表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

児童文学

先端の丸い暴力

作者: 空見タイガ

 ぼくに欠けたものなんて何ひとつない。だけど強いていうなら、ぼくにはペットが足りない。

 気づいたときから、パパは海外で働くようになっていた。たまに長いお休みが取れたときは、ぼくたちのところに帰ってくる。それは分かっているんだけど、リビングで席についてお茶を飲みながらテレビを見ているパパに出くわすと、晴れた日の雨を見ている気持ちになる。

 対面に座って成績表を見せれば「えらいじゃないか」とパパは手を伸ばしてぼくの頭をなでてくれる。ママと違ってパパはとてもやさしい。ママはパパのいない家でいつも空回りばかりしている。それもぼくの将来のためになることらしいんだけど、今のぼくには将来なんてまったく想像がつかない。周囲の大人がぼくの成績表を見て教えてくれる、すばらしい進路の話にぼんやりとうなずいているばかりだ。

「ずっとがんばったんだな」

 たまに会うからパパはきちんとそう言ってくれる。でも、ぼくと毎日会う人たちは、ぼくが努力するのは当たり前のことだと思っているので、そんなことは言わない。

 ママの料理は始まったばかりだった。ぼくはパパの方に身を乗り出して小声で「ペットがほしい」と言った。パパは後ろを振り返ってママの背を見たあと、またこっちを向いた。

「飼うのは構わないんだけどねえ。ママを説得するのはむずかしそうだなあ」

「じょうそう教育のいっかんだって言えばいいよ」

 パパはにやにやとしながら、コップを掴んで茶をぐっと飲み干した。

「情操教育ねえ……ママの答えは決まっているよ。だったら植物でもいいでしょ、だ」

「鉢植えに首輪をつけろって言うの」

「なんだ、おまえは首輪をつけたいだけなのかい」

 かっと顔が熱くなった気がしてうつむく。でも植物とペットはまったくのべつものじゃないか。植物はなつかないし、鳴き声を言わないし、まぶただってないからねむたげな表情をすることもない。友だちは子犬やうさぎの世話をしているのに、ぼくだけ花に水をやっておしまいなんて、そんなの絶対にいやだ。

 ぼくにペットを飼わせればどんなに良いことが起きるのか説明していたところで、出来たてほやほやの晩ごはんが机に並べられた。ママのなめらかで白い手が見えてはっと顔をあげた。目があったところで、ママはやさしくぼくに笑いかけた。

「交渉のやり方がわるかったわね。ともくん」

 全てを並べ終えて、ママはパパの隣の席についた。テーブル中央に置かれた皿にはパパの大好きなからあげが山積みになっている。ぼくには野菜を食べなさいと言うくせに、パパが帰ってくるとこうなんだから……ぼくは待っていた。食事の合図を、ではなくて、ママの話の続きを。

 ところが、ママがお説教を続ける前に夕食が始まってしまった。パパがびっくりするぐらいのスピードでぱくぱくとからあげを食べてしまうから、ぼくも負けまいとからあげに箸を伸ばす。ちらりと見ればママは不人気の野菜サラダを片付けるように食べていた……ねえ、ママ。ぼくのやり方の何がわるかったと言うの。どうやって交渉すればよかったの。責めるだけ責めて答えを教えてくれないの。本当はぼくが何を言ったってぼくのやりたいことをやらせてくれないんじゃないの。

 食事が終わって、しばらく三人で話していた。ぼくの成績がとてもよいと先生にほめられたこと。つとむ君の苗字が変わったこと。しっぽや耳のちぎれたノラ猫が見つかったこと。最近引っ越してきた家族が地域のマナーを守らなくて困っていること。そして、パパはまだまだ海外で働かなければならないこと。

 ひとりきりになった部屋で、ぼくはベッドの中に入ってうつらうつらと考えた。どうしてぼくだけこうなんだろう。ママに一度だけ聞いたことがある。その顔には同情もあわれみも共感もなかったと思う。「世の中にはパパがいない子、ママもパパもいない子だっているのよ」「近所の奥さんが最近言っていたっけ、どこかで子どもが泣き叫んでいる声を聞いていたって」「あまりのまずしさで、植物すら飾ることのできない子だっているし」「それに比べたらあなたは幸福よ」どうして比べなきゃいけないんだろう。なんで自分より不幸そうなものを探してきてそれよりは幸福だなんて、あきらめなきゃいけないんだろう。

 枕を顔に押し付けていた。柔軟剤のにおいがぼくの鼻をつよく刺激した。明日にはもう帰るから、きっと疲れているから、これからたいへんだから……それでも、パパといっしょにねむればよかった。

 

