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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

淫乱と陰惨

トンボレイプ


 僕の町にはシャボン玉トンボというトンボがいる。

 シャボン玉トンボはその口から蜘蛛みたく粘性のある液を吐いてシャボン玉を作るらしい。

 どうしてそんな生態をしているのかは今もって生物学の偉い先生でもまだ分からないみたいだ。

 トンボが吐いたシャボン玉は空まで飛んでいく。人間の作るシャボン玉と違って割れにくくて、夕日なんかに当たるとキラキラとまるで小川を飛ぶ蛍のように空へと消えていくのだ。


 シャボン玉飛んだ屋根まで飛んだ、なんて童謡にあるがシャボン玉トンボのシャボン玉は屋根よりもっと高く飛ぶ。空の果ての気流に乗せられて。きっとあのシャボン玉だけでできた雲なんかもあるのかもしれない。なんて、それは僕の妄想だけれど。


 しかしながら、シャボン玉トンボはどうやら絶滅危惧種という奴らしくて、この町の固有の種類の昆虫だったらしい。


 毎日毎年と見慣れているからそんな気は全くしていなかった。まったくと言って関心が薄れていたのに、そうやってはやしたてられるとなんだか、守らなくてはいけない気分になってくる。あの赤い赤い薄野原(すすきのはら)の海の上をヨットが行きかうように飛んでいるトンボ。彼らは幼いころからの思い出で、それが無くなるのは耐えられない気がした。


 高校に上がった時。僕は家から片道三十分程度の学校に通っていた。電車で一本だ。まぁ、こんな絶滅危惧種がいるような場所ではそんな電車通学でさえちょっと珍しがられてしまう。僕の家はこの町の中核よりも少し離れた周縁地域にある。江戸か明治のころまでは僕が住んでいたところ――この町で言うところの西海岸部の方に栄えた商業街道が有ったらしいのだが、時代と共に遷移して行って、若干東部側にズレたそうだ。


 西部海岸側と中央地区を繋ぐこの一本道の電車はそれゆえに色々な風景を見せてくれる。


 海も見えることがあって、運がいいとウミネコの鳴き声とかが微かに聞こえてきて、そう言う日は雨が降らないから幸運だとか、勝手に占いの材料にしていた。まったくもって根拠はないんだけれども、生物たちの営みは人間よりもはっきりと自然を捉えているということは分かるから、きっとウミネコが鳴くのも何か自然の摂理に絡んだことなのだろうと思った。ひょっとしたら、ただ単にお腹が空いただけかもしれないが。


 この電車で家から学校とは反対側の『西茜駅』に行くと、シャボン玉トンボは見ることができるのだ。


 とある五月の帰り道、ふと生物の授業の先生にシャボン玉トンボが絶滅危惧種であると聞かされた僕は電車の中で茫然と夕日を対岸の車窓から眺めていた。その日はウミネコも泣かなくて、雲の合間合間からしか斜陽を見ることができない日だった。怪しげな夕日と灰色の雲がいい塩梅にコントラストを生み出して、天から降り注ぐ光の筋が幾重にも見えたことが不吉なほど綺麗だったと覚えている。


 その幾重にもヴェールのように折り合った光をうっとりと見ていたら、なにかがヴェールの中で煌めいた。最初は海の水面の煌めきかと僕は思っていた。しかし、その煌めきだけが上へ上へと消えずに登っていく。その内、海と空との境界線を越えて、宙へと舞い戻る天使のようにヴェールの果てへと消えてった。


 僕はその正体がはじめ何なのか分からなかった。きっと生物の先生に言われてなければ気がつかなかっただろう。きれいだったなぁと思って終わりだったかもしれない。けど、その日はその正体を推察することができたのだった。


 あぁ、アレはシャボン玉トンボが吐いたシャボン玉か。


 それで、何となく気になって、僕は自分の家に向かわずに駅を通り過ぎた。気が付けば、いつもより海が近い方へと流れ込んでいた。雲間からの夕日がタイムリミットかのようにどんどんと赤く色を変えて、光量を下げていった。


 だんだんと暗くなる景色に僕の心はかき乱された。焦燥感でいっぱいになった。

 何に間に合わないと思っていたのかは不思議とよく覚えていなかったが、その当時の僕はきっとトンボがあの夕日に飲まれて絶滅する妄想でもしていたのだろう。少年期、それも思春期の妄想力っていうのはソレが妄想だということすら忘れさせる時がある。そう言うこともあって、僕は『西茜駅』に着くや否や、薄野原へと駆けていったのだ。


