召喚されたのに浮気されて用無しって、そもそもマッチングが違いますから!
暑い。暑いなんてものではない。熱い。焼けて死ぬ。
流れる汗が塩を残して乾ききるような熱波の中で、気になっていた玄関アプローチ周りの草をようやく根絶し終わって、道具を片付けるのもそこそこに、ディアは家の中に駆け込んだ。
夏中見ないフリをしていた庭は、もはや廃屋の庭の様相を呈している。
わかってはいた。わかってはいたが、暑すぎた。
ところが先日ふらりとやってきた妹に、あまりに見た目が悪すぎると厳しくダメ出しをされ、渋々、本当に渋々、重たい腰を上げて、いや立ったりしゃがんだり踏ん張ったりして、格闘したのだ。
この時期のアカゴノヨナキソウは、春頃に見られる金の産毛が生えそろった小さな掌のような葉がめきめきと成長して竜の掌サイズに、茎は戦士の腕ほども太くなり、聖別された極死の大鎌でなければ刈り取れなくなる。さらには刈り取るや否や、最後にこちらを取り込もうと大きな葉が頭上から襲いかかってくるので、面倒臭い。アカキキフジンノハネカザリは……来年は絶対に芽のうちに摘もうと思った。近寄るだけで刺さって、しかも下手すると血を飲み干されるとか、気が抜けない。おそらく何体か、たまたま近くを通りかかった動物がやられているかもしれない。その痕跡の痕跡くらいしか見ずに済んだのは、夜行性のオドリアカシソウが夜な夜な徘徊して倒れた動物に根を蔓延らせ、栄養を吸い尽くしたおかげだろう。ありがたい……ことはまったくない。オドリアカシソウを掘り起こすのは、酔漢も真っ青な下品な罵声で抵抗されるので、正直一番気が進まなかった。雑に掘った箇所もあり、その場合折れた根の破片が土中に残るので、来年もきっとそこから増えてしまうだろう。
いやもう他にも、調べても名前もわからないヤバそうな草がたくさん。
そしてこいつらどれもこれも、一応生物という終わりある命のくせに、この暑さにもまるでめげずに増えたり伸びたり。恐れ入る。
さすがに、業者に入ってもらった方が良いだろうか。今朝からの重労働による疲労困憊と、謝礼として支払うことになる額とを天秤にかける。あと問題は、業者とひとくくりに言ってどんな種族が来るかわからないところだ。
ああ、でも、まずはそれはどうでもいい。
苦労の後には、ご褒美だ。
妹が差し入れてくれた、北海の曙光と呼ばれる最古の万年氷で作った希少品のシャーベットを食べよう。確か5種類の味があったはず。さてどれにしようか。
うきうきとシャワーを浴び、冷凍庫を開けて悩んだ挙句に緑を選んだ。定番の抹茶ではなくて、世界樹の孫葉味なのがミソだ。孫葉は青年期に入っているから、青臭い中にも渋さがほんのり入っている。好みだ。曽孫葉になると、ちょっとね。若くて甘酸っぱすぎる。
蓋シールを剥がし、中からサイコロ型の翡翠のような小さな塊を選びだし、お気に入りの泡入りガラスの器にポトリと落とす。器に触れるや、翡翠はさらり、と形を崩し、みるみる冷気を吹き出してシャリシャリの食べごろになった。
いやいや、よくやった、お疲れ、私!
スプーンにさっくりとすくい、濃淡のある荒削りな翡翠氷を、あーん、と口に入れ。
「うぐぐう」
神経が冷やされて、キーンと鋭く痛みを生む。
その快感に浸り切っていた時。
ぴろろろろーん。
間の抜けた電子音がして。
「うそ! え、待って」
待ってくれるはずがない。そういえば、今日は待機日にしたままだった。となれば、待ったなしなのだ。
湯上りすっぴん濡れ髪で、着ているものがお気に入りでヘビロテのせいで襟がびょーんと伸びたTシャツで、履いているものが下手すりゃパンツまで透けて見えるほど布がへたったステテコだとしても。
でもって、前髪をゴムで適当にくくり、シャーベットに大口で食らいついて痛みに幸せに悶絶していようとも。
お呼び出しは、強制だ。
既読スルーも、着拒も居留守も通用しない。
問答無用で、通知、即、実行。タイミングこそ肝だと、登録時に5回も念押しで同意させられたっけ。
面倒すぎて怖気ついていた初期が懐かしい、と思い出して、はっとディアは下を向き、絶望した。
ブラジャーすら、着けてねええええ!
視界が揺らいだ。
そう思った時にはすでに、ディアはズレていた。位相を、といえばいいのか。世界を、というべきか。
「なに!?」
驚きの声を上げたのは、目の前、膝をついた青年だ。
白い光が高みから降り注ぎ、遠くに飛び立つ鳥の群れのように金の斑が入った白い石壁と床に跳ね返り、交差し混じり合って、幾重にもベールを重ねたような場所だ。おそらくは、信仰の祈りを捧げる場所。
その中央に、膝をついた状態で肘をつくのにちょうど良い高さの石の台があり、青年はそこに両肘をついたまま、茫然とこちらを見て固まっていた。
彼からしたら、一人きりのこの空間に突然ディアが現れた、というところか。
だが、青年が呆けていたのはほんのわずかな間だけ。素早く立ち上がり、あたりの出入り口を確認することで外から入ったという可能性を打ち消し、再びゆっくりと膝をつき祈りの姿勢に戻ると、深く——台に額を打ち付けるほどに——その黒頭を垂れた。
「私の願いに応えてくださって、感謝申し上げます。女神よ」
はいきたー。
ディアはとりあえず、視界から外れているうちにと、ほんのり溶けかけたシャーベットを三口でかき込んだ。頭痛が悪化した。
「(う……ぐ……)そういうわけではないんだけど」
痛みがなんとか去ってから返せば、青年は控えめながらすんなりと顔を上げてくれた。
「女神、ではない。では巫女様でしょうか」
「そっちか。いや、うーん。まあ、願いに呼び出されたのは確かだから、似たようなものだけど」
しまった。仕事用じゃなく、プライベートの話し方をしてしまった。
でもしかたない。だって、休憩中だったんだもん。そりゃあもう、がっつりオフ。すべてオフ。ここからスイッチを入れ直すなんて、たとえ女神さまでもできませんて。
けれど、そんな雑な返答も、なにやら好意的に捉えられたようだった。
「ありがたい。ありがたいことです。女神ではないとなれば、このように私的なお願いを申し上げるのに、少しばかり勇気を与えられたようだ」
青年、かなり前向きである。
「私はジュウェイン。ここは第7世界グランディオス国の城の祈りの間。そして私はこの国の世継ぎの王子です」
はいきたー。
「やむを得ぬ理由で、私は明日、この国を離れるのです。世継ぎの身分を隠し、腹心の友らとともに、我が治世をより良いものとするために、隣国に留学をしに参ります」
はいはいきたねー。
……え???
「留学?」
「はい」
「戦争とか潜入捜査とか、人質になりにとか、魔王を倒しに行くとかではなく」
「違います。今世の中は大変平和ですので」
ディアはとりあえず、シャーベットとスプーンをそっと床に置いた。薄れるように、その姿は溶け消えた。部屋に戻ってシミになったりしないといいと思う。
それから、座り込んでいた床から、そっと立ち上がった。複雑な文様と数字とが、目にも綾な美しき色糸で縫い取られているのは、細やかに起毛した艶のある布、か織物か。もっちりとした肌触りで、毛布のようなラグだ。座っていても支障はなかったのだが、一応、本腰入れて聞いておこうか、と思ったのだ。
「これは、大変失礼をいたしました。こちらのクッションをお使いください」
ジュウェインは気が利いた。祈りの間のどこからか取り出された人をダメにしそうなクッションを受け取ってもう一度座り直すと、すかさず膝掛けが手渡された。ありがたい。すけすけのステテコを隠せて、ありがたい。
気づかれないようにスーハー深呼吸をして。
ゆったりと構えて、よくよく聞いた彼の話を要約すると、こうだ。
世界は平和。
隣国に一年留学に行く。
飼っているペットを置いて行かなくてはならない。
難しいペットで誰にでも世話を頼めない。
彼には人生で一度だけ、困った時に使える召喚の儀があった。
「で?」
ディアが促すと、ジュウェインは申し訳なさそうな顔で、腕をクロスさせて胸に両手を当て、目を瞑った。
「ぜひ、私のペットを一年間お預かりいただきたい」
ペットホテルじゃねーよ。
ディアがそう思ったとしても、許されるのではないだろうか。
★
肝心のペットは部屋にいるという。
まずはペットに会って欲しい、と懇願されて移動する間に、もう少し突っ込んだ説明を求めることにした。どうして連れていけないのか。何が難しくて誰にも世話を頼めないのか。
「凶悪だからとか?」
「いえ、大人しい性格です。静かですし」
「環境の変化に弱いの?」
「聞いたことはないですが、そんな様子はないですね。国内の別荘地に同行したことがあり、火口はもちろん海中でも、地下でも平気そうです」
「じゃあ、なんで連れて行けないの? ……ん? 火口?」
そうこうするうちに、あっという間にジュウェインの部屋についた。廊下を少し歩いただけで、階段の上り下りもなく他の部屋の扉を見る間もなかったし、召喚された祈りの間から隣室に移動しただけ、という感じだった。
しかし祈りの間には三方向に窓があったので、塔の上か、隣室などない突き出た構造だったはずだ。おそらく、空間をねじ曲げて繋ぐ手段があるのだろう。
ジュウェインが、目的地らしき重厚な扉の取手を持ち、わずかに首を傾げた。
「本人も行き先が隣国レプトルというのは気乗りしないようで。というかこの頃、突然癇癪を起こしたり、イライラしている時もあって、情緒不安定なんでしょうか」
情緒不安定? ペットが?
