第四十四話 ダブル☆ロスト(佐竹風花・視点)
尚吾の態度が変わったことに気づいたのは、あの事件後、二、三日経った頃だった。尚吾と連絡がとれない……それが始まりだった。電話をしても『忙しい』の一言だけ、メールを書いても無返答。尚吾の変化に私は目の前が暗くなる。悠吾君が言っていた呪いが発動したんだ、そう直感した私は、ノルウェーの悠吾君に連絡をとった。生まれて初めての国際電話だったけど、尚吾のお祖母ちゃんとは、いきなり初めての電話で英会話になったけど、私はためらわなかった。私には躊躇する余裕なんてなかったのだ。
悠吾君が語ってくれた呪いの魔法の内容は、とてもとても悲しいものだった。尚吾にひどい言葉をぶつけてしまった悠吾君もまた、同じ言葉の刃で傷ついていた。
神様は意地悪だ。誕生日に一緒にいたいと願うことなど当り前のことなのに、そんな無邪気な願いにこんな残酷な結末を用意するなんて……私はやり切れない思いでいっぱいになる。
悠吾君は言った。
『尚吾はたぶん怖いんだ。自分が親父を死なせたって思いこんじゃったから、同じ事態を招かないようにと用心してしまうんだ。だから今まで尚吾がつきあったガールフレンドで、誕生日を越えられた子がいないんだと思う。ごめんな風花、俺のせいなのに、なんのアドバイスもできなくて……あいつ頑固だからさ……俺が決めることじゃないけど……風花、辛いようならもう尚吾のことは忘れろ。おまえまで俺んちの事情で辛い思いをする必要はないよ』悠吾君は悲しそうにそう言った。
悠吾君のせいじゃないよ、それが私に言えた精いっぱいの言葉だった。誰も悪くないのに何も手だてを思いつかなかった。私は途方に暮れる。私はもう尚吾の傍にいられない存在になってしまったんだろうか?どうしたらいい?悶々と悩んでいたところに、尚吾から、数学の参考書を見つけたから取りに来ないかと連絡があったのだった。
当然、私は喜んだ。きっと私は特別で、尚吾は私を遠ざけたりしない……そう思ったから。私は嬉々として尚吾のマンションに向かったのだった。
なんて馬鹿な私。尚吾の心の闇が、どれほどのものなのかなんて知りもしないで。
二ノ宮さんからの口づけを受けながら私は泣きじゃくった。私は尚吾を忘れなきゃいけないのかもしれない。尚吾がシルクロードの彼女と一緒にいる方が安らぐというのなら、私は尚吾をあきらめるしかないのだろう。私は厄介者でしかない。絶望的な気持ちでそう思う。尚吾のことを思いながら二ノ宮さんとするキスは、その背徳的なシチュエーションが毒のように私の脳をしびれさせた。
「……二ノ宮さんっ」
私はふと我に返って二ノ宮さんの胸を押す。こんなの間違ってる。
「陸也って呼んでよ」
二ノ宮さんは私の瞳を覗きこんで囁いた。
「二ノ宮さん、駄目ですよ。私なんか二ノ宮さんが優しくする価値なんてないです」
私は二ノ宮さんの視線を受け止めることができない。俯く私の瞳を二ノ宮さんは更に覗きこむ。
「価値は俺が決めるよ。君は何も考えなくていい」
私の心を封じ込めるように二ノ宮さんは更に何度も口づけを落とした。
「風花ちゃん、陸也って呼んでよ、ほらあの時、俺が助けてあげた時みたいに……」
真っ直ぐな視線が、懇願する穏やかな声が、落とされる甘やかな口づけが、私から抵抗する力を奪っていく。
「りっ……く……やさん……」
何度も耳元で囁かれる甘い言葉に、徐々に心が麻痺していく。
「もう尚吾なんて忘れろよ。俺がいるから、風花ちゃんの傍には俺がいるから。俺が守るから……俺が忘れさせるから」
尚吾を忘れられれば楽になるのかもしれない。癒しを求めて心が流れていく。
「……陸也さん……助けて……忘れたい……尚吾のことを忘れさせて。忘れさせてよ」
いつの間にか、私は泣きながら駄々っ子のように「忘れたい」を繰り返していた。
「俺が忘れさせるから、風花ちゃんはもう何も考えないで。俺のことだけを見ててよ」
二ノ宮さんは私をぎゅっと抱きしめた。何度も何度も口づけを落とされて、ゆるゆると体が火照ってきて、体のどの部分を触れられても甘いしびれだけが脳神経に伝達される。経験はなかったけれど、もし二ノ宮さんが私を抱こうと思えば、それはいともたやすい作業だったに違いない。だけど二ノ宮さんはそうしなかった。
「私は……やっぱり子供ですか?」
