第十二話 Fuuka's ☆ファースト (視点変更有)
(佐竹風花視点)
「問題はちゃんと読んだのか?」
「読んだよ!」
「いーや、理解できてないな。もう一度大きな声を出して読んでみろ」
私が作り始めた方程式の最初の数字を見て、尚吾はため息をついた。
「やだよ、そんな小学生みたいなこと!」
「おまえは小学生以下だ。小学生ならちゃんと読めるからな」
尚吾は週に一回やってきて、数学の鬼教師になる。その週受けたテストがあれば、それを徹底的に見直す。宿題があれば、それも見直す。教科書で解けなかったところがあれば、それも見直す。
尚吾はまさに「復習の鬼」と化していた。
元々、数学嫌いな人間が予習や応用や受験勉強などしても仕方がないんだから、復習さえしていれば良いというのが尚吾の意見だった。
「分からなかったところには、必ずマーカーか付箋を付けておけ」
と尚吾が言うので、その通りにしたら、教科書も参考書も絵本のようにカラフルになった。しかも、七夕飾りみたいなピラピラの短冊付きだ。七夕飾りと違うところは、それらの短冊には、願いごとではなく、尚吾が書き込む解法のヒントがびっしりと書かれていることだった。
その日、尚吾はノートパソコンを持ってやってきた。
「悪い、明日までに提出しなきゃならないレポートがあるんだ」
尚吾はそう言って、私にやるべきことを指示すると、隣でカシャカシャとキーボードを叩き始めた。いつもなら、尚吾の厳しい視線の下で問題を解かなければならないので、息詰まる想いをしていたが、今日は少し気が楽だ。それに加えて、復習の嵐の効果が出てきたらしく、私にしては、かなり速いペースで問題をクリアできるようになってきていた。
順調に問題をこなして、後一つになった時、ふと隣の尚吾に目が行った。尚吾は真剣な顔でパソコンの画面を覗き込んでいる。
翡翠色……というのだろうか、少しくすんだ深い緑色の瞳が文字を追う。
真剣な顔のパンダは、なかなか精悍だ。私は鉛筆を止めたまま見とれてしまう。
「あたっ!」
視線はパソコンに向けたまま、尚吾のチョップが飛んできた。
「全部できたのか?」
「後、一問……」
「ボケッとしてないで、さっさと終わらせろ」
尚吾は私を一瞥すると、再びキーボードを叩き始めた。
* * *
(一之瀬尚吾視点)
俺はレポートの仕上げをしながら、時々風花の手元をチェックしていた。
最初に比べると解く速度が格段に速くなった。難航したのは最初の二回程度、誤解しているところや曖昧に理解しているところを丁寧に拾い出して修正していくと、風花はすぐに改善の兆しを見せた。その他の教科は、ほどほどにできているようなので、このままなら、受験もなんとかなるだろうと思い始めている。
俺の家庭教師の期限は、数学が通常レベルになるまでということだった。この分だと、思ったよりも早く期限がきてしまいそうだ。
風花に聖ちゃんのことを訊いてみた。どうして聖ちゃんに数学を教えてもらわないのかと。
「へへへへ~気になる?」
風花は目を弧にして笑う。
「別にー」
俺は画面を見つめるふりをする。
「イブの夜の急病の友達って、女の人だった。聖ちゃんの大学の先輩なんだって。たぶん聖ちゃんは、その人が好きなんだと思う。なんかほっとけない人なんだって言ってたから……」
風花は肩を竦めた。
「……ふーん」
俺は気が抜けたような、ほっとしたような、不思議な気持ちが湧き上がるのを感じていた。
「ひどいよね~、婚約者を見捨ててさ~」
「婚約者?」
俺は目を見開く。
「そ、幼稚園の時に婚約したんだよ。ケッコンしよ~ね~ってねっ」
俺は、どっとくたびれたので、風花の頭を一発殴っておいた。
「ごめんね、尚吾君、今夜は地区の集会があるのよ。夕飯は風花と食べておいてくれる?準備はしておくから、支度は風花ができるわ。パパは九時過ぎには帰ってくると思うんだけど、集会は長引くときは長引くから……」
風花の母小春は、今日俺が到着するなりそう言った。
「それなら、今日は夕飯なしで帰ります」
「あら、風花だって料理の温めくらいできるわよ?」
小春は笑いながら言った。
「いや、そうじゃなくて……心配じゃないんですか?」
いつもは小春と風花と三人で夕飯を囲んでいた。父親は帰りが遅く、兄にはまだ会ったことがなかった。二人っきりでいると思えば、親としては気がかりだろう。
俺の言葉に、小春は小さくため息をついた。
「もし尚吾君が、風花をどうにかしようと思っていたなら、イヴの日に風花はそうされていたでしょう?あの子、詳しいことは言いたがらないんだけど、あの夜、風花を助けてくれたんですってね」
「……」
「改めてお礼を言うわ。私ね、尚吾君を信頼しているの。もちろんパパもよ」
「……」
俺はたじろぐ。俺は本当にそんなに信頼されていい人間だろうか?