ディアは嫌な予感がした。
もしかして、ペットという言葉の意味からすり合わせなくてはならないのでは?
しかしその前にあっさりと扉は開けられた。大きく開け放つことはせず、ジュウェインは体を横向きにしてすり抜けるように入室していく。仕方なく、ディアもそれに倣った。
「おわ、ロード、何事だ!?」
入るなり目前でジュウェインが慌てふためいていた。
なんだか熱い。そして焦げ臭い。
ふす、とやたら大きなため息のような音が聞こえて、さらに喚き始めたジュウェインがそこらの家具から剥ぎ取った布を両手で広げ持って何かに駆け寄っていった。
呆気にとられながら、そろそろと暴れるところに近寄る。
ジュウェインは小柄ではない。すらりとした印象はあるが、細くはない。しっかりとした体格をしている。そのジュウェインの体の下から、彼の腕よりも太く長そうな尻尾がばたついて見えた。
長くしなやか。そして美しく緑の艶なす、黒毛だ。
それが容赦無くジュウェインの尻を叩き、けれどなんとか、落ち着いてきたようだった。
「どうしたんだ一体。何に苛ついているのかわからないが、まず治めろ! お前の預かり主をお連れしたのだから。恥ずかしいだろう!」
子供に言い聞かすようにがみがみと言いながら、ジュウェインが体を起こす。
ワインカラーの分厚い布が、所々黒くなり、うっすらと煙を上げていたが、その下に押さえつけられただろう何者かは、急に静かになったようだった。
こんもりとした様子から見ると、大きい。先ほどの尾の長さも考えると、手足を伸ばせばディアの背丈くらいはあるのではないだろうか。
猫。いや、黒豹だろうか。
王子のペット、ともなると、普通の動物ではないかもしれない。
「大変失礼しました。いま、ご挨拶をさせますので」
小さな子供の母親のように謝るジュウェインをよそに、布がごそごそと動いて、出口を見つけたらしいペットは、そこからズボッと顔を出した。
「え!?」
三角の耳と髭の鼻、狭い額に丸い目……と想像していた顔とは、まるで違う。
見上げて来た顔の真ん中、一番大きな口はきゅっと閉じられて、への字だ。突き出た口先に鼻の穴が小さく二つ。目はまあるく黒々としている。けれど額はほとんどなく、目の方が高い。三角耳どころかどんな耳もついていない。代わりに顎の左右にとげとげとした突起があり、その根元に丸く穴がある。あれが耳だろうか。顎は柔らかくしわの寄った首へと繋がっている。
それは、模様とかパーツの配置の問題ではなく。
そもそも先ほど見えた尻尾とは、テクスチャが違う。
毛がない。黒い毛が。
あるのは、鱗だ。珊瑚のような色味の、整然とした細かな配列だ。
「トカゲ?」
じっとこちらを見たまま、顔だけがころり、っと傾いた。
つられてディアも、首を傾げた。
それが楽しかったかのように。蜥蜴はカパッと口を開けて、赤い舌と小さく行儀よく並んだ歯を見せて、そしてぼわっと火を吹いた。
由緒正しい火蜥蜴のようだ。
「今のは挨拶です。貴女を歓迎しているようですね。よかった。大丈夫だとは思っていましたが、安心しました」
火は一瞬、掌サイズほどに燃え上がり、すぐに幻だったかのように消え去った。その後吹く様子はなかったので、本当に挨拶であったらしい。蜥蜴は大変おとなしく、じっとディアを見たまま、うずくまっている。
で、猫は?
特段猫好きなわけではない。
けれどあの尻尾の主が布の下にいるはずだと思うと、待ってしまう。
折しも、布の下でばたり、と細長いものが持ち上がって倒れた。ジュウェインもそれに気がついたのか、蜥蜴に一声かけると、布を取り去った。
「巫女様、こちらが私のペット、ロード・オ・ロードです」
「……」
ディアは沈黙した。
生態系や魔法幻術系統について、これは許容レベルだっただろうかと、今考えても仕方ないことを考えた。
ロードは、前半身が火蜥蜴で、後半身が猫様の存在だった。まるで毛皮を纏っているかのように、後ろ首のあたりから黒く艶めいた毛がしっかりと体を覆っているのだ。骨格自体は、蜥蜴だろうか。たっぷりとした腹と、横に出た短めの前脚。腹には毛はない。前脚にもないようだ。背中を覆った黒い毛皮は、後脚と尻尾を埋め尽くしている。幾分か、後脚が長めで、しなやかに動く気がする。また、尾は腹に比べてみれば細く、自在に動く様は、猫成分が入っているからだろうか。
「ロードは、一体、何の種なの?」
「種?」
訝しい顔をしたジュウェインは、うーん、と腕を組んで体中で首を傾げてみせた。
「考えたことはありませんでした。彼は、この国の守護獣です。二千余年前の建国以前からこの地の支配者として君臨していた唯一の存在です。王位を継ぐものは、彼の世話を手ずから行うことを義務とするのです」
「守護獣とペットじゃあ、大違いじゃない?」
「そうですねえ。彼は我々を飼い主だとは特に思っていないと思います。個体認識はしてくれているとは思いますが……。小さい頃は口にちょうどよいサイズだったのか、よく食べられかけたと聞いています。王族の通る道です」
あはは、と笑うが、笑っている場合か。
「そんな守護獣をおいて隣国に留学って、大丈夫なの?」
「まだ立太子前なので、なんとか認められることになりました。まあ、お互い生きているので、柔軟に」
「あ、緩いんだね。びっくりした」
「直系男子でロードに本気で噛みつかれず済んでいるのが、私しかいないので、我が儘が少し通るんですよ。それに息子は既に3人いますので、私自身に事故があってもなんとかなるでしょう。幼子なので、今すぐは餌認定しかされないでしょうが」
「思ったより緩くない!!!」
いやあ、個人的人権を最低限守りたくて、必死ですよ、とジュウェインは笑った。一年留学したら、それからはずっと、国から出ることはないらしい。
「本当は若いうちはもっと外遊なり商売なり勉学研究なり、好きな分野で十分挑戦をして、中年になってから王位とロードを継ぐのが慣習だったのですが、父が急な病で」
「それは……」
「猫アレルギーなんて、都合の良い病なので、ほんと、どうしてやろうかと思いましたけどね」
「……」
いやまあ、アレルギーは、命にも関わるから。
ロードを改めて見下ろす。
気配も何もないのに、いつの間にか反対方向の窓を見ていた。
「巫女様、ちなみにアレルギーなどは?」
「ない、と思う」
「それは重畳」
己の立場も重責もよくよくわかった上で、将来の治世のため、また自分の心の安寧のためにも、隣国での学びの一年が欲しかったのだ、と。その最後の最後の条件が、あなたの召喚だったのです、と震える声で言われてしまっては、断ることはできなかった。
「わかった。引き受ける」
「ありがとうございます。……本当に」
「引き受けるけれど、世話の仕方なんて知らないから。誰か教えてくれるよね?」
「もちろんですとも。我々も、専任の世話係のサポートを受けて世話をします。餌の飼育も彼らが行ってくれるので、餌やりと沐浴、そしていつもそのそばにいること、が我々の行う世話になります」
わかった、とひとまず肯いて、ん?とひっかかった。
「餌の飼育?」
「はい。昔は鳴き声が大きく王宮中がうるさかったものですが、最近は改良されたこちらがありまして、鳴きもせず、増えもよく、とても楽になったのです。壁は登りませんし、逃げませんしね。臭いもほとんどない、優秀な餌です。まあ、多少カサカサ気配がうるさいですが……」
「……」
これは。
「まあ、この餌が障害となって、女性がロードの世話をすることができず、女系の継承権が近隣諸国に比べてまったく弱いままなんですよね、我が国は」
守護獣を隣国に連れて行けないし、とか、この餌はかなり命の改良をしているので隣国にこれを持参するのもあまり良くないことでしたし、とか、なんだかんだ言っている声が、遠くに聞こえる。
いや、引き受けた。
引き受けたので、全うする。
これは契約だ。仕事なのだ。
まして命の糧だ。それはもう、覚悟を持ってしようではないか。
だけどもね。ダメな人はダメだよね。それは、わかる。
ちょっと、一般的にはハードモードじゃないですかね。
なんだかんだで、ジュウェインは隣国へと無事発った。
