26. うそつき
おなかに子どもがいるとわかったとき、アサナシアは取り乱して、「赤ちゃんなんていらない、いますぐ私から取り出して殺して」と叫んだ。
俺はいったん、海での戦闘の指揮を魔物たちに任せて、アサナシアにかかりきりになった。
アサナシアが自分のお腹を岩で強打しようとしたり、ナイフで引き裂こうとしたり、冷たい湖に飛び込もうとしたり、毒をあおったり、
子どもを堕胎しようと試みるのを俺はすべて止めてまわった。
迷いは、あった。
アサナシアがこうなっているのは、俺にも一因があるのではないのか。その俺がこんなふうに止めていいのか?
それでも俺は、おなかのなかの小さな命に罪はないと感じたし、人間的な倫理観から、アサナシアの自暴自棄を止めることをやめられなかった。
俺はかつて、生きたくても生きられない命だったから。
それに、子どもを殺してしまったら、あのアサナシアはもう戻ってこない気がした。
元気で明るくて、おひさまのように笑うアサナシアが、永遠に失われてしまうと思った。
3日間、アサナシアを止めてまわりつづけて……ごはんもろくに食べず、ろくに寝ず、泣いて、体に障ることばかりを繰り返す。そんなアサナシアを見ているのがしんどくて。
4日目の朝、俺はアサナシアの両肩に手を置き、顔を見れずにこう言った。
「アサナシア、俺との子どもかもしれないだろう?」
嘘だった。
けれどアサナシアの濡れた紫色の瞳が、きらっと輝くのを見て、俺は安堵した。
嘘を嘘とわからないくらいに、もうアサナシアはおかしくなっていたのだけれど。
「でも、違ったら」
「違ったら、そのときに一緒に考えよう。
アサナシア、お腹の子に障ることは、もうやめるんだ。これは命令だ」
アサナシアはおそるおそる自分のお腹に手をあてて。愛おしそうに、お腹をさすった。
「赤ちゃん。リョーとの赤ちゃん……」
アサナシアのお腹の子は、プレイヤーとの子に決まっている。ヒロインとプレイヤーだから、子を成すことができたのだ。
けれどずっと、ずっと、ずっと、アサナシアは赤ちゃんを欲しがっていたのに。村で赤子や子どもを見かけるたびに、やさしい眼差しを向けながらも、ふっと羨ましそうな顔をするアサナシアを、俺はずっと見てきたのに。
俺はプレイヤーではないから、アサナシアの望みは叶えられない。
悔しいが、もう、これは結果だ。
現代では、他人の子を育てるなんてよくある話だ。精子提供とか、養子とか、ステップファミリーとか。子どもが生まれたら、そういうものだと割り切ろう。
もちろん、アサナシアがプレイヤーと合意の上で寝たのか、どうか。
そこに一片の愛があったのでは、と。
探るような気持ちもあったが……。
けれどプログラム上、アサナシアにはプレイヤーとの関係を断ることは、そもそも無理なのだ。
プレイヤーのもとに渡った時点で。
俺への気持ちなんて、バグなんて、忘れて戻ってくるかと思っていた。
妻のアサナシアが。
俺のことを、名前を、覚えていて嬉しかった。
けれど、そのバグのせいで、アサナシアはひどく苦しい思いをしている。
アサナシアは俺のことをマスターと呼ばなくなった。いつでも、リョー、と呼んだ。
アサナシアはお腹の子を俺の子かもしれないと思うことで、いささかの精神の安定を取り戻した。食べたり、眠るようになった。
けれど笑顔は少なかった。いつもどこか不安そうにして、俺のそばに居たがった。
アサナシアのお腹が大きくなるにつれて、マヴロス大陸にもともと住んでいる民の、アサナシアへの疑いの眼差しは決定的なものになった。
今まであたたかく接していた者たちがみな、全員。アサナシアを嫌悪して避けるようになった。まるで、宗教ルートのヒロインとなってプレイヤーと体が結ばれたことで、なにかのフラグがたったかのように。
調子が変わらないのは、クヴェールタだけだった。聞くと、
「ボクはもともとアサナシアが嫌い」
というので笑ってしまった。
俺はクヴェールタの協力を得ながら、アサナシアを見守り。子どもはアサナシアのおなかのなかで順調に育っていった。
冬の一番寒い日。
アサナシアの出産は、大変な難産となった。
流血と苦しみの末、出てきた子どもの銀色の髪を見た瞬間に、アサナシアは魔術で子どもを八つ裂きにしようとした。
それを見越していた俺は、へその緒を切り、濡れたままの子を布に包んで抱き抱え、守る。
「返して」
ベッドの上から、股から血を流し続けながら、アサナシアは俺を睨みつける。俺は、アサナシアから少し距離をとったところで、赤子を横抱きし、大切に抱き抱える。
「返せない」
腕の中で、赤子はふにゃふにゃと泣いている。
アサナシアに返した瞬間、この子は死ぬ。
俺はこの子を守らなければならない。
それが、ゆくゆくはきっと、アサナシアのためにもなるはずで――
アサナシアと俺と、この子の3人で、家族になって――
アサナシアの声が、震えている。
「話そうって言ってくれたのに」
紫の瞳が、大きく見開かれて。
大粒の涙がこぼれ落ちた。
「うそつき」