 家にいると学校に行きたくなり、学校にいると家に帰りたくなる。この気持ちをきちんと説明できたら、みんなももう少しだけぼくを「ダメな子」だと見下げてくれるんだろうけど、ぼくの口ときたら絶対にまずいことは言わないし、いざ話そうとしてもおどおどとしてしまって、何か深刻ななやみがあるのではないかと、ひどく心配されてしまう。

 特にママときたら、ぼくが遊んで転んでひざを怪我したぐらいで「学校の友だちとはなかよくやってる?」なんて探りをいれてくる。ぼくがやんちゃで怪我したとは考えもしない。大人たちはいつもそうだ。ぼくのことをとても信用している。それと同時に、ぼくのことをとても信用していない。

 だから、ぼくがクラスのいじめに加担していると告白したところで、だれも認めてはくれないだろう。

 クラスでは紙ひこうき作りが流行っていた。最初にはじめたのはつとむくんだった。つとむくんは幼稚園のころからの友だちで、すごく頭がよかった。テストの点数こそはぼくの方が上だったけれど、つとむくんは学校で習わないようなことをたくさん知っていたし、話が面白くて、他のやつとは一段も二段も違うと尊敬していた。ママも「利発な子ね」とほめていたけれど、先生からの評判は最悪なようで「友だちなんだろ? 注意してやってくれよ」なんて相談されることもある——そんなことを生徒に、しかも注意したい生徒の友だちに相談するなんて先生失格なんじゃないかと思う……つとむくんはとにかく目立っていた。始めさえすれば、クラスのみんなもやる気を出して、情熱がクラス外にも伝わって、全校生徒中の流行になるぐらいの影響力が彼にあった。だけど苗字が変わってからは、少しその目立ち方も違ってきた気がする。

 しかしいくら流行といっても、つとむくんほど紙ひこうきづくりに熱中しているやつはいなかった。ちぎりとった紙をちょうどよい大きさにたたんでから、テキパキと折ってゆくさまは、いつまでも見ていられるぐらい上手だった。しっかりと折り目のついたその紙ひこうきの美しさといったら! 完成された紙ひこうきを、つとむくんは何のためらいもなく宙へと投げ出す。紙ひこうきは投げられた方向にぴゅーと一直線に進んで、弧をえがくようにしてゆるやかに落ちてゆく。ぼくたちは感嘆の声をあげて、つとむくんの背を茶化しながら叩く。つとむくんはりっぱな人気者にふさわしい不敵な笑みを浮かべている。ぼくを含めて、ぼくたちを信用していない大人たちにはあたたかな日常が見えているのかもしれない。だけれど、回収しそこねて落ちたままの紙ひこうきを拾って広げてみるといい。ナオジが汚い字で一生けんめいに書いた授業のノートを読めるから。


 久しぶりにつとむくんの家に遊びに行くことになった。前まではつとむくんのお母さんが出むかえてくれたけれど、どうも気配がない。「最近はいつもこう」つとむくんはぶっきらぼうにそう説明して、ぼくを自分の部屋に案内した。

 つとむくんの部屋には毛並のよい上品な犬がいた。つとむくんは犬のからだをうれしそうになでながらこう言った。

「犬のうんことか食わせたら、学校に来なくなるかな」

 しつこいぐらい、つとむくんはナオジの話ばかりをしていた。その話と言うのも、どうやってナオジをいじめようだとか、何をしたら死ぬんだろうだとか、そういうことばっかりで聞いていてまったく面白いどころか、どんよりとしてしまう。だいたい、ナオジなんかに構う必要なんかないじゃないか。きみは頭がよくて器用でかわいい犬の世話を任されているんだから。

 ぼくの顔を見て、つとむくんの笑顔が少しだけ引きつった。

「なんだよ、ナオジをいじめるのに反対かよ」

「べつにそれはどうでもいいんだけど、ナオジの反応ってつまんないなあ。何をされてもいっつもへらへらしちゃって、そのくせ自分より弱いやつにはあたりがつよくって。傷ついてるか傷ついてないかわかんない感じ。気持ち悪いよ。なんか別の生き物って感じがするし、関わり合いになりたくない」

「ああいう、中途半端に頭が悪いやつって視界に入ってくるだけでムカつくんだよ」

 違う形でなんどか聞き出して、同じ形でなんども返ってきた答えだった。いじめの内容はあんなに嬉々として考えているくせに、そもそものいじめの理由はあいまいでふわふわとしている。

 確かにナオジはヘンにずる賢くて、致命的に空気が読めないけど、だけどそんなやつはいくらでもいるじゃないか。クラスから完全に孤立した転校生で、彼の両親が父兄からの評判もよくないと言うのも理由にあるかもしれない。それでも「犬のうんこを食わせよう」だなんて思わせるほどの相手じゃない。無視すればいい話だし、つとむくんだってそうすることはできたはずだった——「利発な子」だった彼は、「利口な子」であるぼくと同じように己の感情をおさえて場をなんなくやり過ごす方法を知っていたに違いないんだから。

 何がそう、耐えられなかったんだろう?