ディアは王宮内に立派な部屋をあてがわれ、守護獣(ペットとは、もう呼ぶのをやめようと思ったのだが、とはいえ獣というのが正しいのかも不明)と共に寝起きすることになった。
同室とはいえ、基本的な生活圏は区切られている。ロードは夜は柔らかな絹の敷物の上で眠り、朝になると部屋から続くサンルームに出て、美しい幾何学文様のモザイクタイルの上に半身を伸ばしてだらりとしている。と思えば、目を離したわずかな間に高い位置に据えられた巨大な流木の止まり木に登っていることもある。
空を飛ぶ鳥の群れを見て、ぼわりと火を吹いたり、背中が痒いのかゴロリと仰向けになって体をくねらせたり。
まさに、蜥蜴のように静かで、猫のように気まぐれだ。
ディアのことも知らん振りのようでそうでもなく、ふと顔を向けると、前脚だけを突っ張って半身起き上がり、こちらをじっと見つめていることが多々あった。隣室や浴室などで用を足して戻ってくると、白目のない黒々とした目をくり、と動かしてこちらを見る。なのでこちらもじっと見つめ返すと、もう結構、とばかりに片目をつぶり、無言のままでそっぽを向かれることが多かったのだが。
「はい、ごはんだよー」
ディアが給餌をするようになって十日ほどで、そんな態度もなくなった。
呼ぶと目線をよこすし、餌を持っていればこころなし嬉しそうに寄ってくる。じっと顔を覗き込んでも、もう片目を瞑られることはなく、なになに、とばかりに首を傾げてくれるようになった。尻尾までゆらゆらと揺れるサービス付き。
ウチノコ、カワイスギ、ツライ。
なんて、ほんわかほっこり癒されるようになるころには、生餌への苦手感などほとんど失われていた。ロードのためなら、餌たちの健康管理にだって愛が溢れる。生き物に対して平等ではないけれど、その罪深ささえもあえて呑み込む覚悟までできた。来世、自分がこの餌の一匹となる可能性があったとしても、それでもロードの命をつなぐためには差し出すのみ……。
ロードの餌を毎日定時に届け、数日おきに温浴の用意をする担当者以外に、ディアのための御用聞きもいてくれて、ディアは部屋からほとんど出ないままに衣食住をまかえるようになっている。さらには暇をつぶすために、通信による遠隔観劇プログラムや、紅茶やアクセサリー鑑定などの出張趣味講座、会話への飢餓感を埋めるために落ち着いた雰囲気の女性たちと時にお茶会が催されたり、少人数でのハイキングに出かけたり。下にも置かぬもてなしようだ。
ディアの扱いは、王家のために降臨した巫女姫(姫!)という感じのようだ。さらには、もしかして、ジュウェインのお相手候補、ということにもなっているのかもしれない。けれどそういった情報はうまくはぐらかされて教えられないので、周囲の態度でなんとなく察しているだけである。
もとが引きこもり気質なので、ディアはこの生活が大変気に入っているし、ここぞとばかり心も癒す所存である。周囲が聞かれたくなさそうなことは聞かずに、ただ、我がことと我がお仕事に邁進した。心から楽しめる楽チンなお仕事なので、なんのストレスもなかった。
ジュウェインは、隣国での留学生活を堪能しているようだった。週に一度から二週間に一度は、映像付きの通信でロードの様子を尋ねてきた。ついでにディアのことも。
通信をしていると、ロードが近づいてくることもあった。通信の画像から果たしてジュウェインを判別しているのかどうかは、わからないけれど。ちょっとのぞいて、ふいっとまた落ち着く場所に戻っていく。何回目かに隣に来たとき、滑らかで暖かなものがそっと背中をさすってきた。一瞬戸惑った後、それがロードの黒い猫尻尾であることに気づき、ジュウェインに日々変わりないことを報告しながら、きゅんきゅんして死にそうになった。
デレた? これはデレ?
別の時には肩に片方の前脚を引っ掛けながら、ディアの髪をそっと舌で手繰り寄せてかぷかぶと噛んでいたので、デレではなくて餌か仲間かと疑っているのかもしれない。
とりあえず、理由もなくなんとなく気が咎めるので、以降はジュウェインとの通信は隣室で行うことにした。見たいと言われたときだけ、ロードを映す。忙しい王子様なので、通信はいつも五分程だ。怪しまれることもなかった。
そんなある日、初めての客が訪れた。
お茶会の参加者とはずいぶん感じが違うのと、ロード同席での面会を希望されたのが「初めて」の「客」と言う理由なのだが。
客は二十歳そこそこと思しき女性で、つやつやしたドストレートの黒髪と、色白の肌を輝かせた美人さんだった。やや口元があひるだ。それがまた、可愛い。
けれど彼女は可愛いというよりはツンとか凛といった感じで部屋に入り、丁寧に挨拶をしてくれた。
「はじめまして、王族のメリリアンです。ロード・オ・ロードのために、ご尽力感謝します。ジュウェインが我が儘を言って、本当に巫女様には申し訳なく。手のかかる守護獣でしょう?」
わかります。
と言われて、はあん? となったのは仕方ないのではないだろうか。マウントを取ろうとする気配がぷんぷん通り越して、ぶんぶんである。
けれどこの真のお姫様は、さらにただものではなかった。
「ごめんなさい。わかったような口を利きました。今のロード・オ・ロードのことは、貴女が一番おわかりでしょう。私が知るのは、ただ、千年ほどかけて王家が書き留めて来た、昔のロードのことだけですから。……その気の遠くなるような長い伝統に、一石を投じてくださる貴方様には、本当に、心から、感謝しておりますの」
たった一、二ヶ月の職歴で、歴史ある王家の知の蓄積に勝ると勘違いして、こちらこそごめんなさい。負けました。完敗だと思います、はい。
けれど実際に何を返答するより前に、ロードがのそりと肩に乗って、はむはむとまた髪を噛んだ。
「まあ。なんて不躾な。巫女様、王族はロードについて学ぶ時に、特に念入りに教わりますのよ。髪には魔力が宿ります。決して食さないよう、しっかりと拒否をして躾けるべきです。千年の間に、代々言い聞かせてきてはおりますので、許可なく魔力を食べてしまうことはないでしょうが。ロードは個々人を見分けますから、人によって許されると思えば、簡単に垣根を越えてまいりますことよ」
初めて会う姑に、子供のしつけについて訓戒を受ける嫁の気分はこんなものだろうか。
ロードと自分、ロードと王族との距離感が、思っているのと違うのだぞ、お前はまったく他人だぞ、と通告されているようで、非常に不愉快だった。不愉快なのだが、つい今しがた完敗だと感じたのも確かなので、ディアは甘んじて受け入れることにした。
「私に魔力はないとは思いますけど、気をつけます。本来の餌ではないものを食べさせるわけにはいきませんし」
にこりと笑み付きで模範解答をすれば。
「そうですわね、魔力があれば黒髪に近づきます。魔力のない髪を与えても、何も問題はないでしょうね。貴女のその眩く光を弾く金の髪が、ちょっと珍しいのかもしれませんわ」
何をしに来たのか謎のまま、お姫様は帰って行った。
不愉快さが嫁姑の例えにがっちりハマりすぎて、姑の肩を持つ夫という妄想が拭えず、ジュウェインには特に報告しなかった。
ただ、やっぱりもやもやしたので、その後寝室で、またも髪を食みにきたロードの柔なかなしっぽを撫でたり、ツンツンとした顎周りのトゲを突きながら、言ったのだ。
「食べても問題はないっていうなら、あなたに髪を食べるのを許しても、誰にも文句は言われないってことよね。ハゲるのは困るけど。口寂しいなら別にいいのよ」
ここでは、二人だけだものね。
心で付け足して、大袈裟かな、と赤面する。
その頬に、滑らかでつるりとしたものがちょんと付いて、ディアは目を瞬いた。
「え、今、ほっぺ舐めた?」
見れば、ロードの口元から二本、金の髪の毛が垂れていた。
ロードは目を笑むように細め、顎を動かして髪を口の中へと送る。それを、ディアはぼんやりと見ていた。パクパクと、大きな口を開け閉めすると、淡い色の小さめの舌と、ずらりとならぶ小粒の真珠のような歯が見えた。最後にペロリと口の周りを舐めて。
「美味」
「え?」