「ねぇ、尚吾、いつまで話してるの?分からないところがあるんだけど……」
二階から風花が呼ぶ声がした。
「じゃ、そういうことだから」
小春はウィンクしてキッチンに消えた。
「尚吾?しょ~ご!」
さっき小春と話したことを思い出して、ぼんやりしていたらしい。風花の声に我に返る。
「も~、終わったって言ってるでしょ?」
「あ、ああ」
風花の解答をチェックして、カクリと項垂れる。
「風花、ここ……」
「へ?あり?」
式はあってるのに、計算が間違っている。単純な四則計算を間違うなんて……今度は百ます計算でもさせるかと、俺はため息をつく。
* * *
(佐竹風花視点)
私はシューマイを温めなおすべく、蒸し器に火を入れた。五分くらい温めろと言われている。今日のメニューは、変わりシューマイ五種と麻婆豆腐と白菜のクリーム煮だ。
シューマイは、蟹が入ったのと、エビが入ったのと、豚肉のと、シイタケがたっぷり入ったのと、鶏肉と豆腐でフワフワになってるものの五種で、これは兄の好物だ。白菜のクリーム煮は私の好物で、干しホタテの出汁が効いたクリームで煮込んだ白菜が絶品だ。麻婆豆腐は少し辛目でご飯がすすむ。ママの料理のレパートリーは結構広い。
シューマイに付ける醤油とカラシを入れる小皿を取ろうと、食器棚の一番上の段に手を伸ばす。むむ、届かない……後ちょっと……その、後ちょっとが届かない。あきらめて踏み台を持ってくるか、飛び上がって取るか思案していると、ふっとミントの香りがした。
「これを取るのか?」
「あ、ありがとう」
重なった小皿を数枚、尚吾が取ってくれた。
「言えよ」
「背が高いと便利だね~」
「チビだと不便だな」
むむ、チビだとな。そりゃ、そんなに背が高い方じゃないけどさ。ちょっとムッとする。むむ?頭に何か違和感がある……。視線を上に向けると……
「おまえの髪の毛さわり心地がいーな」
尚吾が私の髪の毛をワシャワシャとかき回す。
「ちょっと~、やめてよっ、ボサボサになるじゃん」
私の苦情に尚吾は髪をかき回すのをやめたが、髪を両手で二つの束にして立ち上げてから、ぶはっと笑うのは、やめてほしい。
「ウサギ」
「むむっ、パンダのくせに〜」
「なんだと!」
「いたたたた!」
尚吾は握った髪の毛をグルグルと振り回した。背が高いのをいいことに卑怯なっ!
二人して、食卓について黙々と箸をすすめる。いつもと違って、少し気づまりなのは気のせいだろうか……。
「ねぇ、来週はバレンタインデーだね」
ちらりと尚吾を見たけど、あまり興味はなさそうだ。
「尚吾はチョコレート好き?」
「あまり、好きじゃない」
そっけない。
「やっぱ笹の葉がいい?」
「チョコレートよりも好きじゃない」
「食べたことがあるの?」
目を丸くしたら、思いっきり睨まれた。
「じゃあ、何が好きなの?」
「そうだなー、きれいなおねーさんと、眠い時のベッドと、腹が減った時のカツとじ丼と、何も考えたくない時に見る海と、小春さんの手料理かな」
「何それ……」
どれもこれも、私には準備できないモノばかり……
「……もし、俺に何かくれるつもりがあるんなら、風花の初めてが欲しいな」
尚吾がポツリと言った。
「え?」
私の初めて?初めての……何?
私は、箸で掴んでいた海老シューマイがポロリとテーブルに転がってしまったことにも気付かず、澄ました顔でシイタケ入りシューマイをポカリと口に入れる尚吾をぼーっと見ていた。