第二十話 ソルト☆ペッパー (一之瀬尚吾視点)
午後の講義が休校になったので、俺は自室でくつろいでいた。テーブルに置いてあったケータイが、振動しながら弧を描き始めたのに気づいて、俺はケータイを取り上げた。
『しょーご、どこ?』
風花のケータイからのメールだ。どこ?ってなんだ?俺は風花のケータイを呼び出した。
『しょーご!』
風花のキンキンした声が響いて、俺はケータイから耳を離した。離しても会話ができるくらいうるさい。
「おまえ、うるさ過ぎ。俺はまだ耳遠くないぞ!」
俺も風花に怒鳴り返す。
『迷子になっちゃったよ~、ど~しよ~』
風邪気味の母親の代わりに、父親の設計事務所まで届け物をすることになったらしいのだが、迷ってしまったらしい。父親の設計事務所は帝都大学の近くなのだという。
「で?おまえは今どこに居るんだ?」
俺が訊くと、風花はコンビニエンスストア○×店の前にいると言う。
「おまえ、それ駅から逆方向に歩いたんだよ。何時までに届けることになってるんだ?」
三時までに届けることになっていると言う。まだ一時半だ。
「じゃあ、おまえそこから動くな。そこで待ってろ」
俺は、やれやれと、ため息をつきながら部屋を後にした。
風花はコンビニの前で心細そうに立っていた。
「しょーご!どうして?ここの近くにいたの?」
五分もたたずに、俺が現れたのに驚いた様子で風花は言った。
「俺はあのマンションに住んでるんだ」
俺はコンビニの斜め前にあるマンションを指した。
「えええええ~、何この高級そ~なマンション!尚吾、部屋代を自分で稼がなきゃいけないんだって言ってなかった?」
風花のキンキン声に耳をふさぐ。
「おまえ、うるさいって」
俺の母親は父親の死後、輸入雑貨を扱う店を始めた。実家が北欧だったので、色々つてがあったらしい。もともと商才もあったのだろう、店はどんどん大きくなり店舗も増えて、今では自他ともに認めるやり手の実業家だ。
このマンションは、母親が投資目的兼社員の厚生施設として保有しているものだ。だから、俺はこのマンションの一室に、社員割引を適用してもらって格安で住まわせてもらっているわけなのだが……いくら格安とはいえ学生の身では、かなり辛い金額だ。払えなくなれば強制的に母親と同居という約束になっている。
普通の家庭ならば、それは当り前のことだと思うかもしれないが、俺の母親に関して言えば、同居する身ならば、小間使い(主夫と言い換えてもいい)、あるいはお抱え運転手で当り前という身分になる。束縛されたくなかった俺は、月々部屋代を出すことで、自由を死守しているという訳だ。
風花を部屋に入れて待たせる。俺は、風花を待たせている部屋の隣にあるベッドルームで着替えていた。部屋着のままだったからだ。
キッチンが一体化しているメインルームの他にベッドルームが付いていて、風呂とトイレは別、脱衣所もしっかり取ってあって、一人で暮らすには十分すぎる部屋だ。
「おまえ学校は?」
隣の部屋の風花に話しかける。
「今日は県民の日で、学校お休みなんだよ」
なんだよそれ。県民の日って学校休みなのか?
「尚吾こそ、なんで大学にいないの?パパの事務所が、近くまで行って分からなかったら、大学にいる尚吾に聞こうって思ってたのに~」
どこが事務所の近くなんだ、真逆に来たくせにと俺はあきれ果てつつ、午後の授業が休校になったことを告げた。
「じゃあ、ゆっくりしてたんでしょ?ごめんね~」
「いや、この後大学に行く用事があるから、そろそろ準備しようとは思ってたんだ」
俺は講義以外の用で、四時に大学に行く予定にしていた。
「すっごく眺めの良い部屋だね~」
マンションの最上階だ。そりゃ眺めはいいだろう。天気が良ければ遠くに、けぶったように富士山が見えることもある。夏には、近くの川で打ち上げられる花火大会の花火も見ることができた。花火大会の日には母親が自宅を開放してちょっとしたパーティを開き、社員をもてなすこともある。もっとも、そんな時には俺は運転手としてこき使われることが決まっているので、俺にとってはあまり嬉しいイベントではなかった。俺は着替えを済ませて部屋へ戻った。
「俺は高いところが好きじゃないんだ。だからあまり外は見ない」
「そ~ゆ~のって、猫に真珠って言うんだよ」
「それを言うなら、猫に小判、豚に真珠だろ?しかし~誰が豚だって?」
俺は握りこぶしに、はぁ~と息を吹きかける。
「豚なんて言ってないよ~、猫って言ったんじゃん」
風花が窓際から飛びのいた。
「コーヒー入れてやろうかと思ったけど、やめた」
「ええええ~、飲む飲む、砂糖とミルク入りで~」
ニパッと笑う風花を見ながら、俺は一人こっそり溜息をついた。
こいつ、一人暮らしの男の部屋に来てるんだってことを分かっているんだろうか。リラックスしすぎじゃないか?こういうことに慣れてる?いやいや、こいつのことだ、俺のことを兄貴か何かそういったものくらいにしか思ってないのかもしれない。
でも、まてよ……家庭教師でこいつの家に行く時は、かなり長い時間こいつの部屋で二人っきりだったんだし、俺のほうが考えすぎなのか?
俺はゴリゴリとコーヒーを引きながら考える。
「ねぇ~、しょーご、尚吾って写真写り良くないって言われるでしょ~」
テーブルの上に置きっぱなしにしてあった運転免許証を見ながら風花が言った。
二年前に免許証をとった時の写真は、確かに写りが良くなかった。母親が写真の上に指名手配中と書いていいかと笑ったのを思い出して、俺はむっとする。
「勝手に見るなよ!」
俺は風花から取り上げた。
「あ~、今、この顔にピンときたら……って書いてあげようと思ってたのに~」
コーヒーには塩と胡椒を入れてやろうと決意して、俺はキッチンに戻った。