声が聞こえた気がしたのだけれど。その頃にはロードは、サンルームへと機嫌よさげに向かっていた。尻尾でするりとディアの腕を撫でていくのを忘れない。
ディアはなんだか、くらくらした。
ウチノコ、イロオトコ、スギ……。
やがて、ジュウェインが帰国する期日となった。
一年間の留学は、本人にとってはさぞ短かったろう。毎週行われていた通信も、半年ほど経った頃から間遠になり、最後の二ヶ月は一度もなかった。帰国間際まで、しっかりがっつり楽しめたのならいいな、と思う。なんとなく、親戚の男の子のような、友人のような、そんな感覚で受け止めていた。
通信自体はあらかじめ予定された時間につながるのだが、本人はその場におらず、あちらの担当事務官が申し訳なさそうに欠席のお詫びを代理で述べるのに、鷹揚に頷くのが恒例になった。通信自体はお仕事報告の場として職務であると認識しているので、自分から欠かすつもりはない。けれどジュウェインが欠席する分には、特に問題はないのだ。報告は代理で事務官が聞いてくれるし、最近は、事務官から娘が生まれてかわいくて仕方ない話をしてもらう仲にまでなったので、それはそれで楽しめた。
それに、実際のところなぜジュウェインが自分との通信に時間を割く気がなくなったのか、ディアは実はきちんと把握していたのである。
美しい黒檀の馬車が、重厚な緋色の房飾りを揺らし、白馬に引かれて宮門を通るのを部屋の窓から見た。その後は建物の影に入って視界からは外れてしまう。けれどやがて、勇壮な音楽と歓声が届き、寝そべっていたロードが首をそちらへ向けた。国王と王妃や家臣たち、そして騎士たちが、国を継ぐ王子の帰国を出迎えたのだろう。
「おかえりなさーい」
ディアはロードと二人きりの部屋で、ぽつりと呟いた。
★
ジュウェイン王子が花嫁を連れて帰った。
そんな噂は風より早くディアの耳に届けられた。
親切心、ではないだろう。留学半年を過ぎた頃からの隣国でのジュウェインの恋模様は、本国王宮の使用人たちまで知るところとなっていて、守護獣の世話をするディアの立ち位置は、お相手候補から、単なる飼育係に変わったようだった。いつの間にかお茶会もなく、ハイキングも、催しもなくなった。食事の内容も、コース料理からワンプレートに変わった。それでも要求すればお風呂も入れるし着替えも届くし散歩もできる。
ロードの餌係も、なんとなくディアを軽んじているような様子だった。餌が減らないまま返しても、食欲がないようだ、と伝えれば、それ以上詮索はされない。この場合は、ディアを、というより、ロードを軽んじているのだろうか。それでも毎日二回、餌はきっちりと届けられたし、温浴用のお湯も、決まった日に用意された。
あからさまには蔑ろにされない。けれど、何も必要とされていないのに居座る厚顔な女だと、呆れたような顔をされるのは、地味に傷ついた。
そこへ、花嫁の噂だ。
周りから一層冷たい目で見られる生活は、ジュウェインが帰国してからしばらく続き、ある朝、ディアはジュウェインに呼び出された。
「やっと、覚悟を決めましょうってことね」
ディアは静かに呟いた。謁見の間で面談という話には、緊張感が湧き上がってくる。それでも、選ぶ道を間違えないようにしたかった。
のし、っとディアの背中に重たく温かな体が押しつけられ、髪が数本優しく引っ張られた。
「ロード、今日は一緒に行ってね」
思わずすがるように言ってしまって恥ずかしくなったが、黒い尾がふにふにと頬を押し、黒目がじっとこちらを見つめるので、ディアは自分でも拍子抜けするほどに、安心したのだった。
謁見の間にディアが案内されて入ったとき。
その場に居合わせた王族は、皆、はっと目を見開いた。
玉座には、会ったことはなかったがおそらく国王。隣にこれもおそらくは王妃、その隣にジュウェイン。
一段下がって、少しデザインの違う椅子に、初めて見る女性。それからさらに下の段に、立ったままの老若男女。ちらっと、以前一度だけ訪れのあった王族の姫も見えた気がする。
国王が、再びはっとして、隠しから取り出した分厚い布を、鼻と口を覆うように慌てて巻きつけた。
そうか、猫アレルギーだった。
「ぞのままぞのまま」
くぐもった声で、ディアに礼を執ることは不要だと示し、自ら自己紹介をしたので、周囲の人々はひどく驚いたようだった。王子のお相手候補の成れの果て、と思っていたので、驚いたのだろう。
「いぢねん、だいへんご苦労なことでありました。我が王家のためにお骨折りいただき、がんじゃの念に耐えませぬ。
王家のぎまりごとと私のごの体質ゆえに、これまで面と向かってごあいざつでぎず、もうじわけなく思っておりまじた」
真摯な言葉と、その鼻声に、ディアは少し申し訳なくなった。
「はじめまして、ディア・モートリウムです。ご丁寧にありがとうございます。丁寧なお手紙を度々いただいていたので、十分でございました。——ようやく一年の任を果たし終え、安堵しています。この場にロードを勝手に連れて来て、申し訳ありません」
「よいのでず。私もひざじぶりにロードにあえて、嬉しい。これでも、二十五年はいっじょにいましたから」
ディアはつい、自らの頭上に視線を向けた。
ロードは最近お気に入りの、ディアの頭のてっぺんに顎を乗せて、肩に両前脚を置く体制をとっている。かれは長距離を自分では移動しないつもりのようだ。その代わり、奇妙なほどに、体重を感じない。後ろの猫足は軽くディアの腰に置かれ、長い黒の尾が、細い腰に回って抱き寄せているようだった。
もちろん、そんな体勢だから、ディアからはロードの表情は見えない。尻尾も腰に巻きついているので、今は感情が見えにくいかもしれない。
ふとそう思い、周りを見渡せば。
居合わせた者たちの反応は、くっきりと二つに分かれていた。いまだに夢の中にいるような、不可思議な顔をしてディアの頭のすぐ上を注視する者たち。立ち位置や装いなどから、王族に連なる者たちと推測できる。
そして、自分たちの敬愛すべき国王陛下と、厚かましく城に居座っていると噂だった女との会話が、今一つ呑み込めない呆然とした者たち。あの女は、何を、ここに連れて来たと言っているのか、と言わんばかりの。
「やはり、陛下もあの女性も、ジュウェイン王子の妄想に付き合っているのか、いまだに……」
「だが、王子は妄想から脱却された。隣国で運命の出会いをなされて」
「厚かましくも好待遇をせしめようと、いまだにあのようなデマを……」
こそこそと囁き合うのは日常茶飯事だとディアは気にも留めていなかったが、壇上のジュウェインが耳聡く聞きつけて眉を釣り上げた。他の王族たちも、不快げに彼らを見ている。初耳なのだろうか。もしかすると、王宮の噂は高貴な王族の耳には入りにくいのかもしれない。
「誰だ、そのようにディア殿を貶めるような世迷言を噂するのは。彼女は国のため、王家のために若き日の一年を捧げてくれた尊い巫女姫だ。貴様たち、王家の秘密を知る由もなく、疑える立場でもないのに、憶測で彼女を虐げるなど愚か。それは即ち、王家を辱めることと心得よ!」
はっとして、場は一瞬で静まった。
穏やかで和やかな王子だったジュウェインが、気迫をみなぎらせて厳しく叱り付ける様子には、彼の成長がよく見て取れた。
それに臣下として喜びを感じながら、一方で、指摘されたまさにその通り、勝手な憶測でディアを貶めていた自覚を持つ者たちが肝を冷やしたとき。
「ジュウェイン様、彼女は一体、貴方様のなんなのです?」
黙って、穴のあくほどディアの顔を見ていた一段低い壇上の麗しい女性が、そこでそっと、声を上げた。小さな声だったが、会話の間をはかる天性の素質があるのだろう。わずかな沈黙の隙間に声が響いて、誰もが彼女に注目した。その中で、視線をわずかも気にかけず、優雅に立ち上がって、羽が生えているかのように軽やかに段差を降り、ディアに近づいて来た。
「ごきげんよう。私は、隣国の第三王女なの」
小柄な王女様は、溶けそうに潤んだ紫色の目をまじまじと見開いて、ディアを覗き込んできた。
——いや、これ、瞳孔が開いてませんかね。何か、潤ませるための目薬か魔法かをかけているのかな。眩しくないのか?
