番外編 オン ザ ギャラルブルブリッジ(3)
真っ暗な闇の中を俺は落下し続けていた。と言っても、真っ逆さまに落ちていた訳ではない。何か透明な滑り台の上にでも乗っているかのように滑り落ちる。右に左に湾曲しているらしく、今にもコースアウトしそうになるので、冷や冷やしながら足を突っ張る。その間、ピスケは俺の肩の上を右に左にとせわしなく移動していた。ピスケは俺をコースアウトさせないように移動しているのだと言うことが、しばらくすると分かってきた。右にコースアウトしそうになった時には右の肩に、左にコースアウトしそうになった時には左の肩に既に移動していて、パタパタと羽ばたいて俺を押し戻していた。だから、ピスケの動きを見ていれば次にどちらに曲がるのかが分かるのだ。
「おい、おまえここのコースを全部知ってるのか?」
少し気持ちに余裕が出て来た俺は、肩に乗っているピスケに問いかける。
「いいえ、こんなヘンテコなところ始めてきましたよ~」
「でも、おまえ次にどっちに曲がるのかが分かるんだろう?」
「ええ、ギンヌンガガプの匂いがしますからね~、コースアウトしたら、そこに行くんだと思います~」
そう言いながら、ピスケが右から左に移動する。次は左に曲がるらしい。ピンと伸びた羽が、力強く羽ばたいて風を巻き起こす。桃の実をしこたま食べさせておいて正解だったのだと俺は胸をなでおろした。
やがて、コツを覚えて、楽な姿勢で、しかもスピードをコントロールすることさえできるようになってきた頃、透明な滑り台はぐっと緩やかになった。
「選び主さんは、泳ぐの得意ですか?」
不安そうな顔で、ピスケが俺の顔を覗きこんだ。
「たぶん大丈夫だと思うけど……何故だ?」
「ここが終わったところに巨大な水たまりがあるみたいなんです。そこを通らない訳にはいかないんですが……」
ピスケは眉間にしわを寄せて言葉を濁す。
「どうした?」
「私、泳げないんです。羽が濡れると乾くまで飛べなくなっちゃうし……白状すると水が怖くて……」
俺は首を傾げる。モーズグズの話によると、生まれたばかりのピスケは小川で水浴びをするとかなんとか言ってなかったか?まさか、俺のせいで川にも浸からずに出てきて、泳ぎができなくなったとか?
「生まれてすぐに、裏庭のフヴェルゲルミルの泉で水浴びをするように言われたんですが、その時に足を滑らせちゃって、溺れたんです~。それ以来、水に入るのが怖くなっちゃって……」
ピスケは憂鬱そうな顔で言った。フヴェルゲルミルの泉とはユグドラシル(世界樹)の根の下にある三つの泉のうちの一つだ。
――なんだ俺のせいじゃなかった。
俺は密かにほっと胸をなでおろした。
「泳げないなら、俺に掴まってろよ」
俺の言葉にピスケはばぁっと顔を輝かせた。
「良かったですぅ。そう言ってくれるって信じてました~」
「でも、泳げないなら飛んで行けばいいんじゃないのか?」
「ダメなんです。水の底にある門をくぐらないと行けないから……」
「なんだって?そんな門、すぐに分かるのか?」
「私が選び主さんの耳を引っ張りますから、引っ張られた方に進んでくださいね~」
「なっ……」
そんな頼りない指示で大丈夫なのか?という言葉は発声されることなく、俺たちは生ぬるい真っ暗な水の中にどぼんと落ち込んだ。
視界が全く効かない。真っ暗な水中で俺は手足をばたつかせて浮上すると、一旦水面に顔を出した。顔を出した水面は真っ暗で何も見えなかった。呼吸に不自由することはなかったが、一筋の光もなく、音も、匂いさえ感じられない。ただ、ただ、圧迫感のある闇がそこにはあった。五感のほぼすべてを失って、俺は気が狂いそうになる。パニックに陥って、右や左をグルグルと見渡し叫び声を上げる。しかし、喉を越えたはずの声は、どこに吸い込まれたのか、俺の耳には届かなかった。胸が苦しくなって、拳を胸に当て、荒い呼吸を繰り返す。このままでは過呼吸なる、そう頭では思うものの、止めることができない。
その時、耳たぶがちょんちょんと右に引っ張られた。俺はふと我に返る。
――ピスケだ。あいつ、ちゃんと俺に掴まってるんだ。
途端に言いようのない安堵感に包まれた。
――よし、右だな。
少し落ち着いてきた俺は、力強く水をかいた。
ピスケの指示の通りに泳いで行くと、遥か下方に金色に輝く門が見えて来た。ピスケがせわしなく耳を下に引っ張るので、恐らくあれをくぐれと言っているのだろう。俺は胸一杯に空気を吸い込むと、耳を引っ張っているピスケにちょんとつついて合図をしてから、一気に金色の門を目ざして潜水した。
門をくぐった瞬間の、その時の気持ちをなんと表現したらいいんだろう。
すべての細胞が入れ換わってしまったような、有機物から無機物に変わってしまったような、雑音をすべて除去した単なる信号になってしまったような、そんな感じ。まったくの別人になってしまった気がした。
