2.黒いもや
これまで、聖女はいつ現れるかわからない存在だった。数十年単位で不在なことはあっても、聖女が同時期に二人現れることは一度もなかった。
けれど、私とミスティア様、どちらにも不思議な力があることは確かで、前代未聞な事態に国中が大騒ぎになった。
奇跡だと謳う人もいれば、よくない予兆なのではと憂う人。神の気紛れだと楽観視する人もいた。
片方が偽物なのだと吹聴する人がいなかったのは、これまでの聖女たちの貢献と、彼女たちに対する信望や信仰心が強かったおかげだろう。
もしもどちらかが偽物だという話になれば、間違いなく私のほうが偽物だと思われていただろうから。
新しい聖女であるミスティア様は、四代前の聖女と当時の王弟の血を継ぐ由緒正しき公爵家の生まれで、誰もが見惚れる美貌の持ち主だ。
そして、彼女が持つ不思議な力は癒し――初代聖女と同じ、触れるだけで傷を病を癒す力。
これまでの聖女は貴族の出ばかりで、私のような平民、しかも孤児育ちの聖女は一人もない。
ミスティア様は誰もが認める高貴な聖女だった。
シオン様のお相手はミスティア様のほうがよいのでは――そんな声が聞こえるようになるまで、時間はかからなかった。
孤児上がりのちゃちな力しか持たない聖女よりも、高貴で素晴らしい、聖女らしい聖女のほうが王妃としてふさわしいと思うのもしかたのないことだ。
だって私もそう思っている。そしておそらく、シオン様も。
「シオン様。ミスティア様とは最近どうなのですか?」
「どう、と聞かれてもね。彼女とは良き友人なだけだよ」
ミスティア様との茶会を終えたばかりなのに、何もなかったかのように私の部屋を訪れてきたシオン様。
先ほど目にした穏やかな光景が脳裏に浮かび、ちくりと胸が痛んだ。
「そういえば、最近は諸国の言葉を学んでいるんだって? 呑み込みが早いと教師が褒めていて、俺も嬉しかったよ」
頬を緩め、本当に嬉しそうに微笑みながら、シオン様はなみなみと注がれた紅茶に口をつけた。
いったい何杯目のお茶なのだろう。
「エミリア。君ならきっと、より良い王妃になれると思うよ」
そう言って微笑む姿はまるで私を大切にしてくれているようで。
もしも私に不思議な力がなければ、言葉どおりに受け取っていたに違いない。庭園で何度も飲んだであろうお茶を何食わぬ顔で飲んでいるのも、喉が渇いているからだと思えたかもしれない。
だけど、シオン様の周りには黒いもやが漂っている。私の部屋を訪れてからずっと。
彼が嘘をついているのか、よくないことを考えているのかはわからない。それでも、私のことを快く思っていないことだけは確かだった。
「シオン様」
名前を呼ぶと、シオン様は目を細めて、まるで慈しむような眼差しを私に向けてきた。黒いもやがなければ、心の底から愛してくれているのだと錯覚してしまいそうなほどの、優しい眼差し。
だけど視界に映る黒いもやと、頭をよぎる光景がそれを否定する。
庭園で楽しそうに話していたシオン様とミスティア様。彼らの周りには黒いもやはなく、きらきらと輝く陽光だけが二人を包み、踏みこんではいけないような美しい光景を作り出していた。私ではとうてい、あんな光景を作り出せそうにはない。
「私との婚約は、解消いたしましょう」
シオン様は心の底からミスティア様とのお茶会を楽しんでいた。嘘をつかないといけない私との会話よりも。
彼のことを思うのなら、義務でしかない婚約など解消するのが一番いい。
そう思って口にした私の言葉に、シオン様の目が大きく見開かれた。
「ど、どうして?」
続いてゆっくりと瞬きを繰り返すシオン様をじっと見つめる。
「そのほうが、誰にとってもよろしいかと思ったからです」
たちこめる黒いもやが、シオン様が嘘をついていることを、私にたいして負の感情を抱いていることを教えてくれている。
シオン様が優しい方だから、八年も共に育ってきた私を見捨てられないのだろう。
元は孤児だった私だから、シオン様との婚約がなくなれば城を追い出され、どこにも行けなくなると心配してくれているのかもしれない。
「私のことは心配なさらなくても大丈夫です。アラン様との婚約のお話をいだたいております」
第二王子アラン様。彼も私にはもったいない人だ。
だけど、どれほどちゃちな力でも私が聖女であるという事実も、聖女を王家に嫁がせるという方針も変えることはできないようで、シオン様ではなくアラン様ではどうかというお話を頂いた。
「……誰がそんなことを?」
「王妃殿下から、直々に」
王妃殿下――つまりは、シオン様とアラン様の母親だ。
どこかの誰かが適当に口にした流言などではないとわかったのだろう。シオン様は真剣な面もちで何度か口を開閉した後、ゆっくりと席を立った。
「この話は、また今度……詳しいことがわかってからにしよう」
色濃いもやに包まれて、シオン様がどんな顔をしているのかはわからない。そのことに、私はよかったと思ってしまう。
ほっと安心している顔を見ずに済んだのだから。
アラン様とのお話を頂いたのはつい先日のこと。呼び出された先で、聞かされた。
「聖女が二人も現れたことはこれまでなかったのよね。だからどうしようか、皆迷っているのよ」
聖女がいつどこに現れるのかは誰にもわからない。前の聖女が没したからといって、すぐに現れるとも限らない。
しかも、聖女の力は生まれた瞬間から持っているものではなく、ある日突然芽生えるものだ。
だから聖女が現れたら何をおいても保護されることになる。何十年かに一度現れるかどうかの貴重な存在なので、何よりも最優先されるのだ。
そうでなければ、ただの孤児でしかなかった私が、ここまで丁重に扱われることも、シオン様の婚約者になることもなかっただろう。
「それで考えたのだけど、アランに嫁ぐのも視野に入れてみてはどうかしら。年も近いし、そう悪い話ではないと思うわよ」
アラン様は私の二つ下で、十三歳。四歳差のシオン様と比べればたしかに年が近い。ほんの二つぐらいしか変わらないけれど。
私が黙りこんでいると、王妃殿下は口元に艶やかな笑みを浮かべ、ちらりとそばに控える侍女に目線を送った。
「二人とも大切な聖女だから、あなたたちの意思を汲んであげたいと思っているのよ。だからとりあえず、アランとの交流を増やして、それから考えてみるのはどうかしら。ミスティアは二人の人となりを知ってはいるけど、あなたはそうではないでしょう?」
ミスティア様は王家に近い公爵家ということもあり、シオン様とアラン様とは幼少期からの付き合いがある。だけど私はそうではない。
国の成り立ちや周辺諸国の歴史、言葉遣いからマナーまで。これまでの教養のなさを埋めるための勉強や、聖女としての仕事をまっとうすることに必死だった。
空いた時間はシオン様とだけ過ごしていたので、アラン様とはすれ違った時や、公の場での挨拶ぐらいしかしたことがない。
アラン様もシオン様同様、優しく朗らかな人柄だということは知っているけど、それだけだ。交流に勤しむだけの暇が私にはなかった。
「私たちは聖女を尊重したいの。どうかそのことだけは忘れないでね」
ふわりと微笑んで、王妃殿下との対談は終わった。侍女から今後の予定表を受け取って。
そうして頂いた新しい予定表には、アラン様とのお茶会が組み込まれていた。そしてそれは、王妃殿下との対談から数日後――シオン様に婚約の解消を願い出た翌日だった。