 階段をのぼっていたところで、ぼくは先生に声をかけられた。この先生はめんどうなことを子どもに解決させようとする時にしか話しかけてこないので、自然と緊張が走った。

「最近、クラスの雰囲気が変わったとは思わないか?」

 ええ、ぼくの親友が転校生をいじめていて、クラスメイトも同調して盛り上がっているのでクラスの雰囲気が変わりましたよ。

 ぼくはきちんと分かっている。先生はそんな事実を聞きたいわけじゃない。

「先生が朝会でもってましたけど、しっぽや耳のちぎれたノラ猫が見つかってるじゃないですか。たぶんそれでざわついているんじゃないかなって思います。ぼくの家族もたいへん騒いでました。動物を殺すやつはいつか人間を殺すようになるって。みんな不安だし、怒ってるんですよ」

 そう言いながらぼくは本当に不安になってきたし、怒りがふつふつと沸いてきた。だってノラ猫がいったい何をしたんだ。繁殖したり小便したりで迷惑だと言う話は聞いたことがある。だけど、だからって耳をちぎってもいいわけない。こぶしを作ってふりまわしたいぐらいだった。ぼくが猫を飼ったらぜったいに可愛がるのに! しかし、やはり先生は生徒の悩みや気持ちを聞きたいわけじゃないので、平静に、平静に……と心の中でとなえながら話を締める。

「今はあまりみんなを刺激しないようにして、残酷な話から遠ざけていけば落ち着いていくんじゃないでしょうか。犯人が見つかるのが一番でしょうけどね」

 しかしいくら残虐な話を避けようとしたところで、残虐な行動はつねに先手をうって取り囲み、逃げ道を奪ってくる。

 友だちみんなで公園に集まって遊んでいた時だった。かくれんぼの途中で、ひとりが大きな悲鳴をあげた。鬼は笑いながら「見つけた!」と指をさしたけれど、ひとりが何も言わないでいるのを見ていそいそと近づいて、また彼も叫んだ。木かげで見守っていたぼくたちはようやくただならぬ事態が起きていると気付いて彼らに近寄った。それは葉の多い茂みの中にむりやり押し込められていた——全身に切りつけられたような痕のある、血まみれの猫が捨てられていた。垂れたしっぽからは血がしたたって、ぽとん、ぽとん、と赤い水たまりを作っていた——それがまだ傷つけられたばかりであることを見て悟った彼らは散り散りになって公園から走り去った……ぼくとつとむくんを残して。

「なんでこんなひどいことをするんだろう……きっと、簡単に死なせなかったんだろうね。ほら、見て……うしろの足が紐でつよく縛られてる……止血したんだ」

 つとむくんはこちらをじっと見つめた。

「ここに犯人がいるかもしれないのに、よくそんなに冷静でいられるな」

 つとむくんだって逃げなかったじゃないかと指摘すれば「暴力ぐらいめずらしくないさ」と知った風に言って土を蹴る。

「だいたい猫殺しなんて、おれはこわくないよ。人殺しならまだしもさ、だって猫だぜ。あんなに弱い生き物をいじめて殺す人間がつよいわけがない」

「たとえいくら弱い大人だとしても、大人は大人だよ。ぼくたちじゃかないっこないよ」

「大人が犯人、だとしたらな」

 

 虐待死した猫を見たから、と言うのはあまりにも筋が通らない話だった。だからみんなそんなことは言わないで、とにかくナオジを殴っていた。最初に殴りつけたのはまたしてもつとむくんで、突然の衝撃に倒れたナオジを、さあ待っていたとばかりにみなで囲んで踏みつけたり蹴ったりしたんだった。後から聞いた話によると、あらかじめそうしようと決めていたわけではないらしい。ナオジは必死に頭やお腹を隠して身を守ろうとしていた。しかしつとむくんが上靴のつま先をナオジのお腹にうまくさしこんで体重を掛けた。ナオジは「折れる! 折れる!」と泣きはじめて、痛みから防御を緩くした。つとむくんがそれを見逃す理由なんてあるんだろうか? 相手をいじめる理由すらないと言うのに。

 みんなが飽きて去ったころに、ふらりと立ち上がるナオジの姿を見た。ナオジはぼくがいることに気付いて震えたけれど、そのまま鞄を持って帰ろうとした。が、ふと足を止めてこちらに振り向いた。

「なんで残ってるの……宿題とか出てたっけ……」

 久しぶりに声を聞いたと思った。実際には何度も彼の短い呻きや叫びを聞いていたんだけれど、それは動物の鳴き声のようなものだった。ぼくは一度目を伏せて、それからまた彼を見た。ナオジの左ほほから血が垂れている。猫のしっぽから滴った色と同じ赤だった。

