三
三
それから村人たちは次々と荷物を抱えながら船着き場に集まりつつあった。怯えた子どもは母親の手を離そうとせず、若者たちは笑顔を作ることで自分の不安を押し殺しているようにも見える。だが、彼らの視線の先には一つの共通した目標があった。それは――船。
船体は急ごしらえの修理が施され、エンジンの鼓動はかすかに生きていた。村の機関士や整備士たちは汗を拭いながら最後の確認作業に追われていて、それでもなおトートが声を張り上げる。
「おい、もう時間がねえぞ! 準備はどうだ、出せそうか!」それを受けた機関士の一人が顔を上げ、手を振りながら答える。「動力は問題ないが、どうにも燃料が足りねぇ。全力を出せば片道切符になるかもしれないぜ。」
「くそっ……」トートは苛立ちを隠せず、舌打ちをしながら頭をかきむしった。その姿に、周囲の村人たちも不安げな表情を浮かべる。
私は静かにトートの肩に手を置いた。
「大丈夫だ。この船を使って、まずは海賊を食い止めよう。その後のことはそれから考えればいい。」トートはしばらく黙っていたが、深く息を吐き出すと頷いた。「ああ……そうだな。こんなボロ船で挑むなんざ正気じゃねえが、他に道もねえ――まさに乗りかけた船ってやつだ、賭けてやらあ。」
船のデッキに立ち、私は港の沖に目を向けた。水平線の彼方には黒い影がじわじわと近づいている。その異様な船影は噂の海賊。かなりの重武装を見るに、その名は伊達ではないらしい。
同じ船とはいえこちらは商船。それに対して戦闘用にカスタマイズされた彼らの船は明らかに重装甲で、黒い船体には無数の傷跡が走り、甲板には金属製の装甲が不気味に輝いている。船体の左右には砲台が並び、その先端が鈍く光っていた。船首には強化された突撃用の角――衝角も備えている。マストが立ち、しかし帆は畳まれていて風を捉えてはいない……恐らく動力はこちらと同じ蒸気エンジンで、帆は非常用だろう。しかし、その巨体を動かす出力を考えれば、こちらとは大きな差があると見て間違いなかった。
「わかっちゃいるとは思うがよ……厄介な相手だぜ。」トートが私に呟くように言った。その表情には、経験に裏打ちされた恐怖が滲んでいた。甲板にいる人影が見える距離になると、その不気味な旗がはためいているのがはっきりと分かる。まるで嵐の中を彷徨う亡霊……確かにこいつは強敵だ。
そうこうしているうちに船が動き出す。村人たちが見守る中、私は静かに目を閉じ、自分の中にある炎の力を感じ取ろうとした。体の中心で確かに燃える炎の熱。知らない筈なのに知っている、不思議な感覚。この力は間違いなく私の一部だ。不安はあるが、それ以上に――何故か楽しんでいる自分がいることに驚く。大丈夫だ、この力があればやれる。内に眠る焔を最大限に引き出すことで、この戦いに奇跡を起こすのだ。
「来やがったぞ!」
トートの叫びが響くと同時に、右側面をこちらに向けた海賊船から煙が上がった。それは発射された砲弾の痕跡。海面を裂くように弧を描いた砲弾がこちらの船に迫る。
私は右手を突き出し、無言で全身の力を船に行き渡らせるイメージを広げた。力の使い方は何故か身体が覚えていた。どうすればいいのか、考えなくとも理解できる……いや、既に理解していると言ったほうが正しい。船全体をオレンジ色の淡い光が包み込むと、それに弾かれた砲弾の衝撃が船を揺らし、我々の体に爆発音が叩きつけられた。
だが、船は無傷だった。炎の力をシールドに応用出来るとみて試したが、上手くいったようだ。思った通りこの力は強い。炎と言うよりもエネルギーそのものだ。上手くコントロールすれば攻撃にも防御にも使えるであろう汎用性の高さが、私の気分を更に高揚させた。
「あ、あんた、その力は……。」トートが信じられないものを見るような表情で、口をあけたまま固まっていた。
