能ある鷹はマイノリティ
世の人々の多くは、なぜか“一握りの天才”というものに、憧れや嫉妬を覚えるものらしい。
だけど、よく考えてみて欲しい。
全体から見て、ほんの数パーセントしか存在しない天才――それはすなわち“とてつもない少数派”ということに他ならないのだ。
大概のことが多数決の原理で動いていく現代社会において、それは圧倒的に不利な立場でしかない。
それなのに、なぜ人は、そんなモノに憧れたり妬いたりするのだろう……。
他人と違うというだけで、この世は何かと生きづらい。
口では個性を認めながら、実際には出る杭は打たれるのが世の習いだ。
考えてみれば当たり前の話なのだ。
大多数の人間は、「他人が自分より優れていること」を素直に喜んだりしない。
何をしたわけでもないのに、ただそこに存在するというだけで、他人から疎まれ敵視される……そんな苦しみもきっと、一握りの人間にしか分からない。
僕は、他人より優れた才や能力なんて欲しくなかった。距離を置いて囁かれる称賛や陰口より、ただごく平凡な友情が欲しかった。
だから、自分の能力を封印しようと思った。
能ある鷹は、きっと好きで爪を隠しているんじゃない。爪を隠さなければ仲間さえ恐がって近づいてきてくれないから、隠さざるを得ないんだ――そんな風に、思っていた。
そもそも子どもの社会においては「勉強ができる」より「運動会の組別対抗リレーでアンカーに選ばれる」方がよほどヒーローになれる。
同じ“能力の差”でも「運動ができる」奴は羨望の眼差しで見られるのに、「勉強ができる」奴は“真面目”だの“ガリ勉”だのと実情に合わないレッテルを貼られ、変な風に絡まれやすい。不公平な話だと思う。
体格に恵まれず腕っぷしにも自信の無かった僕が自分自身の能力を隠したのは、自衛の意味でも有効だったように思う。
他人より優れていると思しき部分は表に出さず、逆に不得意な分野や失敗は積極的にさらけ出した。
“自虐ネタ”は他人を貶める必要もなく笑いがとれて美味しい。
いつの間にか、自分を低く見せよう、低く見せようとするのが習い性のようになっていた。
そうなってくると当然、アピールだの自己PRだのというものは大の苦手になってくる。
苦手と言うより、それはほとんど本能的恐怖に近い。
爪を隠す以前に見てきた他人の敵意や嫉妬の目が、トラウマのようにフラッシュバックして、長所を述べようとする口や頭を凍りつかせる。
そうしていつも、とりたててアピールになるとも思えない、無難でありふれた“長所”を口にして終わりにしてしまう。
今の僕は周りの人間から見れば、欠点だらけで長所もほとんど無いくせに、それを苦にも思わずネタにして喜ぶプライドの欠片もない人間、というところだろうか。
――それでいい。それでも他人と交わっていたいと、僕自身が望んだことだ。
だけど、いつも何かが心の片隅で引っかかっている。
本当にこれが、僕の望んだことだったのだろうか……。
“自虐ネタ”は多くの人間に有効な“親しみやすさ”アピールの手段だが、一部の人間に対しては最低の悪手となり得る。
人は、自分より優れたものに敵愾心を燃やし攻撃したがるものだが、同時に自分より劣ったものに対してもまた、優越感を味わうために攻撃したがるものなのだ。
忘れかけていたその事実を、僕はつい最近、やっと思い出した。
笑いを引き出すためにわざと誇張して話した失敗談を、鵜呑みにして侮蔑し、あまつさえそれをネタに虐げようとしてくる人間がいることを、僕はこれまで想像したこともなかった。
あまりに信じ難くて、侮辱の言葉を吐かれている最中でさえ、呆けたように彼らを観察してしまったものだが、彼らは僕のその表情を「ショックを受けている」と勘違いしたらしい。
「良いストレスの捌け口を見つけた」とばかりに下卑た笑いを浮かべて去っていく彼らを見送り、僕はしばし途方に暮れた。
こういう場合、悔しがったり、悲しんだり、怒ったりするのが通常の反応なのだろう。
だが、そんな感情は一切無く、ただ「困った」「どうしよう」という困惑の気持ちばかりが浮かび上がる。
実際問題、実害さえ無ければ、彼らは僕にとって実に興味深い人間サンプルだ。
彼らがどういう思考の経路を辿り、僕を「自分より下」の存在と判断し、虐めの標的とするに至ったのか、解き明かしてみたい気持ちもある。
上手く解明し応用できれば、いじめ問題の抜本的な対策が出来上がるのではないかとさえ思ったりする。