 そこまでの道のりは別段遠いわけじゃない。それどころか、幼少期よりも体格は大きくなり、体力、走力ともに成長したこの肉体にとってはまったくもってキツイはずのない坂だったはずなのだが、塩気を含んだべったりとした追い風が恨めしそうに、横を通り抜けると、脚が少し鈍くなった。


 それでもここまで来たのだから、と不吉な予感を隅にやって薄野原まで駆け上がっていった。

 落陽が海の向こうに消えるかどうかというところで、野原に辿り着くことができた。


 野原には無数のトンボがいて、そこら中にフワフワとシャボン玉が浮いている。薄の丈は僕の腰よりも高い位置に来ていたが、昔は丁度頭一つ出るくらいだったのを思い出してしみじみとした。あの頃と変わったのは自分だけらしい。そこに広がる光景は何も変わらない、そのはずだった。



 ――え?



 薄が揺れた。驚いた俺は口端から乾いた驚きを零してしまった。

 薄が揺れることはごく普通のことなのだ。何しろその頭には重い綿毛がついていて、風が吹けばその穂を一糸乱れぬ振る舞いで深くお辞儀させる。だから、その揺れ動く姿から薄野原は黄金の海なんてポエティックに呼ぶ人もいた。だが、今その海の一部だけが揺れた。まるでそこには大きな鮫が影を忍ばせて隠れていたかのように。僕はその揺れの正体をじーっと探るように見入っていた。


 そのうちにもう一回薄が揺れたかと思うと、そこから大柄の少し太り気味の男が出てきた。

 僕はギョッとして息を飲んだ。


 髪型は文房具ばさみで切ったかのように乱雑な風体で、少し剥げが勝っているところもある。顔の筋肉がたるんでるのか、その目尻には皮がだぶついて皺を溜め込んでいた。顎の下の髭にはごま塩みたいにぽつぽつ白髪が混ざっている。


 なんだか妖怪みたいな男が現れたな、とそのころの僕は思った。男と僕は数秒視線を交え続けた。僕の方は目が離せなかったというべきか、離してしまっては何かいけないことが起こると思った。男の方は僕のことを値踏みしているかのようだった。奴隷商には会ったことがないが、もしいるのならあの男のような雰囲気をしているのだろう。薄野原にぽつんと突っ立っているだけで、獣のようなオーラを出している。そんな妖怪染みた悪人だろう。


 何気なしに、当然のように、逃げるべきかと考えた。本能がそうするかどうか聞いてきたからだ。でも、何もないのに逃げるのは酷いことじゃないか、見た目だけで決めつけるのは良くないという心も何故か残ってしまっていた。見た目だけじゃないはずだったのに。薄野原に潜り込んでいる男なんて妖しい以外の何物でもない。逃げるべきだった。


 そうして、自問自答しているうちに男が薄野原から姿を消していた。僕は何度か目を皿にして薄野原を見渡したけれども、あの印象的な妖怪顔はどこにも見えなかった。見えないのなら、見間違いだったのかもしれない。或いは本当に妖怪だったのかもしれない。


 そう不気味に感じた僕はトンボのことなんて忘れて、さっさと家に帰ろう。腹が減った。そんな風に振り返って帰ろうとした時、首根っこを掴まれて薄野原へと引きずり込まれた。誰がやったのかなんてそんなの考えなくても分かった。見えなくても分かった。引きずられて、仰向けに寝た時に雲に隠れた暗い空が見えた。そして、頭の方から逆転したあの男の顔も見えた。下卑た笑みを浮かべながら、涎を垂らしたソイツを見るともう悪寒どころの騒ぎではなかった。背骨から凍り付いたようになって、その一瞬のうちにどうやったら助けてもらえるだろうか? とか、殺されるかもしれない、とかいろんな思いが錯綜して僕の心臓はドクドクと鼓動を速めた。


 男は僕の頭の方からゆっくりと半周して足元の方に来た。僕は怖くて起き上がれなかった。薄野原のどっちが出口かもわからなくて、腰も抜けていた。あの時点で僕は何もできないまな板の上の鯉だった。


 呼吸をひそめながらも、速めている僕。

 その僕にいきなり男は飛び掛かってきた。僕の股の間に顔をうずめるとしきりに、スーハ―スーハーと呼吸をして匂いを嗅ぎ出したのだ。恐ろしくなって必死に抵抗した足で何度かちからづよくけっていると足首を男に捕まれて抵抗できなくされた。

