入り口の話
人間が社会生活を始めてから、歴史の中に物流がうまれた。物流は交易を生み、交易は貨幣を生み出した。貨幣はそれ以来人間に取り憑くゴーストになった。時には形を表し、時には姿を消し、人々の頭にこびり付いて離れない。人の思念は貨幣を動かす。やがて人に名札がつくだろう。
世界には3つの姿がある。人が生き、救い、殺している世界。金が生かされ、掬われ、殺している世界。そして人が生かされ、掬われ、殺している世界。多くの人が現実世界と呼ぶのが一つ目、多くの人が経済界と呼ぶのが二つ目、多くの人が知らないのが三つ目だ。俺は三つ目の世界を異世界と呼ぶ。この話は三つ目の世界についての内緒話だ。
高校は兄貴の卒業したそこそこの進学校に進んだ。兄貴はそこを卒業して有名国立大学に進学、当然俺も期待された。両親共に国立大学出身の公務員だったから勉強は幼い頃からそこそこ出来ていた。兄貴と一緒の大学を落ちて一浪していた俺は、ふらついた一年を過ごして後、県外の国立大学に潜り込んだ。
親の期待は裏切る形になったが、合格した時は妙に自分にしっくり来た。まるで自分がそのレベルの人間で当たり前だったような、不思議な感覚だった。
皆んなが当たり前に過ごす人生が変わったのは普通の大学二年生の秋の夜更けだった。
俺はなんとは無しにタバコを買いにコンビニに行った。タバコなんて吸わないし、吸った事もない。親父がはるか昔に吸っていたらしい事を母親づてに聞いたくらいだ。
ただその夜は霧が濃くて、一人暮らしのワクワクする孤独を一層強く感じていたからかも知れない。タバコをポケットに突っ込んでコンビニを出た俺はすっからかんの国道沿いをのんびり散策した。タバコ買ったってライターなんて持って無かったし、買ってしまった後はまるで興味が無くなって、家に着いたらそこら辺で腐るしかないだろう。そこそこ歩いて肌寒くなってきた時、
「おい、タバコくれよ」
と背後から声をかけられた。
心臓が跳ね上がり、締め付けられた。勢いよく振り返ると、若い男が立っていた。
「タバコ、持ってるだろ?一本くれよ」
妙にフランクに話しかけてくる。男は顎髭をジョリジョリ擦ったままこちらを見つめてくる。驚きが通り過ぎた後の身体の火照りが落ち着いてきた。俺はタバコの箱を差し出して言った。
「どうぞ。僕は吸わないので」
男はちらとタバコに目を向けて受け取った。無言でフィルムをはいでタバコを加える。ライターを開く金属音が小さく響いた。
「それで」
男は煙を吐き出すと言った。
「当然、覚えてないよな」
「何をでしょう?」
どこかで会った事があるだろうか?真っ暗で大きめの服、顎髭、凄みのある目つき、一度でも会ったら覚えているだろうし、こんな知り合いが自分にいるとは思えない。
もしやカツアゲだろうか?タバコを買っているところを見られて目をつけられたのか。一時の感情任せの行動を悔みかけた時
「克也」
男の口から自分の名前が溢れでる。煙混じりの声は俺の方にしっかりと届いた。
「井上、克也だろう?」
間違いなく自分の名前だった。うだつの上がらないどこにでもいる自分にはピッタリの名前だ。
男はこちらを見据えてゆっくりと煙を吐き出す。ゴツい指輪が霧と煙に混じって鈍く光った。
「なんで、知ってるんですか?」
「キョウダイだからさ。ブラザー、エルマーノ、兄」
ニヤリと笑う。
「は?」
俺は呆気にとられた。タバコに男にカツアゲに兄弟、全く不思議な夜だ。
「兄弟愛を祝福して、教えてやる。お前は選ばれたんだ。これからの人生、金に取り憑かれる。向こうでは生き残るのがルールだ。気が向いたら殺しても良い。とにかく郵送されてくる物が必要になる。開けるタイミングは分かるはずだぜ。何かオカシイからな」
男は言い終わるとタバコをもう一吸いした。
「はぁ……」
オカシイのはお前の頭だろう。そんな言葉が頭を過ぎる。
男は鼻を鳴らすと火のついたタバコを弾き飛ばした。
「あ!」
俺が思わず声を出す。タバコを拾って前を向くと男の姿は無かった。周りは霧に覆われて国道のライトがぼやけて光っているだけだ。タバコの匂いが鼻をついた。