はっきり言って、跳んでそうな目だ。いろいろ、まっとうな何かが弾け飛んでる気がする。びんびんする。
「ふうん、珍しい金の髪。青い空の色の目。貴女が、ジュウェイン様が通信で毎週お仕事の話をしていた方ね。ふふ、ごめんなさいね。最後の方、私が我が儘を言ってしまって邪魔をしてしまったのよね。ジュウェイン様とお話ができなくて、さびしかったでしょう?」
粘着質そうな様子に、一気に閉口した。
怖い。キモい。近寄りたくない。
なにより、なぜこの人は、こんなに私にばかり集中できるんだろうか。
鼻と鼻がつかんばかりに寄ってくるのだが、ロードが頭の上に顎をのせて、ときどきプフーっと大きな鼻息を出すのだ。存在感が半端ない頭上の存在に、隣国の王族というこの人は、気がつかないのだろうか。一度たりと、そちらに視線も意識も向けないのだが。
ふとロードが身を乗り出して、ペロリと舌を出したのが、ぎりぎり視界の上の端っこで見えた。王女様の髪でも、味見するつもりだろうか。なんだかそれは、非常に嫌だ。
「やめなさい、ロード。だめよ」
つい、腰の後ろに手を回してロードの後脚を撫でつつそう止めると、ロードは大人しくまたディアの頭上に引っ込んだ。いい子である。
だが、王女様はきりきりと眉を釣り上げた。
「やめなさい? 誰に向かっての言葉? なんて礼儀知らずなの?」
そうして、手を振り上げた。
あまりに脈絡のない怒りと動作に、あっと思ったが対処できるはずがない。けれど気がついたら、王女様は少し離れて床に転がっていた。
ゆらり、と揺れた黒い尾が、再びディアの腰に巻きついた。もしかしなくても、尾で弾き飛ばしたのだろうか。
がちがち、と軋るような音が頭上から聞こえる。気のせいか、ボワッ、ボワッと熱風が来るので、炎も吐いているかもしれない。待って、髪の毛焦げそうだから、ロード落ち着いて。
「な、隣国の王女に暴力を振るうとは……!!」
ここぞとばかり周囲の何人かが騒ぎ立てようとしていたのを、ジュウェインが手を振って黙らせた。
「言いがかりをやめよ。ディア殿はあのとき、腰に手をやっていた。王女殿下へ無体を働くような動きではない。それに、王族には見えていた」
ジュウェインの言葉に、王族たちが一様に頷く。誰もが、またも、反論を封じられた。
呻いてしくしくと泣き出した王女を、ジュウェインは侍従に起こさせた。そして、静かな声で通告した。
「何度もお話しした通り、私は貴女のそういった短慮な振る舞いを受け入れる気持ちにはこれっぽっちもなれません。また、貴女が受けてみたいとせがんでいた、これが我が国の試金石です。どうしてもと貴国の国王陛下もおっしゃるので、この場へ同伴しましたが、貴女には何も資格がないことは、我が国の王族たち全員が目にしたところです。
何度目かになりますが、これを最後に改めて言いましょう。私は貴女の求婚には応えられません。貴女にはよりふさわしい相手が見つかるでしょう。大人しく、お引き取りを」
「試金石って何よ! あの女が私を弾き飛ばしたのよ!」
「いいえ。貴女を弾き飛ばしたのは、我が国の守護獣です。それがわからなければ、決して、当王家と縁付くことなどできないのですよ」
王女様が目を眇めてディアを見た。まるで信じていない様子だ。
そこへ、ロードがボワッと火を吹き出した。
珍しい金の髪の女の頭上で、突然高く吹き上げた炎は、金の髪に赤く映え、謁見の間を熱で満たした。
王女様は目を見開き、ぶるぶると震えたかと思うと、侍従たちを急きたてて支えられながら退出していった。そのまま国へと発ったと、後日聞いた。
「さて、巫女姫様、ディア殿、ご挨拶が大変遅れてしまって、失礼いたしました。お察しの通り、長く煩わしい事情により通話する機会も設けられず、とても寂しい日々でした。
改めて、一年間のお礼を、心から申し上げます。ロードも、健やかな様子。そして、とても仲良くなられたようですね。
一年の生活に、ご不便は有りませんでしたか? 最高級のおもてなしをと申し付けて行きましたが、そばにはおりませんので、ずっと気にかかっておりました」
青褪めた者もいただろう。使用人たちはこの場にはいないが、ディアの扱いが粗雑になっていくのを知りながら、放置していた王宮管理の担当者たちもその場にいたのだから。
彼らの反応を、ジュウェインは見逃しはしていないだろう。けれど、ディアとしては不満のない範囲だったので、穏便に済ませて欲しいものだ。
それに。
「一年のお約束が無事終わって、よかったです。それで、私の役割は終わりだと思いますが、ロードはいつお返しすればよいでしょう? それからなら、私はいつ帰ってもよいのでしょうか?」
ジュウェインが、凍りついた。
「……帰る?」
「ええ、元いたところへ。一年のお約束でしたので」
「待ってください! その、私としては、さらにお願いが。いえ、お礼もまだ十分できておりません。もう少し、ぜひお時間をいただきたい。……ここではなんですので、あとでゆっくりお話をさせてください」
その勢いに、ディアは思わず仰け反った。嫌な気持ちは全くないが、どうしてそんなに必死そうなのかは、わからない。何しろ一年ぶりに直接会う、なんというのだろう、雇い主? それよりは、もう少し近いだろうか……。
ジュウェインがそっとディアの手を取ろうとしたとき。
パシリ、と音がして、ジュウェインの手が弾かれた。
ゆらりと揺れる、黒い尾。
「ロード? なぜ、拒否する?」
ジュウェインが自らのペットを険しい顔で見つめる。
対抗するように、ロードが威嚇の火を吹いた。
わけがわからずいきなり始まった緊張の場面に、ディアは呆然とするしかなかった。
視界の隅で、メリリアン、と名乗った王族の姫が、にんまりと笑っていた気がした。
★
ともかくも、帰るのは王族がしかとふさわしい謝礼を贈ってから考えて欲しい、と必死かつやや強引に請われて頷いてから、七日。ようやく、ジュウェインが帰国後の諸業務の間に時間が取れるということで、まずは詳しく話をすべく、気候の良い中庭を指定された。ちなみにいまだにロードは同じ部屋に寝起きしているが、中庭ということはお留守番である。
これまでであれば。
ところが、何がきっかけだったのかいまだにわからないが、あの謁見の間でのやりとり以来、ロードがジュウェインに対して大変心が狭くなっているのだ。今日も、部屋に呼びに来た侍従の顔を覚えていたのか、ジュウェインの匂いでもついていたのか、敵だと認定したように、侍従に本気で噛みつきかけて追い出した。
開け放った扉を挟んで部屋の中のロードと睨み合い、あれこれ策を講じて出し抜こうとする侍従の苦戦を見かねて、ディアはため息まじりにロードを誘ったのだ。
というわけで、ディアの頭の上は、今日もロードの居場所となっている。
「ロード……」
中庭の入り口でディアを待っていたジュウェインは、ムッとした顔をしていたが。すぐに頭を振って切り替えたようだった。
お茶と軽食の用意がなされた東屋に来ると、人払いをした。
「いくら通信手段が発達したからといって、やはり一年丸々不在にするのは、危機管理も思いのままにはならぬと、よくわかりました。ご不便をかけて申し訳ありませんでした。
——不在の間のことを、いろいろと、本当にいろいろと、調べさせました」
そこでジュウェインは黙ってしまい、しばらくは二人、無言で風に吹かれた。
穏便に、というディアの願いは、人伝にすでに何度か伝えてあるのだ。
「……そうですね、まずきちんとお伝えしたいのは、守護獣の秘密です。
守護獣は、我々王族の血を一定程度濃くその身に流す者しか、見ることができません」
やはり、とディアは頷いた。
謁見の間でも、見えている者と見えていない者との違いは明確だった。思い返してみれば、お茶会の参加者も、御用聞きも、飼育係だって、ロードの様子を向こうから尋ねることもなく、姿を目で追う様子もなかった。とすると、何も存在しないのに何かを飼育する体で振る舞っている痛い女、だと思われていたのか。やや凹む。
「守護獣の世話をするのは、男系の王族と決まっています。それも、ロードに受け入れられ、かつ餌と認定されず、何かの時には身を守ることのできる成人に近い年齢の者でなければならない。現在は私だけが、その資格を持っています。——父を除いて、ですが。
さらに、今回は世話係の私が特例として国外へと出る間、貴女という巫女姫を得た上は、どんな影響を与えるかわからない王族は、ロードに近寄らない取り決めとなりました」
おや、とディアは首を傾げた。ではあの初めての客は……。
ジュウェインは、しっかりとそのことを把握しているようだった。少しだけ口の端を引き上げて、どこかへと視線を投げた。
「メリリアンは、少し変わっていましてね。私のはとこに当たり、血の繋がりとしては濃くはないものの、ロードを見ることができる。……さらには、無類の猫好きで」
「猫、のほうなんだ」
「爬虫類は、大嫌い、だそうです。なので、両方を兼ね備えたロードのことは」
「好き、ってこと?」
だから、なんだか意味不明な用事を作り出して、様子を見に来たのだろうか。冷たいような蔑んだような物言いをしていたが、もしかしてツンデレ?
