神託ー7年前
東の海を越えなさい。
そこに氷の牢獄を救う灯があります。
しかしそれは諸刃の剣であり偽りであり真実でもあります。氷が解け消えるか、炎が燃え尽きるかは賭けとなりましよう。
ですが賭ける価値があると―――神は仰せです。
グラン・イグニシア連合国、宗主国であるイグニシア王国王家に仕える大陸の東の地を治める辺境伯の領土に未曽有の魔物が現れたのは突然の事だった。
冒険者ギルド近隣諸国合わせての大規模な討伐戦が行われ辛うじて勝利したが大きな代償を払う事になった。
魔物が現れた地はあと数年は浄化を必要とするほどに瘴気に汚染され、多くの民たちが命と住む土地を失い参戦した様々な立場の者が犠牲になった。
東の辺境伯もまた多くの部下と跡取りを失っていた。
王家に乞われ参戦したセルシウス大公ユウリスもまた大きな傷を負った一人だった。
即座に命を失う事はなかったが徐々に体を蝕む、それは呪いのように彼の体力と気力そして命を削っていた。
このままでは…と周囲が憔悴する中で神殿に密かに神託が下ろされた。
その言葉は即座に伝えられ、大公一行は王族護衛から離れ王家が用意した船で東の海を越えた先にある国へと訪れる事になった。
身分を隠し、大規模討伐戦で傷を負った貴族がしばし療養するとの名目で船を停泊させて地元の貴族や地主たちの要望に応える形で夜会が開かれるなか、大公は彼女と出会った。
主賓を他の者に代役させ大公ユウリスは貴族の一人として装っていた。
周囲は貴族の子弟や給仕などに扮した騎士たちが護衛につき、中二階にある長椅子に座り夜会の様子を見ているに留めていた。
(この会場全てを何かの拍子で氷漬けにしてしまいかねないな…)
ユウリスはそんな思いを抱きながら気だるげに長椅子に凭れる、彼はこの時34歳。
青みかかる銀髪に硬質な水色の瞳を持つ大変見目麗しい男だ年齢よりもずっと若々しい姿をしていた、だがここ数日の自身を苛む苦しみに酷くやつれてもいた。
そこに真紅の髪を結いあげ、夜闇に溶けるような深い藍色のドレスを身に纏った夫人が連れにエスコートされて会場に現れる。
多くの人々が行きかうなかで彼女はこちらを振り仰ぎ、新緑の瞳と目が合った。
彼女はこちらをみて微笑んだ、私が何者か見透かすような眼差し。
――――――彼女か、と目が合った瞬間に感じた予感に大公は従った。
「彼女を」
側にひける従僕に告げれば、程なく大公の前へと現れた、優雅にこちらへと一礼して微笑んでいる。「主人が直接ご挨拶したいと」という言葉程度で誘われただろうに、その主人が誰かなのか彼女はわかっていたようだった。
「お一人かな、ご婦人」
「ええ、今は。私よりもずっと商談が大事なようですわ閣下」
「――ふ、…今宵はラクシエラ伯爵と」
長椅子から立ち上がり、婦人へと歩みよる。今は随分と体調がよく周囲に控える従者や護衛の騎士が静かに驚いていた、ユウリス自身もそれは同じだったが。
それを億尾にも出さず、彼女へと手を差し出し軽く手を添えられれば、手の甲へと口付けるよう頭を垂れた。
「承知いたしましたラクシエラ伯爵様、私のことはどうぞフレイヤとお呼びください」
しばしユウリスはフレイヤと歓談しその場ではそのまま別れた。
彼女はこのパーティに知人の男のパートナーとして訪れていたこと。
男が熱を上げているだけでその後はあっさりと別れていること。
夫を亡くしているが喪中であること。
子供が一人いること、など普段の彼女の噂やらは瞬く間に調べ上げられた。
「…一筋縄ではいかない女のようだな」
ここ数日で集めた情報はなかなかに刺激的だった。
その後も何かと彼女との交流を持った。
ただ食事をしたり、茶を飲んだり世間話のように世情の話からこの国の現状に平民のゴシップまで―――
少々質の悪い噂を流される程には性質の悪さがあったが彼女はユウリスの前では従順で聡明な女性として振る舞っていた。
当初難色を示した者もいたが、目に見えて大公の体調が良い日が続いた、彼女が側にいると症状が軽減することが分かるととたんに掌を返していた。
その日も長年付き従う侍従長と補佐官などで話し合いの場を持っていた。
「あれが私の灯か、劫火と言われた方が納得するぞ」
「毒を以て毒を制す、とも申します」
「そちらのがしっくりと来るな」
「閣下、もう時間も差し迫っております。宣託がありその通りにことが運んでいるように爺は思っております」
「ならばまずは客人として招き、見極めては如何でしょう」
「彼女がそれで納得しますでしょうか、到底正妻へのお迎えは……」
「今後困らぬ額の金と――爵位でも保障すればよろしいのでは?」
こちらの地位かそれとも金か…名声か彼女の目的は不明慮なのが確かに大公自身気に掛かっていた。
『恋』や『愛』などという甘やかなものではないのだけは確かだ。
恐らく彼女は「火」の加護もちだろう。又はそれに類するものか。
加護は明確には分からないものだ、神託が下りれば別だが…どこにお伺いを立てても加護を持ってます。とは確証出来る力や方法がないからだ。
だが彼女が燃え盛る火をその身に宿しているのは分かっていた。
そしてその火がユウリスのこの苦痛を和らげている事も、……現状これしか手がなかった。
「客人として招く、難色を示せばそれまで。また他に有益な手立てがあるかは今後も引き続き調査をする。
彼女には私から伝えよう。―――また、現状で妻に迎える気持ちはない。
……危惧があるのは私もそうだ、だがディートリヒは11歳だ、父としてあの子には健やかにせめて成人までの時間は自由をやりたい」
言い終えれば力を抜き椅子の背に身を預ける。
身体の奥から湧き上がる、心身共に凍えるような寒さにわずかに震える。
それでも一時期に比べれば随分と症状は柔らかい。
氷の大公と呼ばれる身でありながら、…大公は自身を蝕む【呪い】の忌々しさに自嘲の笑みを浮かべ冷たい空気をはらむ息を吐いた。
最期の狂った竜の咆哮で、ユウリスの内に孕む魔力は制御不能になったかのようだ。
此方の意思関係なくその身を蝕むように冷気が体の内からあふれ出す。
確かに私には火が必要だった、氷を溶かすほどの。
それが自分自身を焼け焦がし灰塵と化す恐れがあったとしても―――。