私はそれに薄く口元を緩めて応えると、炎が手のひらから湧き上がる。どうやら、今度はトートや他の人にもハッキリと見えているらしい。それはただ燃えるだけではなく、私の意志に応じて形を変えていく。周囲の船員たちが驚きの声を上げる中、私はその力を更に集中させた。
「警告も無く撃ってくるとは……やはり守っているだけでは勝てないか。となれば、やることは一つ。攻撃は最大の防御だ。」砲撃が一時的に止まると、私はトートに向かって声を上げた。「反撃の準備だ、近づきながらこちらの状況を整えろ! エンジン全開だ!」
「り、了解だ!」頬を打たれたかのようにトートが叫び、鋭い目つきで周囲を見渡すと、船員たちに次々と指示を飛ばし始めた。彼の動きには、緊張感の中にも確かな指揮力が感じられる。皆が一斉に甲板の損傷箇所を確認しつつ次の衝突に備えて動き回った。「おいおい、燃料は残り少ねえんだ! 抑えねえと帰れなくなるぞ!」嵐のような怒号と騒音の中で機関士が困惑気味に叫ぶと、間髪入れずにトートが怒鳴り返す。「ああ、わかってる! けどよぉ!」声を張り上げながらも言葉を詰まらせたトートが私の顔を窺うように目を配らせてきた。
「心配するな、トート。この船は止まらない……それどころか私の力を使って出力を上げるからな、いつもの感覚で操舵できないかもしれないぞ。」そう言って私は再び沖に目を向ける。「あー、なんだかわかんねえが、心配ねえってよ! 構わねえ、全力でブン回せ! 死ぬよかマシだ!」
トートの叫びに呼応するように機関士が声を張り上げ、エンジンの出力を上げると、強い加速とともに身体がぐん、と後ろに引っ張られるような感覚が起きた。私は振り落とされないように足に力を入れて踏ん張りながら確信する。間違いない、私の力で出力が上がっている。これならあの海賊船にも追いつけるだろう。高揚する私の心に共鳴したのか、更に強く燃え上がった炎に包まれながら船全体が唸りを上げた。
既に海賊船の姿がはっきりと見える距離まで来ている。その瞬間、甲板にいる男がこちらに手を挙げ、命令を下しているのが視界の端に映った。その背後で、船員たちが慌ただしく砲台の向きを調整し、怒号が飛び交っている。船全体が生き物のように動き、その圧力がこちらにじわりと迫ってくるようだ。まるで嵐そのものを操るような存在感。しかし、生憎だが私にもこの村の嵐になる覚悟があった。その覚悟のせいか、私の口から興奮気味な言葉が飛び出してくる。
「テンパーズだかなんだか知らないが――今日、お前たちの悪夢も終わる。そして、私の迷いも。」
船の速度が上がる中、風が甲板を駆け抜け、海面が泡立つ音が響いた。私の指先から放たれる炎は船体を包むように形を変え、まるで意思を持った生き物のように脈動している。海賊船が放つ砲弾が再び迫るが、炎の膜がそれを弾き返すとまるで海上花火のような爆発の音が次々に響き渡った。
「くうぅっ――激しくなってきやがったぞ!」トートが叫ぶ。彼の声には焦りが混じっていたが、その目にはまだ闘志が宿っていた。
「このままでは防戦一方だな……さすがにそう易々と懐に入れてはくれないか。」私は静かに思ったことを口に出した。視線の先には、雷のようにも炎のようにも見える模様が描かれた旗を掲げた海賊船が迫っている。じりじりと近づく程に、その巨大な船体はまるで海そのものが形を成したかのような威圧感を放っていた。
海賊船の甲板では相変わらず船員たちが次々と砲台を操作し、新たな弾を装填している。彼らの動きには、一糸乱れぬ規律を感じた。遠目からでもその訓練された様子が伝わってくる。そしてその中心に立つ男、船長と思しき人物が鋭い目つきで見据えているのは船ではなく、どうやら私のようだった。
我々の船がさらに近づいていく。私は深呼吸を一つし、自らの力を制御するために意識を集中させた。この炎は単なる破壊の力ではない。恐らくは生前の研究で培ったエネルギー理論が基盤となっている筈だ。燃焼、循環、再生――幾度となく繰り返した研究をここで活用する時が来たのだと、私はそう強く念じながら腹の奥に力を込めて叫んだ。
