はじめまして。ようこそ、読者様。
そこの貴方。──ええ、そう。あなたです。
突然、不躾ですけれども、質問をよろしいでしょうか?
貴方は、この世界がお好きですか?それとも、お嫌いで?
──なるほど。まあ、好ましいか否かは人それぞれですからね。
それでは貴方は、この世界に満ちるものが何か、ご存知でしょうか?
それは、「未知」。
もし貴方が今、既に棲まう世の多くを見たと仰るのなら、私はそれを嘘だと断言致します。
貴方もご存知の通り、この世はとある「発端」に併発する「原因」と、新たな「原因」を生む「理由」で構成されています。
先程、世界の大体を見聞したとお考えになったのなら、つまり貴方は世界の根本を既に読んだことになります。そして、その先の「原因」と「理由」を全て見尽くしたことになる。然しながら、当然、そんな人間はいない。如何なる天才でも、全てを見尽くすことは無理がある。「全知」の人間など、存在しないのです。
私は一端の学者をしている者ですが、勿論私も「全知」ではありません。寧ろ、私は「無知」な人間でしょう。
私は、世界はひとつのコップだと考えています。その世界という名のコップは常に無知の水で満ち溢れている。我々の知る理屈など、そこに垂らす一滴の果汁くらいなものです。しかもコップの外側の空間には幾つもの水の入ったコップが存在し、更にそれらが押し込められた大きな部屋が無限にある。
つまり我々は永遠に無知であるのにも関わらず、「未知」の水の中を泳ぎ、コップの外に出られるはずもないのに、コップどころかその部屋までをも飛び出そうとしている。我々は今、まさにそんなことをしているのですよ。
──話は変わりますが、以前、私はワインを片手に、友人とこんな会話をしました。先述の話を聞いた彼が言うには、「それなら、果たして私たちが学ぶことに意味があるのか?」と。対して私は「我々は、我々の“外側”を知ろうとする前に一種の生物なのだから、コップの中で生きるために、生きる術としての学びを身につけなくてはならない。それが“外”の話だろうが“中”の話だろうが、役立つために温存するのが学問なのではないか?」と答えた。すると彼は、首を少し捻って、「では私たちは何故、“外側”を追い求めようとするのだろうか?」と返しました。私はそれに答えることが出来なかった。──違和感を感じたのです。
ひとつの模範解答と言うのなら、多くはこう答えるでしょう。「人類の本能が──知識欲がそうさせるのだ。」と。
しかし、私はそれを“本能”という言葉で片付けるのには納得できなかった。雑すぎたのだ。
それから十年近くその答えを考え続け、人間の真理を知ろうとしてもなお、一向に分からない。
──さて、段々と頭の中が絡まってきた貴方。貴方が幾らこの疑問に頭を悩ませ、私に助けを求めようとしても、残念ながら私には、この泥水のような問題に肩までどっぷり浸かった貴方をすくい上げることができない。
しかし、理解へと導くロープを投げ込むことくらいはできるでしょう。今は解らずとも、世界の縮図を共に眺めることは可能なのですから。“百聞不如一見(百聞は一見にしかず)”。世界を聞いて読むより、見る方が絶対に、貴方にとって多くの経験をもたらしてくれる。
さあ、百科事典の表紙を捲りましょう。
事典の世界は、必ずや貴方に、有意義な時を与えてくれるに違いありません──。