? 積み荷を奪われた挙句、船員が人質にされたらしい。それに……」トートは急に言葉を切って、気まずそうに視線を落とした。「それに?」私は眉をひそめながら続きを促す。復興が進む一方で、新たな脅威が生まれているのは避けられない現実なのだろう。
「なんでも、海賊船の性能がかなり上がってるらしいんだ。まるで俺達と同じ動力を積んでるかのようだったってよ。……自慢じゃねえが、あんたの技術のおかげで俺達の船はそこらの商船にゃ負けない速さを手に入れたからな。商売敵からは羨望の眼差しってやつを向けられてる。」
「なるほど。」
私はさもありなんと頷いて見せた。この村と港が技術改革によって素晴らしい力を手に入れたのは間違いない。まだこの異世界中を見て回ったわけじゃなかったが、それでもここだけの技術だと言える自信が私にはあった。だからこそトートの言いたいことはすぐに察することができた。彼らは疑いの目を向けられているのだ――技術を横流ししているのではないかと。それだけでも十分に腹立たしいが、それ以上に私が納得できなかった。そもそもこの技術は私以外に知る者はいないし、設計図は私以外の誰にも解読できない文字で書かれているだけでなく、その構造自体が特殊だ。例え盗み出されたとして、膨大な知識と時間がなければどんな専門家でも完全な再現は不可能だろう。ちなみに解読できない文字とは、私が生前に使っていた世界の文字のことだ。これは最初に思いついた安全策だった。これを考案した時には、数少ない生前の記憶が役に立ったと自分を褒めたものだ。
「なぁ……セブ、もし……いや、そんなことあるわけねえよな。でも、万が一……」トートは少し口ごもり、視線を泳がせた。「誰かがあんたの技術を売ったりしてたら……。」
「……いや、それはないだろう。設計図は私以外の誰にも解読できない文字で書かれている。例え誰かの手に渡ったとしても、実用化までの時間は数十年単位で必要になる筈だ。」
「そ、そうだよな。はは……今のは忘れてくれ。」
だが、確かにそれでも完全に安全だとは言い切れない。文字に頼らずとも、設計図を見て仕組みを理解する者がいれば、技術は私が考えている以上に簡単に広まるだろう。文字や言葉は違っても、基本的な理論や法則は生前の世界と変わらないことは私も確認していたことだ。もしかすると、既に誰かがそこまで辿り着いているのかもしれない……。
「で、どうするつもりだ?」
「それを今考えてるところだよ。」トートは口をへの字に曲げて肩をすくめた。「でも、あんたがここに来たのはちょうど良かった。また力を貸してくれねえか? 正直、俺たちだけじゃどうにもならねえんだ。」
「分かった。私も久々に様子を見ようと思って来たからな。」私は頷いた。「この港が再び壊されるのを黙って見ているつもりはないよ。」
「へへっ、そうこなくっちゃな!」トートが満足げに笑い、私の背中をばしばしと叩きまくる。その力が思ったよりも強くて、私はせき込んだ。
「じゃあ、早速状況を説明するぜ。まずは船の防御を強化することから始める必要があるんだが、まあ、それだけじゃ済まねえだろう。もっと強力な……。」
意気揚々と喋り出した彼の声を聞きながら、私の頭にかつて目にした寂れた港の光景――打ち捨てられた船、働く人々の姿も消え、ただ波の音だけが響く場所だった――あの時感じた無力感が蘇る。あの光景を、もう二度と繰り返してはならない。この港を守るということ、それが私の技術に宿った使命だと信じていたから。