「いえ、むしろどちらでもあるということが、猫に対して不誠実だと感じられるようで、虫唾が走って埋めてしまいたいほど嫌い、だそうです。……ロード、悪いな。だから、お前の来ない中庭で話そうと思ったんだ」
ジュウェインはどうにかロードとの関係改善をはかろうとしているのか、優しげに頭上に話しかけているが、放置しておく。なぜなら、何か嫌な予感がする。
「ジュウェイン王子、その、メリリアン姫は、何をしに来たのか、私はずっと気になっていて」
「実は私もです。彼女は今、都合よく女性の体調不良と称して屋敷に引きこもっています。無理に呼び出すこともできない。なので、目的はいまだにわかっていません」
何も目的はないのかもしれない。
けれどあの謁見の日、彼女はにんまり、笑っていた。気がする。
「部屋に来た時、メリリアン姫は、私を挑発していたような。自分たち王家の方がロードをよく知っているぞ、と。あと、私の髪に魔力がない、とか」
「魔力?」
「そう、ロードが私の髪にいたずらをするのを見て、躾がなってない、食べさせるものではない。けれど、魔力がないなら食べさせても大丈夫だけど、と……」
ジュウェインが、言葉を失ったようだった。その視線が頭上に注がれている。髪が一本、つん、と引っ張られた気がして、彼が何を見ているのか、わかった気がした。いつもの通り、ぷつん、と切れた髪を、大きな口をはむはむ開け閉めして、玩具のように食べているのだろう。相変わらず、金色の珍しい髪が気に入っているようだ。
実はなんと都合の良いことに、ロードは排泄はしないので、自分の髪を排泄物の中に見つけるという、物悲しい事態にはならずに済んでいる。
「……ロードの姿を見える者を、私の留守中にロードに近づけなかったのは、ロードが万が一、気移りしたら面倒だったからです」
いまだに目を離さないまま、呟くように王子様が言った。
「だれか傍系の男子に気移りすれば、その者に高い地位を与えなければいけない。万が一、女子を気にいるようであれば、王妃とするか、高い地位のものに嫁がせるか。なににせよ、王宮に留まってロードの世話をする者の立場を強力に保障する必要が出て、私がこのまま立太子するよりも複雑な事態となる」
「気移り。つまり、懐いちゃうってこと?」
「そうです。だけれど、面倒だけれど、そこまで問題ではない。なぜなら、誰が選ばれても落ち着いて対応できるように、ロードを見ることができる王族の血に連なる者たちは、王家によって直接、ロードと過ごすに当たっての決まり事を学ぶからです。
その、決まり事の一番大事なことは、自分を餌にしないこと」
そうだ、それは、メリリアン姫からもあの日聞いた気がする。
「なぜ、餌をやらないかといえば、成熟するからなのです」
一旦停止。
何度か上滑りしながらも、よく意味を考えてみる。
「餌、というのは、あの生き餌のことではなく」
「なく」
「魔力ってやつ?」
「そうです」
「え、それをやらないと、成熟しないってこと? 生き餌だけでは不足ってこと?」
口のつけられていないお茶のカップをのけて、ジュウェインは薄く年季の入った革張りの書物を傍から取り上げて開いた。
そこには、一ページ全体に、ロードの似姿が描かれていた。いや、少し、少しだけ、厳つくて、目つきが悪いだろうか。なんとなく、ロードに似た別個体な気がした。ぱらり、とめくられた次のページには、線の細い感じのロードの絵姿。
「この国千年の歴史の中で、実はロード・オ・ロードは代替わりしています。特に王国の初期の頃は頻繁でした。まだ王家はロードたちとの付き合い方を知らず、ロードたちは数年で成熟して、次代を残して、すみやかに老いて死んでいった。大変なのは、代替わりをしたときに、きちんと王家が新たなロード・オ・ロードを惹きつけておくことでした。王家は常に、緊張し、気を使い、その方向性すら見失うことが多々ありました。王家は学び、ロードに適応し、またロードも我々に合わせて適応してくれたために、私たちは両輪となって、ここまで親密な関係性を発展させ続けてこれたのです」
「ロード・オ・ロードは、ロードの王という意味。国の南にある温暖な湿地に住うロード種の中で、特に魔力と知性の高い唯一の者が、王です。いや、姿はロード種だが、同じ種として語っていいのかはわかりません。
ロード・オ・ロードの子が次の王とは限らないが、魔力は知性を引き上げます。つまり、王族から多くの魔力を受けたロードから、次のロードが生まれるのは必然なのです。
ゆえに、古の王家は、ひたすらにロードに魔力を与え、次代を産ませました。次代が産まれると、先代のロードは儚くも間をおかずに息を引き取ります。それが本来の種の寿命なのかもしれませんが……いつの世にも、ロード・オ・ロードは一体のみ。
けれど、その度に、若い世代の王族が世話係になり、数年単位で入れ替わっていくのです。
——そんなことはそう長くは続けられませんでした。
大きく歴史は端折りますが、ある時、打開策が講じられたのです。ロードは普通の生き餌も食べてくれます。生命維持にはそれで十分、ただし、幼年期の体のまま、成熟の機会を長く延期することになります」
「成熟しないままでいても、健康上問題はないこと、魔力を与えることで、再び成熟し次代を成すことができることは、しっかりと確認されました。——それで、今のロードもまた、魔力を与えることなく、生き餌で毎日を過ごさせているのです。
唯一の例外が、世話係を決める時です。私が世話係となる時は、指の先から血を舐めさせて魔力を与え、私を強く認識させました。
……それ以外で、自らを餌にすることは、禁忌なのですが」
え。やっちゃった?
知らずに演じていた失態に血の気が引いたディアに、宥めるようにジュウェインが笑いかけた。
優しい雇主で、本当にありがたい。
「確かに、ディア殿の髪に魔力は感じられません。本来は問題ないはずです。過去に例はないですがね。……けれど不思議なことに、ロードに成熟の兆しが見えます。いえ、私のことを拒絶しているのが、雄性化の現れだとしたら、兆しどころか……」
徐々に深刻な表情になるのが恐ろしくて、どうしても黙っていられずに、ディアは乾いた声で笑った。
「雄性化って、そっか、ロードは男の子だと思っていたけど、代々のロードは、次代を産むから、雌ってこと……?」
言うなり、ぺちん、と滑らかな尻尾に頬をはたかれた。ご不満のようだ。
そのまますりすりと撫でられると、その絹のような肌触りにうっとりしてしまう。
と、突然、ジュウェインが動いて、ごく間近に膝をついて触れてきたので、驚いた。
「ディア殿、この事態がどうなるものか、前例のないことなのでわかりません。わかりませんが、貴女が私のそばにいてくれるのであれば、なんの問題も生じないことだけは確かです。まして、私は留学中、貴女と他愛ない会話をできる短い時間に、大変心を支えてもらったのです。
どうか、帰るなどと言わず、私の妃として末長く一緒にいてはくれませんか。……ええ、ロードも守護獣ですから。そばにいられますよ」
おまけ扱いをされたロードが尻尾で攻撃を繰り出したが、ジュウェインもそれをかわしたりいなしたりと素早く防ぎ、その合間にディアへのプロポーズを言い切った。
けれどまあ、その返事は一択なのだ。
「ジュウェイン王子、ごめんなさい。応じられない」
「そんな」
「だって、あなた、息子さん3人もいるよね? あ、今は4人か」
ジュウェインは黙った。
「しかもお妃様はもう5人いるよね。お一人は二ヶ月前に出産した、って聞いたよ。5人平等に、週に1日ずつお妃様たちに通信してお話ししてたんでしょう? まめだよね」
素直に感心する様子に、わずかも嫉妬がないことを見て、ジュウェインは、はあと肩を落とした。
「妃たちの誰よりも、話すのが気楽で楽しかったのは事実なんですが」
「それは、他人だから気楽なんだよ。私も楽しかったよ、うん」
褒めたのが気に食わないのか、ロードがまたぷつり、と髪の毛を食んだ。それを見て、ジュウェインは、額を片手で覆って、半眼になった。
「それで、貴女はどうされるおつもりでしょう? ロードも、貴女が帰るなど、同意しなさそうですが」
「あー」
ディアは答えに迷って、そっとお腹の温かな尻尾を何度も撫でた。
「少し、時間をもらってもいい? ロードともよく話をしてみようかなって、そう思っていたの」
「話……? ディア殿は、ロードとその、意思疎通ができる、と?」
「なんとなくは。でも会話はしたことはないから、正直わからない。でも、もしかしてって思う理由もあって。——はじめに私がジュウェイン王子の前に現れた時、『願いを叶えに来た』みたいに言われたけど、実は違って。もちろん、少しでも願いの手伝いになるよう頑張るつもりだったけど、でも、私にも願いがあってね。だから本当のところは、ジュウェイン王子の願いと私の願いが、多分たまたま合致して、私が来た……そうだと、思ってた。
でも、私の願いと合致した相手が、厳密にはジュウェイン王子ではなく、ジュウェイン王子を通して願った、誰かだったとしたら、って一年の間にたびたび思ってた」
ジュウェインはしばらく静かにディアの顔を見つめていたが、やがて柔らかに微笑んだ。
「もちろん、納得がいくまで、お時間を使っていただいて結構です。貴女は、私の願いを受けて、完璧に叶えてくださった。私は何の後顧もなく、留学を楽しみました。貴女は、私の巫女姫です。それは、変わりません」
