1話
昔書いていた物語。
一話だけ残っていたので供養。続きはありません。たぶん。
父が夜逃げした。
母の遺骨を持って。
あたしは当時10歳で、いなくなってみればあんな父でも生活のためには必要な人間だったのだと痛感させられ、ひどく惨めな思いがしたのだった。
誰かに追われているとか借金があったとかではなかった。
あの金の亡者である父が、カジノで稼いで得たそこそこ豪奢な家や家財道具をそのままにただ出て行ったのだ。
もしかしたらそのうち帰ってくるかもしれない。
父親として雀の涙ほどの情はあるのかもしれないと、当時のあたしの可愛い子供心は期待を抱いたのだが、半年待っても父は戻っては来なかった。
母に執着していたあの父は遺骨だけ大事に持ち出し、夫婦水入らずの旅に出たのだろう。
あたしの可愛い子供心は見事に砕け散り、いっそ清々しいほどだった。
色々困難はあったが家は売り払った。
目薬を差した雀が笑うような話だ。
残されたのはペットとして父が飼っていた犬――みたいな生き物が2匹。
あたしは当時10歳だったけれど、その2匹は子犬そのものでうんと幼く思えたから、お姉さんの自分がしっかりしなくちゃと思ったのだった。
強調するが、当時10歳のあたしは相当頑張った。
だから苦しかった生活を何とかしようと立ち回り奔走するこの頃の夢を、今でも何度も見てしまうのだと思う。
――ボフッ!!と胸に何かが乗る。
「ワンワン!」
撃ち抜くかのような鳴き声が耳を劈き、寝返りをうって、うるさいそいつをベッドの脇へ転がした。
抗議の声はより喧しくなり、布団を頭まで引き上げて逃げ込むと、潜り切らなかったあたしのツインテールの髪の毛の片端を引っ張られる感覚がした。
眠気が勝る。目は開ける気にもならなかった。
「ワンワウッ!ワワン!」
布団の隙間を探してぐりぐりと頭を擦り付けてくるそいつは何かを必死に捲し立て喋っているようだった。
こもって聞こえるその声はリズム感の無い下手なヘビメタと言っていいような具合になり、少し笑ってしまう。
母親のお腹の中にいる赤ちゃんってこんな感じなのだろうか。
お布団の中の、なんと優しく愉快なことか。
起きるのが嫌すぎて赤ちゃんは生まれた時に泣いてしまうのかもしれない。
ヘビメタは赤ちゃんを眠りに誘う音楽なのだそうだ。
ヘビメタの超ディストーションギターやハイトーンボイスがストレスになり、脳が刺激をシャットアウトするために眠りを誘発するらしい。
そう、つまり、あたしが今眠いのはこのヘビメタわんちゃんのせいなのだ。
脳が刺激をシャットアウトしているのだ。
ふいに下手なヘビメタが止み、「ワフッ」と、落ち着いた別の声が頭の上で聞こえた。
隙間を開けて覗くと、穏やかな目をした柔らかな毛並みの大きな犬が、器用な力加減でグリーンスムージーの小さな紙パックを咥えてこちらを見ている。
父が置いて行った犬――のような生き物の1匹。
名前は丹。
妹みたいなものだ。
両耳の間には産毛に覆われた小さな2本の角があり、ただの犬ではないと一目でわかる。
まあ、冷蔵庫からグリーンスムージーの紙パックを咥えて持ってきて勧めてくる時点でただの犬ではないが。
我が妹はなんとも賢いわんちゃんなのだ。
「ありがと…わっ!」
受け取るために毛布の隙間から手を伸ばした瞬間、ずっとワンワン騒いでいたやつが顔面に向かい飛び込んできた。
背中についた小さな両翼は羽ばたくには小さいが、突っ込む勢いをつけるには十分役に立つようだった。
父が置いて行った生き物のもう1匹。名前は頂。
こちらは弟みたいなもの。
小さな翼の生えた姿はやはりただの犬とは言えない。
毛布から出て起き上がり頂の頭を撫でると、不機嫌そうな不満そうな顔をされた。
構ってほしかったわけではないようだ。
鼻をフンと鳴らした後、その長い毛並みをふわっと靡かせて部屋から出て行ってしまった。
上品な愛らしい顔をしているくせにやや柄の悪い表情をするところがたまにキズである。
子犬の時からだいぶ育ち、大型犬と言える大きさにまでなった2匹。
散歩に出れば小さな角や翼は奇形として近所の人から好奇の目で見られたり、気味悪がられたりしてしまっている。
2匹は妙に賢いので、周りからの視線を心配をした頃もあったが、本人たちは怯えも威嚇もせず堂々としているのであたしも気にしないことにした。
なぜ父と母がこの2匹を飼い始めたのか、いきさつをあたしは知らない。
ただ、小さな頃から一緒にいるこの家族を守らなくちゃとだけ強く思ってきた。
時計を見ると、そろそろバイトに行かなくてはならない時間になっていた。
窓の外は夕日で赤く輝いている。
6年前に幼い頭で必死に立ち回り辿り着いたこの小さなマンションは、バイト先の雇い主のさらに上の雇い主の持ち物である社員寮だ。
その一番偉い人が即日で強引にペット可物件にしたことで、あたしたちは保護対象として関係者内で周知され、幸運なことに寝床の確保だけでなく安全も保障されたのだった。
2階の南西向きのこの角部屋はこれから訪れる夏に射し込む西日はひどいものだが、朝昼夜と雰囲気が変わる街並みがよく見えてとても気に入っている。
文句も言わず、ずっとお座りをして紙パックを咥えていた丹の口の端から涎が垂れ落ちかけていた。
「わぁ、ごめん。」
愛くるしいのんびり顔から紙パックを受け取る。
結露とも涎ともわからないものを服の袖で拭き取り、ストローを挿す。
丹の口元も拭いてあげると、ニパっと笑うような表情をしてトコトコと部屋から出て行った。
バイト前の糖分補給と言ったら最近はもっぱらグリーンスムージーだ。
インターネットの情報によると、この紙パックタイプは加熱処理がされているために健康に良い栄養はほとんど残っていないらしいが、味が好きなのでいいのだ。
緑の液体、というところもワクワクする。
これを飲んでいると、健康に気を付けているんだねと周りから感心されるのもいいのだ。
健康に良い栄養はほとんど残っていないらしい、というのを思い出して、あたしはその度にニヤニヤしている。
携帯電話のアラーム音楽が盛大に鳴る。
父が置いて行ったあたしの名前は 蔡 思鈴。
娘のあたしに興味の無さそうだった父が、珍しく話しかけて来た時にこう言っていた。
『お前は”呼び起こす鈴”』なのだと。
アラームを止め、はぁ、と立ち上がる。
犬に起こされ、アラームでようやくベッドから下りるあたしが、何を呼んで何を起こすと言うのだろう。
勝負師として名を馳せた父の数少ない見当はずれである。
俄かに遠くで挨拶を交わす声が聞こえてきた。
ここは夜から活気づく繁華街だ。
窓の外を見ると、ちらほら点灯し出したネオンの光が夕日と混ざり、ぼんやりとした明かりに包まれていた。




