第0章〜第1節 ようこそ、こちら側の世界へ。
おや、またお会いしましたね。
そういえば、自己紹介を忘れておりました。私の名はペーレ・ディ・チェマリュ。貴方が今いる百科事典の著者であり、案内人です。
ようこそ、この珍妙な本の世界へ。今から私は貴方を連れて事典をみっちり駆け回るつもりです。多少私に振り回されるかと思いますが、その点はご容赦を。
さて、長旅の扉を押し開ける前に、これからの旅程について、ざっくりとお話ししましょう。
この旅で私たちが訪れるのは、幾つもの世界。それこそ時代も場所も価値観も全て飛び越えたような点と点を、魔術師のように転移する。ここに来たからには貴方に、何億年というほぼほぼ永遠の時間を見てきた宇宙の気持ちを体感してほしい。それは本だからできることであり、本でしかできないことです。筆者として、案内人として、どうか貴方に世界を愉しんでいただけることを願っています。
では手始めに、私の生きた空間をお見せしましょう。さあ、こちらへ──。
「シリルさん。」
「う……ん……?」
「シリルさん。教室は貴方の寝床ではありませんよ。」
「……くぅ……。」
柔らかな午後の日差しの中、私は居眠りをしていた。
中年の女教師はその笑顔を引き攣らせて注意した。
「へへっ……。」
後ろで一人の少年が怪しげな笑みを浮かべながら、そろりそろりと私の首元に腕を伸ばす。
彼の手が首裏にぴとっと貼り付いた瞬間。その皮膚の冷たさに飛び起き、仰け反った拍子に、私の頭が彼の顔面に直撃した。
「うおっ……!?」
「ぐへっ……!?」
振り向くと少年は目を見開きつつ、真っ赤な鼻を押えていた。
「あはははっ!」
「何やってんだベゼル。」
「お前ってやっぱりどこかマヌケてんのな。」
「ま、マヌケてなんかねーし!」
少年──ベゼルは必死に反論する。
「静粛に。授業中ですよ。」
そこへ頭の固い女教師が睨みをかました。
「……へーい。」
「……はぁーい。」
「ふわ〜ぁあ。」
無気力な生徒たちは、態度と同じく無気力に返答した。
授業が終わり、私はベゼルと共に彼の家へ帰った。
私は赤子の時に捨てられて、ベゼルの家で彼と一緒に養われている。彼はいわゆるやんちゃ坊主で、私によくちょっかいをかけてくる。今日の授業での悪戯もその類だ。それでも私にとって、彼は面倒見のいい兄であり、気を許せる親友で、私は彼のことが嫌いではなかった。
「ただいま。」
「母さん、ただいま。」
家に着くと、ベゼルの母親は、知らない騎士と話しているところだった。
「おかえり。」
「母さん。......その人、誰?」
小声で訊いてみると、その騎士は自己紹介を始めた。
「失礼。私はチェマリュ子爵家の騎士、バイエルと申します。」
「ししゃくけ?」
ベゼルがよく分からない顔をするので、咄嗟に目配せし、一歩、前に進み出る。
「ようこそ、騎士様。私はシリルと申します。こちらは兄のベゼルです。ご不便があればお申し付けください。」
騎士は困った顔になる。
「それは違いますよ。シリル様。貴方を迎えに来たのです。」
「ではこれにて……って、え?」
思わず、唖然とした。
「はい?今、なんと?……すみません。『迎えに来た』と聞き間違えてしまって……。もう一度お願いできますか?」
「聞き間違いではございません!貴方様はチェマリュ子爵家の消えた第四子、ペーレ様です!私はは貴方を迎えに馳せ参じました!!」
「ええっ!?」
「これよりぺーレ様にはお父君に会っていただきます。みなのもの!」
「はっ。」
ズカドカと足音を立て、騎士たちが入ってくる。私は抵抗する間もなく、強引に担ぎ上げられた。
「はぁ……ええぇっ!?」
「ちょっ!?待てよ、おっさん!?」
ベゼルは声を荒らげ、母親は呆然と様子を眺めている。
「おい、シリル!」
「ベゼル!!……っ、このっ!!」
反抗して、樽のように私を担ぐ騎士の背中を叩く。でも、いくら暴れても、その騎士はビクともしない。
私は馬車に押し込められた。
「ベゼルっ!!」
「シリルっ!……くそっ!!」
ベゼルは馬車の扉を開けようと試みるが、既に鍵が掛けられたあとだった。
「シリル!よく聞けっ!お前が誰だろうが何だろうが、俺にとっちゃどーでもいい!!ただ……これから行くところで辛いことがあれば、いつでも帰って来い。ぜってーにまた会えるから!もし俺と母さんとみんなのこと忘れでもしたら、そっちに行って、お前のことぶっ叩いてやる!!それだけ覚えとけ!」
「……っ、ありがとう。ベゼル!」
「おい、小僧!そこを退け!!」
「あっ......!」
「......ッ!」
直後、ベゼルは扉から引き剥がされ、馬が走り出した──。