「準備はいいか、トート!」
「ああ、いつでもいける!」
トートが力強く応じる。その声が船員たちにも伝わり、彼らの動きがさらに活発になっていく。
この船には砲などない。ただの商船だ。せいぜい銛や気休め程度の弓と矢程度が備えられているくらいで、軍艦と真っ向から立ち向かえばあっという間に海の藻屑となるだろう。――ただし、それは私が乗っていなければ、の話だ。
「全速力で突っ込む!」私が雄叫びのように叫ぶと、炎が再び強さを増し、船体全体に広がった。「つ……なんだって!?」トートが素っ頓狂な声を上げるなか、船自体が巨大な炎の矢となって敵船へ向かうかのように加速していく。
一方で海賊船も迎撃の準備を整えていたようだ。船体を左方向に傾けながら、砲台の角度が微調整され、海賊船員たちが一斉に声を上げている。なるほど、右側で撃った後は左側で撃つために方向転換し、その間に装填を済ませておけば、蛇行しながら連続で発射できるのか。だが、どうやら私の思惑に気付いた船長が鋭い目を光らせていたようだった。先ほどまで船体を傾けながら砲台の角度を調整していたと思えば、今度は真っ直ぐに前進し始めたのだ。狙いが読まれたか――こちらを真っ直ぐに見据えて立つテンバーズの船長は、嵐の中に立つ一本の矢のような男だ――その指示には迷いの欠片もなく、船全体が彼の意志で動いているように見えた。
舵を握るトートは額に汗を滲ませながら、全身を使って船を敵船の中心に向ける。「ぶつかる直前に持ち直せ……怖気づくな!」トートが自分に言い聞かせるように叫ぶ。その言葉を聞いた私はすかさず声を張り上げた。「いや、そのままだ! そのまま敵船の横っ腹へ体当たりするんだ!」
「な――ば、馬鹿言うんじゃねえ! こっちがバラバラになっちまう!」トートは狼狽し、舵を握る手が一瞬揺らいだように見えたが、しかし彼はすぐにその手に力を込め、ええいままよと覚悟を決めたように叫び返してきた。「ああ……くそっ! 分かった、このまま突っ込むぞ! もうどうにでもなれだ!」
私はすかさず船首にエネルギーを集中させた。炎が螺旋状に収束し、鏃のように鋭く尖る。しかしさすがに高出力の海賊船、凄まじい加速でその巨体をするりと動かし、船体の中心を狙った体当たりは船尾部分を掠めるように激突する形となった。
「当たった、当たったぞ!」凄まじい衝撃に体を揺らしながらトートが歓声を上げたが、その喜びも束の間、相手の船長が冷静に指示を飛ばしているのが見えた。敵船には大きな混乱もなく、冷静に、そして素早く被害状況を確認しつつ、次の砲撃の準備を行っているようだ。
「くそっ、浅い……!」私は思わず歯を食いしばりながら呟いた。
「次の一撃で決める。準備を整えろ!」私が船員たちに声をかけると、彼らもそれに応じて一斉に動き始めた。炎はさらに濃密に、そして明るく燃え上がり、船を包み込むように広がっていった。「もう一度だ!」
私はなおも叫びながら最大限の力を振り絞り、両手を広げた瞬間、燃え上がる炎が船首から槍の形を成した。まるで海そのものを裂く刃のように、オンボロの商船は狂ったような勢いで海を滑って海賊船へ一直線に突き進む。その瞬間、敵船の砲台が最後の反撃として火を吹いてきた。それでも、乗っている私自身が振り落とされそうになるほどの回頭速度で旋回しながら砲弾を防ぎつつ、全身の力を乗せた炎の槍が敵船の胴体を穿った。
「うおおおっ!」
木が裂け、金属が弾ける音を鳴らしながら、とてつもない衝撃と共に海賊船が大きく割れ、それに混じって船員たちの悲鳴が響く。
私の想定では敵船を完全に貫く筈だったのだが、実際は船体の左側面を三分の一ほど抉るような形に落ち着いた。思ったより出力が低かったか。とはいえ、こちらの船は背が低かったために敵船体の水線下を直撃したことが、沈めるには十分な損害となったようだった。