気づくと、あれほどまで圧迫していた闇がきれいさっぱり払われていて、薄くけぶったような乳白色のもやの中に俺はいた。
ぼんやりと佇む俺の背後から、突然、声が掛けられた。
『……尚吾?尚吾なのか?』
俺はぎくりと体を強ばらせて、ゆっくりとぎこちなく振り返る。俺を呼ぶその声が、途轍もなく懐かしく、途轍もなく温かく聞こえたからだ。
「……父さん?」
俺は、いつの間にか金色に輝く橋のたもとに立っていた。丸く弧を描くように湾曲した金色の橋だ。その弧の頂上に交通事故で死んだはずの父親が穏やかな頬笑みを湛えて立っていた。
「父さんっ!」
俺は夢中で父親目ざして駆けだした。しかし、俺が父に辿りつくよりも先に、ピスケが超高速飛行で俺を追い越して、ペタリと父に貼りついた。
「ふわぁぁぁぁ、良い匂いがしますぅぅぅ」
ピスケに貼りつかれた父が、軽く困惑した表情を浮かべる。
「おい、こら、何やってるんだ」
追いついた俺は、ピスケの羽をつまんで父親から引き剥がす。
「ははは、これが君のピスケかい?なかなかユニークな子だな」
父は大らかに笑うと、俺の掌に乗ったピスケのふっくりした頬を、指先でちょんちょんとつついた。
「父さん、会いたかった……会いたかったよ」
子どもの頃の様な、ひどく素直な言葉が零れ落ちた。言った途端に自分でうろたえてしまうほど無防備な本音だ。父は、嬉しそうに、でも少し憂いを含んだ表情で、父さんもだよと言って俺を抱きしめた。
「父さん、俺が来るって分かったの?」
「まぁね。色々なつてがあって、君がここに向かっているらしいってのを聞いたから、慌ててやってきたんだ。間に合ってよかった」
「父さん、俺……」
俺は父に謝らなきゃならないと、ずっと思っていた。父は俺の誕生日に交通事故に遭って死んだ。仕事だったのに、無理をして誕生日に帰宅しようとして事故に巻き込まれたのだ。誕生日に一緒に居てほしい、その願いを口にしてしまった俺は、父の死が自分のせいだとずっと思っていた。しかし、俺の言葉を遮って、父は言った。
「尚吾……父さん、ずっとおまえに謝らなきゃならないと思っていたんだよ。おまえと悠吾の誕生日に死んじまうなんて、なんてひどいことをしてしまったんだろうって、ずっと後悔していたんだ。父親失格だってね」
父は悲しみを湛えた表情で言った。
「父さん、それは違うよ。俺が無理を言ったから、だから父さんは……」
俺は言葉を詰まらせる。
「ほらね。おまえがそう思うだろうって、父さん、ずっと気になっていたんだ」
父親はがっくりと肩を落とした。
「……」
ふと気づくと、俺の掌から飛び立ったピスケが、再び父親に張り付いていた。
「おい~、おまえ何やってるんだよ」
「はは、もうばれているようだから、渡しておこうかな」
父親は苦笑すると、ズボンのポケットから、オレンジ色の小さなサクランボ大の木の実を取り出した。取り出した途端に、馥郁とした甘い匂いが辺りを包み込む。少し金木犀の匂いに似ているかもしれない。父はそれを俺に手渡した。それにつられたように、ピスケもついてくる。
「これは後で、ピスケに食べさせなさい。今はまだ駄目だよ。ポケットにしまっておくんだ」
「これは?」
「これはヘルヘイムに生えている特別な木の実だ。ピスケだけが食べることができる」
「何かに効くの?」
「尚吾、ここであったことは、君はすべて忘れてしまうよ。君は人間だから。だけど、ピスケはその実を食べておかないと、いつまでもここの記憶を引きずってしまう。だから、この実を食べさせて忘れさせるんだ。ピスケが後で辛いことになるからね。だからここから帰る直前に食べさせなさい」
俺は父に頷いて、木の実をポケットにしまった。
それからの時間はあっという間に過ぎた。父は自分のことは話すことができないからと、何も語ってはくれなかったが、俺たちの日常を聞きたがった。俺は、母の事、悠吾の事、俺の大学の話……色々な話を思いつくまま語った。
「おや、もう時間のようだね」
父が苦笑する。
ふと気付くと、父の指先や足先が先ほどよりもずっと薄く透明になってきているような気がして、俺は目を見張った。どんどん透明になっていく父が俺をフワリと抱きしめる。
「尚吾、母さんを頼んだよ。あの人は見かけよりもずっと繊細な人だから……」
「分かってるよ」
俺は苦笑する。
「尚吾、君はきっと忘れてしまうんだろうけど、可能な限り覚えておいてくれよ。いいかい?あの日、父さんは、君が誕生日に一緒に居たいって言わなくたって帰るつもりだったんだ。そんな大事な日に君たちと会えないなんて考えられなかったよ。だから、もう自分を責めるのはやめてくれ。いいね?」
「父さん……」
俺が絶句したその瞬間、父は風に溶け込むように霧消した。
父が触れた指の感触や、懐かしい声や、変わらぬ温かい視線を俺は忘れたくないと心底思った。ふと気付くと、ピスケが俺の肩の上で口をモゴモゴさせていた。
――?何を食ってるんだ?