「ありがとう」
立ち上がったジュウェインにならって、ディアも立ち上がり、握手を交わした。
この時ばかりは、ロードはジュウェインの手を叩き落とそうとはしなかった。
★
部屋に戻ると、扉脇に控えていた女官さんが、今日の分です、と手紙の束を渡してくれる。王族貴族からの招待状やら、お茶会への参加希望やらと、今日の贈り物のリストだ。
「今日は銀細工、ガラス細工、絵画、刺繍の講師がすぐに来ることができるそうですが、いかがなさいますか? ハイキングには時間が遅くなりましたので、アフタヌーンティーを奥庭でお取りいただくこともできます。お申し付けください」
謁見以降、待遇が再び変わって、以前よりも至れり尽くせりが過ぎて、ちょっと重たい。引く。悪気はないのだろうけれど、放置気味の方がよかった。絶対。
必要なら声をかけるから、と扉の前からも下がってもらって、部屋に入る。
この部屋も一時、贈り物の花や宝石飾り皿なんかと大量の布やらレースやらに埋め尽くされかけたのだが、受け取りを固辞したために、事なきを得た。いやまあ、別室に保管されちゃってるみたいだけど。
穏便に、言葉を選んで、気を悪くさせないように、けれどもう二度と贈る気がなくなるように、と断り方を考えすぎて胃が痛み、結局、すべてロードのせいにさせてもらった。
ロードが花や宝石を食べたら体調を崩すかもしれないし、飾り皿はロードが自由にしていると割るかもしれないし傷つくかもしれない、布やレースが大量にあるとロードがくしゃみをする……。
ありがたくも、効果覿面だった。
「……」
ソファに近づいたら、ロードが頭の上から降りてソファに落ち着き、黒い尾でディアの腕をするりと撫でた。まるで隣に座るように促しているようだ。
もちろん、文句はない。ストンと座る。その膝に、ロードの前脚がちょん、と乗る。腕にあたるロードの腹は、すごくぬくい。
けれどそこから、どうにも自然にいられない。
こんなとき、いつもどうしていたか、なぜか思い出せない気がした。いや、普段は、会話なんてしなかった。ただ、ロードの黒い目を見つめて、首を傾げたり、笑ったり。それだけで、なんとなく感情がわかっていたので、十分だったのだ。
けれど、さっき決めたのだ。確かめてみる、と。
さて、とディアはロードの黒い目と向き合った。
「あの」
止まる。
いやもう、こんな時って、何を言えばいいのか。
黒い目がじっとこちらを見て、わずかに首を傾げている。待ってくれているようで、少しだけ、勇気が出た。
「あの、私、ディア・モートリウム、26歳です。成人しています。分類学的にはヒトです。所属は第3世界のアースの日本。仕事はデザイン、といっても絵とかではなくて、ビジネスデザインの仕事をしています。新規プロジェクトとか、新事業立ち上げの時に、雇われで青写真を描くところから仕上げまで担当します。人間関係大変な時あるし、鬼のような締め切りで死にかけることもあるけど、楽しいし、友達もできるし、なにより自由がきくので、満足しています。……えっと、家族は、両親と妹。でも皆、活動的で、アースにはいないことがほとんどです。この世界に来てからも連絡をとってるので、心配はされていなくて、いつか遊びに来たいって言ってて。で、えっと」
怒涛のアピールタイムかのように喋り、続く話題を思い付かず白くなって、残り時間があるわけでもないのにあわあわする。
いやもうほんと、これまでの活動で成果ゼロなのも、そりゃそうだってやつだ。
一年も一緒に過ごしてきた相手にもかかわらず、やっぱりこれかあ。
別に人見知りでも、男性恐怖症でも、あがり症でもないのだけれど。けれど、自分を知ってもらおうと思って、しかも相手に好感を持ってもらいたいと思ってしまうと、もう、何がなにやら、わからなくなるのだ。
黒く優しい目だって、その瞬間には、こちらを淡々と観察して呆れているような、ひんやりとした目に見えてしまう。それが自分の見え方でしかないと頭でわかっていても、どうしても感じてしまう相手との隔たりは、ディアが自然体でいることを許してくれない。
今までなら、思わず俯くところだが。
「えーい!」
ダメだったら、もう帰るだけなのだ。
この世界での後悔は、きっと一生尾を引く。盛大に。
だから、ディアは掛け声をかけて、ロードの頭に覆いかぶさるようにして抱きついた。さすがにここまで触れるのは、初めてだ。
乾いた感触。けれど、硬くはない。鱗の段差はあるけれど、革のように滑らか。そして、温かい。
ロードは一瞬硬直したものの、ゆったりと尻尾を振って、大人しくしている。
味をしめて、ディアは両手で、思うさまロードを撫でた。やさしく目の上を辿って、首を撫で下ろし、顎のトゲトゲを指でつつく。目と目の間の平らなところに頬を添えると、わずかな鼻息が首筋にかかってきて、きゅんとする。そのまま、両手で首を挟んで、そっと、毛皮に沿って背中をつーっと。
「くすぐったい」
首元で声が聞こえて、ディアは目を見開いた。
いや、予想はしていたし、以前もそういえば聞いた気がする。けれど、感動は色褪せなかった。
「ロード、喋れたのね」
ぱっと体を起こして問い直したのだが。
沈黙。
沈黙。
沈黙、ぱたり(←尻尾)。
なぜだか、ロードが緊張しているような気がした。
「……あの、ロードのところはどうかわからないのだけど、私の世界では、ふさわしい相手を見定めるのに、話をするの。お互いの情報を交換して、大丈夫だと思ったら、結婚前提でお付き合いをしてみるの…だけど」
肌身離さずに持ち歩いていた、掌に隠れるほどのカードを取り出して、見せてみる。個人情報の塊のようなものだ。当然、誰かれなく見せることは禁止されている。
これは、禁じ手だ。
でも、ロードなら、むしろ知って欲しい。まあ、さっき怒涛のアピールで、十分情報開示してしまっているわけだが。
黒い目がぐぐっと開いて、まんまるになった。
これは、理解しているな、と冷静な部分のディアが見てとった。
さきほど、わけがわからなくなっていたディアは、もういない。ここが攻め時だ、と将軍な部分のディアが叫んだ。気がする。
「できれば、お話がしたい。ロードと。だめかな?」
そっとひと撫で。
もう、黒い目にひんやり感なんか、見つけられなかった。
けれどある意味、別の意味でひんやりした。それはもう。ぞっとした、とも言う。顔色なんか、一瞬で青くか白くか、どうにかなったと思う。確信する。
「……僕も、話がしたいよ、ディア。僕たちの言い伝えでは、はじめは言葉は避けるべきものだとされていて。魔力がお互いに馴染んで、実質夫婦になったときに、名を交わすのだと言われていたのだけど。ディアは魔力を使えないから、僕の魔力にいつまで経っても気付いてくれなくて。どうしたらいいのか、とても悩んでいたんだ」
切ない表情で黒々とした瞳を伏せて、真っ赤な髪を腰まで垂らした姿が突然目の前に現れても、やっぱり、どこかでそれを期待していて、心底驚くと言うほどでもなかった。
ただ。
ふっくりとした白い頬と小さな顎は金の産毛に縁取られ、赤く色づいた口は少し拗ねているかのように尖っている。すんなりした細い首。伸び代を感じさせる滑らかな手足が、纏った布のような衣服から伸びている。
「ロード、なの?」
「……うん」
はにかんで首を傾げる様は、美しい。
美しい、少年だ。
少年。
え、少年だ。まじか。
「うひゃああああ、うそ!」
つい悲鳴を上げてしまい、ジュウェインや女官や衛兵が駆けつけてきたが、ロードは堂々と人の姿を晒し、彼らがディアに近寄ることを許さず、追い出してしまった。
「ディア、落ち着いて。僕はもう……忘れてしまったけれど、100は超えてる。とうの昔に成年だ。ただ、人型の外見は相手の魔力の馴染みに左右されてしまうみたいだね。君の美味しい髪を食んで、だいぶ魔力も馴染んできたのだけどね」
「え、髪? 私の髪に、魔力があったの?」
「もちろん。生けるものは皆、魔力を持つものだ。ここの人間には感知できない種類のようだけど、かなり上位の魔力だと思う。君の魔力と馴染んだ僕は、君の寿命に添い遂げられるようになるよ。ああもちろん、味だって、とても甘くて、爽やかで、くせになる美味しさだ」
ソ、ソウデスカ。
寿命のことは、本当ならなによりだ。なによりなんだけど、なんだかソワソワしてしまって気もそぞろだ。美味しいって。美味しいって! 魔力の質のことを言っているのだと思うのだけど、ソファの前に立って両手を握られ(というかその体勢のせいで膝の間に入り込まれてる)、上気した少し赤い頬でうっとりと言われると、本当になんだか落ち着かない。
見た目が愛らしさ爆発の小学生なので、ときめき、まではいかないのだけど。
「ディアには、折に触れて僕の魔力を流していたんだ。だいぶ馴染んでいるから、ほら、目の奥が少し、赤い」
それは知らなかった!
「ディアはまったく自覚がないみたいだけどね。でも、自己紹介してもらったし、これは、名を交わすってことでいいんだよね」
「名前。教えてもらえるの? ロードではないのね?」
「うん。僕の固有の名前は、」
耳元に囁かれて、くすぐったくも嬉しい。
けれど、これで夫婦だね、とにこにこ言われて、とっさに頭が追いつかなった。
「え、今ので?」
「うん、完璧な名の交わしだよ。もう、ディアは僕の奥さんね」
まじですかーーー!!