だが、事はそう単純ではない。
何かと言っては刺激を求めたがる思春期の青少年が、個々の判断や理性が働きづらい“群れ”を形成しているとなれば、ふとしたきっかけで行為がエスカレートしていくことは想像に難くない。
そして僕は、それを甘んじて受け入れるほど我慢強くも度量が広くもなかった。
僕と他人と、何が違うのかと訊かれたら、結局のところ一番の違いは「頭脳を使うことを苦痛に感じない否か」なのではないかと思う。
頭を使って現状を理解し、分析し、その最適な解決策を導き出す――そのことを、面倒に思うこともなく、むしろゲームをクリアするように快感を感じてしまう。
他人が人生の壁に突き当たって絶望するような場面でも、すぐさまその壁を乗り越える方法はないかと思索を始め、その考察自体を推理小説でも読むかの如くワクワク楽しんでしまう。
長い間爪を隠し続けてきた僕は、自分の能力を発揮する機会に、知らず知らずのうちに飢えていた。
そして自ら敵として名乗りを上げてくれ、心証の良し悪しを考慮する必要の一切無い彼らは、その力を揮う相手として、これ以上ないほど打ってつけだった。
そもそもが相手のスペックをよくよく確認もせず、勝手な心象やうわべの情報だけでターゲット認定してくるような、考えなしな人間ばかりだ。
反撃の想定もしていなければ、弱点などの情報を隠そうという意識すら無い。
それどころか、後に黒歴史や人生の致命的ダメージとなりかねない加害行為の物的証拠を、自ら山ほど提供してくれる始末だ。
ちょっとつつけば即死なのでは、というほど無防備過ぎるその有様に、僕の方が「よくこれで、いじめなんてリスキーなことに手を出せるな」と呆気に取られたほどだ。
力を揮ったと思うほどの手応えすら無く、拍子抜けなほどあっさりと、僕は標的から解放された。
僕としては、ふりかかった火の粉を払い落したというだけの感覚だった。だが、周りの人間にはどうも、そう見えてはいなかったらしい。
周囲の僕を見る目がいつの間にか、爪を隠す以前のものに戻っていた。
いや、それよりもっと悪いかも知れない。
何か得体の知れないものを見るような、畏怖とも恐怖ともつかない眼差し。
そこで僕はやっと、自分がやり過ぎてしまったことを悟った。
――そうか。普通はこんなことがあっても、自分一人で解決したりはしないのか。
人格否定の言葉を散々投げつけられてなお、平然と冷静に相手を追いつめて、逆にトラウマを植えつけたりはしないものか……。
以前は親しく話していたはずの人間さえ、今では微妙に僕と距離を置いて接してくる。
だが、僕はそれを恨みに思いはしない。
皆と「同じ」に見て欲しくて、ずっと自分を偽ってきた。本当の自分を見せたら、近くにいてもらえないと思っていた。
だけど、それもこれも結局、僕が皆を過小に評価しているのと同じことなのかも知れない。
あるいは、僕が臆病で、周りを信じきれていないだけなのかも知れない。
いっそ、僕のような“天才もどき”なんかとは違う“真の天才”たちのように、周囲に理解してもらえることなどないのだと諦めて、自分の道を貫く方が良いのだろうかと、時々考える。
だけど僕はきっと、その寂しさに耐えられない。
“天才”だ、“選ばれた人間”だと、皆、口では褒め称えるが、そのうちの何人が、そんな“天才”を本気で愛してくれるだろうか。
皆が欲するのは天才たちのもたらす成果であって、天才たち自身ではない。
僕は、皆から何とも思われない優秀な人間でいるより、皆の輪の中に普通に溶け込んで笑い合える、愛すべき人間になりたかった。
そして今もそれを、焦がれるほどに望んでいる。
世の人々の多くは、“一握りの天才”なら「人生を上手く渡っていける」と思っているのだろう。
だけど、よく考えてみて欲しい。
他人より優秀な能力を持ってさえいれば、必ず幸せになれるのか、と。
この世にほんの数パーセントしかいないという、生まれながらの孤独を宿命づけられて、本当に幸せと言えるのか、と。
僕はきっと、そのうちまた爪を隠すだろう。
これが正しいことなのか、自分でも分からない。
だけど爪を隠している間、僕は今よりずっと幸福だった。
その時間を取り戻したい。ただ、それだけなんだ。
Copyright(C) 2020 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.