黒煙の中、敵船の船長は最後まで甲板に立ち続けていた。その背中は、敗北の中でも何かを背負う覚悟を示しているように見え、静かに片膝をつき燃え盛る炎と沈む船体を見つめながら、彼は何かを呟いた――まるで燃え尽きる灯火が最後に輝きを放つように。だが、その声は漆黒の船体とともに海に吸い込まれて消えていき、私に届くことはなかった。
「お、終わった……のか?」トートが呟く。
私はゆっくりと手を下ろし、燃え上がる船の残骸を見つめた。
「ああ、終わった。」
私の声が静かに響く。船員たちは沈黙しその言葉を確かめるように見つめ合った。そして一人、また一人と歓声が上がり、それが全体へと広がっていく。トートは甲板に座り込むと、力なく笑った。
「ったく……無茶苦茶な奴だぜ。」
漂う静寂の中、そう呟きながら空を見上げた彼の肩が、微かに震えているように見えた。
海賊船の巨体が沈む様子を見届けながら、私は甲板にへたり込んだ。身体中が疲労に覆われ、力を制御していた手が震えているのが分かる。これが自分に与えられた力の限界なのか、それともまだ先があるのか――その答えを探す余裕すら、今はなかった。
「お、おい……大丈夫か? えーと、そういやまだ名前も聞いてなかったな。」トートが駆け寄ってきた。彼の表情には戦いの緊張から解放された安堵の色が浮かんでいる。
「セヴァン。セヴァン・ヘイズだ。……私は大丈夫だよ、ちょっと疲れただけさ。」私は何とか答えたが、声は掠れていた。戦闘の疲労だけでなく、炎の力を使いすぎたのであろう反動が全身にのしかかる。そういえば他の仲間たちは無事だろうか。ふと気になってトートに尋ねる。
「そっちはどうだ?」
「ああ、船員も皆無事だ。船も、ここまで派手にやった割には大した損傷はねえよ。あんたがいなかったら……まあ、今ごろ奴らの餌になってたな。」そう言ってトートが笑う。だがその笑顔の裏には、今回の戦いがどれだけギリギリだったかを理解している者の苦渋が垣間見えた。
「それならよかった。」私は小さく息をつくと、立ち上がった。燃え残った海賊船の残骸が波に揺れながら遠ざかっていく。
「これでしばらくは安全だろう。村も少しは落ち着く時間ができる筈だ。」
「ああ、そりゃあ間違いねえ。」頷きながらトートが答える。「だがよ、燃料が不足している以上は次の動きを考えねえと。」そう続ける彼の表情は明るくない。戦いには勝ったが、村にはまだまだ解決すべき問題が山積みだった。「そうだな。」と私は頷き、改めて甲板から周囲を見渡した。
「まずは村に戻って補給を整えよう。その後のことは、それから考える。」
「おっ、村に戻るのか。へへ、安心したぜ……まさかこのまま大航海ってワケにゃいかねえからな。」トートは少し安堵した表情を浮かべてこちらを見た。
「帰ろう。」
私はそう言うと笑って、これ以上の無茶はしないという意思表示をして見せた。
夕日が沈む中、船は村の方向へ舵を取った。水平線の彼方に何が待ち受けているのかを知るには、まだ少し時間が必要だと思った。そして、今はまだその時ではないと。私は焦っていなかった。何事も準備が肝要なのは、研究をしていた前世で学んだことの一つでもある。
船の振動が疲れた身体に響く。燃料が残り少ないとはいえ、この船はまだ動けるようだ。そう考えれば、それほど絶望的でもない。むしろ、まだ希望は残っている。それに燃料の問題も私の力を使えば応急的には解決できるはずだという確信に近いものが心にあった。あの炎をエネルギーとして循環させる、私が開発した媒体さえ再現できれば。
まさか前世で実らなかった研究を活かす機会が巡ってくるとは――それが偶然なのか、何者かの意志なのか。私は特定の神を信じてはいないが、今だけは何かに感謝したい気分だった。
「今度は間違えない……。」自分に言い聞かせるように呟いたその言葉が、海風に乗って消えていった。