俺は首を傾げる。
「お父さん、行っちゃいましたね~」
ピスケの吐息は、幽かに甘い金木犀の匂いがした。
「おいぃっ、おまえ、まさかもう食っちゃったのか?」
「だってー、あんまり良い匂いだったから、我慢できなかったんですよぉ。我慢するなんて無理ですよぉ」
俺ははぁっとため息をついて、ピスケの小さな頭を指先でコツンと叩いた。
――すぐに戻らなければ、ここの記憶が残ってしまう。こいつ、いつから食ってたんだろう。そこから後の記憶が残ってしまうんだろうか……
俺は父親の余韻を楽しむことをあきらめて、とっとと帰途につくことにした。
「おい、帰るぞ。帰り道はどっちだ?」
「はいはい!お任せくださいっ」
ピスケはクルクル回りながら匂いを嗅ぐ。やがて、ピタリと止まると、ふわりと飛び上がって、橋の欄干に着地した。
「こっち!こっちですよ~」
ピスケは欄干の下を指差す。
「ちょっと待てよ。橋から落ちたら戻れる訳がないだろう?鼻が詰まっちまったんじゃないのか?」
「そんなことないですよ。鼻の調子は絶好調ですっ。こっちからモーズグズさんの匂いがしますっ」
俺は盛大に疑いの眼差しをピスケに浴びせる。
「ちなみに、こっちに行くとどうなる?」
俺は橋の前方の端を指差す。
「こっちはヘルヘイムですよ」
「じゃあ、こっちは?」
橋の後方の端を指差す。
「そっちはギンヌンガガプです」
「こっちは?」
橋の反対側の欄干の下を指差す。
「そっちは……たぶんニブルヘイムだと思います。よく分かんないけど……」
少し自信が無さげだ。
「本当にこっちなんだな?」
俺の言葉にピスケは自信ありげに頷いた。俺はこっちだと言われた欄干に縋って、下を覗きこむ。ひどい霧で下に何があるのか、さっぱり見えない。ここまで案内してくれたピスケの嗅覚を信じるしかないらしい。俺は、ピスケを肩に乗せると、欄干の上に足を掛けた。
「おまえ、これでちゃんと次のステージに進めるんだろうな」
肩の上のピスケを見ると、すっかりくつろいだ様子で髪のほつれを直している。
「もちろんですよ~。私は選び主さんと旅をしたお陰で、レベルアップしましたからね~」
どうだか、俺は軽く肩を竦める。でも……俺は、小さく笑う。
「俺、おまえと出会えて良かったよ。もし鼻づまりで間違えて、この後ヘルヘイムに落ちたとしたって、やっぱりおまえと出会えて良かったって思うよ」
俺はピスケのぽわっとした頭を指先でクシャっと撫でた。
「も~、ちゃんと帰れますって~。選び主さんはもっと私の事を信用した方がいいですよ?」
「そうだな、おまえの事を信じてるよ」
俺は破顔して肯定すると、エイヤッと掛け声を掛けて欄干から飛び降りた。
ドサッ
背中に衝撃が走って、目を覚ます。ぼんやりした意識のまま辺りを見回すと、上からモーズグズが覗きこんで、目を丸くした。
「尚吾?大丈夫なの?」
モーズグズは良く通るアルトの声で問いかける。
「尚吾っ!しっかりしなさい。大丈夫なの?」
少し不安になった様子の母親の顔を見て、ぼんやりした頭にも、ようやく事情が掴めてきた。昨夜、俺たち親子は佐竹家のエコハウスに泊ったんだった。俺ははたと起きあがる。
「おはよう、母さん」
「おはようじゃないわよ、びっくりするじゃない。ベッドから落っこちたままぼんやりして……」
母が少しホッとした様子で、しかし怪訝そうに言った。
「いや、なんか凄くハードな夢を見てたみたいだ……ほとんど思い出せないんだけど、不思議な金色の夢だった。母さんがいて風花がいて、そして……父さんがいたよ」
そう言った俺に、母は少しはっとした顔をしてから、そう、と頷いて小さく笑った。
番外編 オン ザ ギャラルブルブリッジは、これにて完結です。お付き合いいただきありがとうございました<m(__)m>