目がくるくると回るようだ。嬉しいのは確か。けれど、なんだか展開が急だし。なによりも、ロードの姿がどこか、心にブレーキをかけてくる。
「あの、あの、あの、もう少し、大きくなってからでも……」
「うん、夫婦生活の本番までは、もうあと数ヶ月、待ってもらわないといけないかな。でも、すぐだよ」
たのしみだね、と、夫になったロードは、柔らかな舌でディアの頬をちょん、と突いた。
★
それから。
「僕らは気の長い種族だけどさ、せっかくディアと夫婦になったから、新しい生活をしたいよね。それに、僕ら独占欲が強いからね。たくさん人の雄がいるところは、いやだな」
と、ロードがここグランディオス国で新婚生活を送ることに難色を示し。
ただし、ディアとの出会いを演出した礼に、と、改めて出張守護獣契約をジュウェインと結ぶことになった。互いに代替わりをしても、その契約は受け継がれるとの条件で、グランディオス国としても渋々ながら受け入れる結論となる。
その結論を待たずに、ロードはせっせと毎日種族の故郷だという南方の湿潤な土地に里帰りし(遠距離を跳べるお仲間に運んでもらうとすぐだそうだ)、わずか一週間ほどでディアとの新居を整え、唐突にディアと共に城から立ち去った。
まさかそんなにすぐに出て行かれるとは思わず、城は上を下への大騒ぎとなり、出張守護獣契約受け入れへと、強いテコ入れになったとか。とか。そりゃなるわ。
一年丁重に扱ってもらったことや、ロードに至っては代々の王様と密な関係を築いてきたわけなので、恩知らずにならないよう、どうにか落ち着いたらアフターフォローをしようと、ディアは決意している。これ大事。
まあでも、とりあえず。
自分のことを手に入れるためにものすごく頑張ってくれているロードに、ぎゅっと抱きついて。その二人の自撮りを、家族へ送ろうか!
★
「お邪魔するわよ」
「メリリアン」
相変わらず唐突に訪れるはとこに、ジュウェインは呆れた顔を隠さない。その顔に、ツン、と顎をそらして、お姫様、と言うには美女すぎるメリリアンが意地悪げに対抗する。
ディアへの工作が露見してからしばらくは険悪な雰囲気となっていた二人だが、出張守護獣契約締結後は月に数回、わざわざどちらかが相手を訪れて喧嘩をしているので、意外とお互い好ましく思っているのではないか、と周りは見ている。
「そんな顔をするなら、ディアの近況は聞きたくないってことね?」
「そうは言っていない」
話しながらもメリリアンは勝手にソファに座り、ジュウェインはその向かいに掛ける。傍若無人なようでいながら、きちんと休憩時間を見計らって訪れるのが、メリリアンだ。さっとお茶と軽食が出され、いつも通り、ぽんぽんと遠慮のない会話が続く。
「まずこれね。招待状。結婚式するそうよ。今更よね」
「ようやくか。いや、だが二年は、婚約期間としては長すぎはしないな」
「それは王族基準でしょ。身内では一年前くらいに式を挙げたって聞いたわよ。ロードはそれまでだいぶ我慢してたみたいよ。ほら、写真も。見て、お祝いは二重に必要よ」
大きな口を開けて笑うディアは、自分のお腹を両手で支えている。ジュウェインは目を丸くした。
「え、これ、父親はロード?」
「そりゃそうでしょ。あのロードが、他の誰にディアの身を明け渡すと思うの」
「いや、まあ、それはわかるが。え、メリリアンは、ロードの人型に会ったことがあるのか?」
「あるわよ。私、あちらまで謝罪に突撃して、それ以来親しくしてるもの。貴方だって、まだ城にいるころに会ったのでしょ?」
二年前のあの日のあの後、悲鳴が聞こえたと報告を受け、急いで向かったディアの部屋に、見慣れないのに、確かにロードであると確信される男がいた。人を相手に成熟したら人の姿になることができるなど、王家の言い伝えのどこにもなかった。千年の歴史の重みが、今や頼りない。
「だがあの時のロードは、人で言えば十歳ほどで」
「あれからにょきにょき育ったみたいよ。ほら」
「うわ、え、これがロード?」
さっきは一人で写っていたディアの背後に立つ背の高い男は、一緒に守るように、ディアの手に手を添えて、ディアとそのお腹の子を抱きかかえていた。
「ちょっと、その手の指輪で、ロードと守護の契約を結んでるんでしょ? 顔見たりとか話したりとか、しないわけ?」
「これはそこまで便利ではないな。男同士で面倒だ、とか言われそうだし」
「じゃあ、さっさと次は女王にでもして、指輪を譲りなさいよ。まあ、女王になったとして、面倒だ、って結局言われそうだけど」
「僕はまだ、即位したばっかりだよ?」
なによせっかく、男系に凝り固まった制度をやめることになったのに! とぷりぷりしているメリリアンの狙いは、これだったようだ。
王族の男子、特に王子たちが世話係を志し、多くの場合は誰かがうまく受け入れられ、その王子が次代の王となる。他国は男女の差が減り、女であろうと優秀であれば世継ぎにでもなれるような時代。なんとなく問題なく上手くいっていたがゆえに、変化のきっかけがないまま、古い制度に疑問も持たず、凝り固まった慣習の国と他国に見做される状況から、脱したいと。
「私が若かったら、次を狙うのになあ。でも、今だって、好きなところに行って好きなことをして、代わりに家の領地経営に貢献してそれを認めてもらって、って、考えられないくらいに自由になった。きっと、貴方の娘たちは、女だからとか、女なのにとか言われずに、もっともっと自由に生きられるわ」
してやったり、と話すメリリアンは、キラキラとしている。
「でもこの話をディアにしたら、それはいい、って言ってはくれたけど、でもさらに、男だからとか男なのにとも言われないといいねって。誰もが自由の対価にきちんと責任を負える人間として、皆が自由な心でいられる国になるといいね、って。確かに、女ばかりじゃないわね。誰もが、決め付けられないで生きることができるのが、理想だわ」
「そっか。……そうだね」
「だから、貴方も、さっさと次の代を育てて譲ってさ、もう一回学問の世界に飛び込んだって、いいわけよ!」
ジュウェインは、ぽかんとしてメリリアンを見た。そんな、青春の頃に一瞬思い浮かべた青い夢、誰にも話したことなどない。このはとこは、実によく、人を見ている……。
そう。王族の男、王族の姫、と定義づけられて、型にはめられた気がして窮屈だったのは、お互い様なのだ。メリリアンが変わり者だと、切り捨てるように関心を持たなかった自分とは、大違い。
私は次は、隣の大陸に行きたいの、と話すメリリアンに、抑えきれない笑いが込み上げてきた。
「メリリアンは、僕の鏡だ。心の奥の本当の欲を、照らして示してくれる。君と会話していると、心をかき乱されるけれど、最近はなかなか、心の掃除をしているようで心地よく、なくもない。
——ディアと話をしていると、もやもやもなく、気がつくと心が軽くなっているようなとても快い気持ちになったけれどね」
二年経った。ただ、懐かしい。
結婚式が、楽しみだ。
「ところで、どこで結婚式だろう。もしかして、南の湿地?」
「どこだろう。湿地の奥の秘境かも? 私もまだ入ったことはないけど、いいところみたいよ。あ、でも、大丈夫。ちゃんとお迎えを送ってくれるそうだから。空飛ぶ系の」
「…………」
「あと、一応伝えておくけど、今後万が一、私が不意に消えても、はっきり事件性がなければ、放っておいていいからね!」
メリリアンの突飛さには大分慣れていたが、これにはジュウェインも顔をしかめた。
仮にも王族の女性が突然消えて、問題がないわけがない。
「まあ、問題になるかもってのはわかるんだけど、これって、呼び出しがいつ来るかまるで不明って言うから。でも、やっぱり知ったからには登録したいじゃない?」
「呼び出し? 登録?」
これ、とメリリアンが掌サイズの精緻な印刷がなされた紙片を見せてきた。
婚活召喚派遣、と金の箔押しで書いてある。
「ディアも、これでそろそろオスになってお嫁さん欲しいなあって思ってたロードとマッチングして、この世界に来たらしいの。私も、ちょっと興味ある」
ん?
一瞬理解が追い付かず。やがて、ジュウェインの表情が無になった。
いやいやなるほど。それは、王子といえど、5人も妻がいる男には靡くまい。婚活では選びたくない相手トップだろうとも。
「あ、しゃべっちゃった。結婚式の時に、自分で話すってディアに言われてたんだった! だから、巫女姫扱いはやめてほしいな、ってね。私も賛成よ。そろそろいいんじゃない? 友達なのに、いまだに敬語で巫女姫呼びとか、かえって不自然よ」
ふふふ、と心底楽しそうにメリリアンは笑い、くいっとお茶を飲み干すと、じゃあまたと風のように去っていった。
ジュウェインはちらりと自分が嵌める黒い石の指輪を見下ろして、そしてくっくっく、とこちらも笑い出した。
さて、結婚式までに、大切な友達への祝いの品とお土産を、たくさん用意しなくては。
新しい家族に捧げます〜。
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