突然一切の行為をやめて、ただ抱きしめたまま固まってしまった二ノ宮さんに、私は自嘲気味に問いかける。別にそうしたかったわけじゃない、だけど、誰からも子供扱いしかしてもらえない自分が……惨めだった。
「風花ちゃん、誤解しないで。君を子供扱いしてるからじゃないよ。俺は君のことが好きなんだ。君を抱きたくないと言えば嘘になるけど、俺は欲張りだから、君が心ごと欲しい。だから尚吾を忘れる為じゃなく、風花ちゃんが俺を心から愛してくれて、俺に抱かれたいと思うまで、待ちたい」
私は二ノ宮さんの気持ちを聞いて途方に暮れる。尚吾を忘れられる日が来るなんて想像がつかなかったからだ。二ノ宮さんを巻き込むべきじゃない……頭では分かっているのに、私は二ノ宮さんの腕をふりほどけないまま抱きしめられていた。
その後は、自分との闘いだった。
黒いビロードの小箱を机の引き出しから取り出す。そっと開けると中にはクリムゾンの石が入っている。私はそのネックレスを丁寧に取り出して身につけた。深紅色のガーネットが、胸から染み出した血みたいに見える。
心に怪我をしたらどうすればいいの?つける薬も絆創膏もないのに、心から染み出す血をどうやって止めたらいい?自分の部屋でひとり声を殺して泣く。
尚吾に勉強を教えてもらっていた頃に使っていた数学の参考書を取り出してみた。一通りやり終わったので、もう引き出しの中にしまってあったやつだ。七夕飾りのように色とりどりに貼り付けられた付箋紙には、尚吾の手書きのメッセージがぎっしりと書き込まれている。それを一つ一つ読み上げて行く。
『問題を良く読んだのか?』『これはひっかけ問題だぞ。引っかかるなよ』『ほら、引っかかった、ばーか』『これは良くできたな、花丸をつかわす!』『こら小学生!引き算を間違うな!』
一つ読み上げるたびに涙が一つ零れる。それを何度も何度も繰り返した。気づいたら参考書を抱きしめたまま朝を迎える、そんな夜を何度も繰り返した。いつかこれを、見ても読んでも何も感じなくなる日がくるのかもしれない、ただ懐かしいと思える日がいつかくるのだろう。そう信じて……
桃花ちゃんが直人君と別れた。それを聞いたのは最後に尚吾の部屋に行った日から一週間ほどが経った頃だった。
「嘘をついて直人君と逢っていたことが親にばれちゃったの。ここのところ、私成績が落ち気味だったでしょ?それで色々追及されて……」
そう言えば、最近、桃花ちゃんのアリバイ工作を全く頼まれていなかった。私が尚吾に会いにいつも街に行っていたからだ。私のせいだろうか?私はいたたまれなくなる。
「どうしてそれで別れるってことになるの?」
私は憤慨して問い返す。
「うちの親が激怒して、直人君のご両親に抗議するって言い出して……私、それはやめてほしいって言ったの、その代わりにもう受験が終わるまで逢わないって約束させられて……」
桃花ちゃんは、四角くたたんだハンカチの縁で涙を押えた。
「そんな……でもどうして……別れるなんて……」
「直人君にこのことを話したら、お互い受験生なんだから、その方がいいだろうって言うの。実はずっと前からそう思ってたって……」
桃花ちゃんはひどく傷ついた様子で言った。
「ひどい……」
私は絶句する。その方がいいって、ずっとそう思ってたって……それって、桃花ちゃんが受験に邪魔だってずっと思っていたみたいじゃない?
「でしょ?で、ついつい喧嘩になっちゃって……」
私はボロボロと涙が出て止まらなかった。桃花ちゃんは、恋愛ばかりにかまけていられない、と言っていた。そんな風に割り切って恋愛を楽しんでいるんだと思っていた。でもそうじゃなかったんだ、いつだって逢いたいし、逢えなければ淋しい、そしてそれは自分だけじゃないんだって言ってほしい。強がっていた桃花ちゃんが痛々しく、愛らしく、哀しかった。
「風花、泣かないで、どうしてあなたがそんなに泣くの?」
桃花ちゃんも泣き始めてしまった。私は事件のこと、尚吾とのこと、苦しい胸の内を桃花ちゃんに泣きながら告白した。
「風花……なんてこと……」
哀しかった。私たちの望みなんて、たった一人の人の心を手に入れることだけなのに……そのなんと困難で、叶い難いことか。秋の涼やかな風が吹きわたる河原の土手で、私と桃花ちゃんは手をつないだまま、いつまでも蹲って泣き続けた。
読んでくださってありがとうございます 招夏