 声を出して助けを呼ぼうとしたけれど、恐怖と悲しさで喉が痛んで声が出なかった。ばたつかせた両手には薄しか掴むこのがなくて、薄の束を引っ張っても抜けることはなかった。

 やがて、足首を変な方に捻じ曲げられ、その時にやっと僕は悲鳴を上げることができた。だが、それもか細くて、痛みの方に集中してしまった。足首が燃えるような痛みと熱さに襲われるのと同時に、走れなくなったことでこの男から本当に逃げられなくなったことが何よりも怖かった。


 眼を瞑って、痛みも何からも隔絶されようとした。

 暗い世界に逃げようとした。


 それでも男はそれを許さなかった。制服のベルトがカチャカチャなったかと思えば、ボクサーパンツごと降ろされて、何も知らない無垢なソコに男の厚ぼったい唇がふれた。


 ――た、助けてください……ソ、ソレ、止め、止めてください! お金あげます! お母さんにも頼みます! ご、ごめんなさい!


 唇が触れた瞬間に口の中から大蛇が出てくるような不快感と許しを求める言葉がたくさん出てきた。たくさん言った。悲鳴を上げた。誰かに助けてほしかった。けれど、僕の絶叫は男にさえも、天にさえも届かなかった。シャボン玉は空へと消えたのに、僕の必死の言葉は誰にも届かないと察したときには絶望しかなかった。男の指が今度は後ろへと回って無理やりに捻じ込まれる。

 遠くで波が崩れる音がする。大量のガラスが砂にもまれて割れるような音。


 何も感じなかった。痛みはあったが、もう何も分からなかった。


 ただ。シャボン玉になりたいと思った。

 早く弾けて死んでしまいたいと思った。


 空を飛ぶトンボの姿が目に入って、そのすぐ後に男にひっくり返されて、男の屹立したそれを突っ込まれてからは何も覚えてはいなかった。


 気が付けば、薄野原で全裸になっていた。

 トンボが腕に止まっているのが最初に目に入ってきた。体は冷え切っていて、あばらが折れているのか呼吸するのにも痛みが走った。右手で鼻に触ると血がこびり付いているのを感じる。


 夜なのか、朝なのか。


 生きているという事実に絶望するほかなかった。こんなトンボを懐かしむんじゃなかったと思った。左手に止まったそのトンボをゆっくりと鼻に置いた右手を伸ばして、捕まえようとする。

 握りつぶしてやりたかった。羽に触れて、摘まみ上げようとしたら、トンボは素早く行ってしまった。


  するりと僕から飛び立って、あのシャボン玉の吹く空へとトンボが消えていった。


 シャボン玉を吐くだけの虫になりたい。飛び去るその先に風向きの変わった風に乗って流れてきたシャボン玉を見てそう思った。

 

 こんな汚い体から魂だけをシャボン玉のように吐き出せたなら。屋根まで飛んで消えてしまいたい。


 僕はもはや僕じゃなくなった。父親すらその姿を見ると身震いを起こすほどの心的重傷を負った。警察や病院をたらい回されるときに触診されたり、眼の中を覗き込まれたり、傷跡を見られるのがとても嫌だった。見て、僕のことを憐れんでほしくなかった。それに触られるとアイツのことを思い出すから。人の指先がまるで虫の触角のように感じた。


 高校は中退した。あの事件のせいもあるが、早くこのシャボン玉の飛ぶ街から逃げたかった。あのシャボン玉はいつでも空から僕を見下ろして、僕にあの日のことを思い出させる。シャボン玉を見ると指の折れる痛みと、股下を擦る不快感を思いだしてしまう。それと、絶対にそんなことはないと思いたいのに、自分のモノがあの時の男のように思いだすたびにぎちぎちと膨れ上がるのが堪らなく嫌だった。


 1人で上京してからはそんなことを思い出すことも無くなった。加えて自慰をしなくなってから、インポテンツになったように僕のモノが首をもたげることも無くなった。


 今は雑貨屋のアルバイトをしながら河川敷近くのボロアパートの二階に住んでいる。大家さんはお婆さんだし、色んなことは回覧板で回ってくるから、人に会うこともない。


 このまま、ひっそりと川を眺めながら暮らしたい。

 そういえば昨日隣に引っ越してくる人がいると言われた。



 引っ越してくるのは、



 60代の男だそうだ。



 僕はトンボを探した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 怖い! トンボとはなんの関係もないじゃないかと思いながらも トンボを上手に使っているなと思いました [一言] 池袋の映画館で手を握られたことならあります 後で聞いたら、そういう人達御用達の…
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