 ぼくは席から立ち上がってナオジに近づいた。彼はびくりとしたけれど、一歩だけ退いただけで逃げるそぶりを見せなかった。ぼくはポケットに手をつっこんで、それを探り当てた。取り出して、そのままナオジに差し出す。

「ばんそうこ、あるけどいる?」

「え、え、もしかしてそのために残ってたの?」

 だからおまえは嫌われるんだよ。

 事実とは反していたけれど、特段それを否定しようとは思わなかった。黙っているとナオジはそわそわとしだして、両手を後ろに隠してしまった。ぼくはばんそうこうの剥離紙をはがして、頬の傷の部分に貼ろうとした。

「えっ、あ、待って。消毒しないと!」

「保健室に行くの?」

 うつむいたナオジのほほにぼくは舌を伸ばした。ナオジの身体はかちこちに固まって、だけど拒絶はしなかった。彼は他人によって起こされたすべてのことを、卑怯なまでに許し続けているんだった……ぺろ、ぺろ、と静かに傷をなめてからぼくはナオジのほほにばんそうこうを貼った。彼は上目でぼくの表情をうかがうだけだった。

「きちんと消毒したし、このばんそうこう。高いやつだから、きれいに治るよ」

 ほほに貼られたばんそうこうを確かめるように、ナオジは自分のほほを触っていた。それからおずおずと一礼をして、後ずさり、閉ざされた教室の扉に背をぶつけた。

「なおんない、なおんないよこんなの……どうして、なんでこんなことをしたのさ」

 やればできるんじゃないか。そう声をかけたくなる程度に、うろたえるナオジの姿は傑作そのものだった。ぼくの行動によって彼のすべてを揺り動かし、新たな反応を引き出した。その事実にたまらなく興奮していることに気付いて、心の奥底からみなぎるものを感じた……。

「学校は、周囲に人さえいなければ、家でひとり留守番をしている時と同じぐらい、心が安らぐんだ。だから学校が終わっても、ときどき一人で教室に残っている」

 壁に話すような気楽さで、しかしぼくはナオジの反応を見張っていた。彼はごくりと息をのんで、ぼくのことをじっと見つめていた。

「君にばんそうこうをあげたのは……特に理由なんてないよ。だけど理由があるかどうかは、気にすることじゃないと思うな。だって、君が作ったほほの傷だって特に理由はないでしょう」

 そう説明しただけなのに、ナオジは突然ぶたれたみたいな顔をしていた。まるで何もかも予測不可能で、自分の頭ではどうしようもないと言いたそうに。ぼくはナオジを壁に追い詰めるように、一歩ふみだしてささやいた。

「なおらなかったら、言って。また消毒してあげるから」


 触れた犬の鼻先がぬれていて、思わず「いいなあ」と口に出していた。つとむくんはぼくの顔を見て「いいかねえ」と返事をして、犬の胴体をなでていた。

「犬もつとむくんが飼い主でよかったと思ってるよ。こんなに毛がつやつやしているんだから」

 つとむくんは犬を抱っこして「でも少しやせたんだぜ」と顔をうずめた。

「だれも面倒を見なくなったから、おれがちゃんと見張って、餌をやって、散歩をしなきゃいけないんだ」

 言いながらつとむくんは顔を毛で洗うようにぐりぐりと犬の胴体に鼻をこすりつけていた。犬はそれでも逃げようとせず、つとむくんの小さな腕の中に納まっている。

 いいなあ。本当にいいなあ。ぼくも、ぼくがいないと生きられないペットがほしいなあ。

 

 ナオジのほほの傷はもう治っていた。目立たないところを攻撃したほうがいいと、ぼくがつとむくんたちに助言していたんだった。だけれどナオジはちぎったノートの切れ端をぼくの机にたびたびしのばせた。「まだ傷がなおっていないから」なんて書いて。

 はじめは教室で会っていたけれど、他に残る人がいたときは使う人の少ない非常階段を利用していた。

 下の段に立つのは僕だった。その一段上に立つナオジは、ぼくに消毒してもらうために中腰になる必要があった。不安定なからだをナオジはぼくの肩をつかんで支えた。もしぼくが少しでも動いてしまえば、ナオジは階段から落下してしまうだろう。だからぼくは踊り場でしようなんて、提案はしなかった。

 ほほをなめられるたびにびくついているナオジを見ると、なぐったり傷つけたりすることのいったい何が面白いのだろうと思う。だれが刃物をもっても、肉は割ける。ぼくのやっていることは違う。少なくともはじめは同じことをしているかもしれないけれど、だんだんとそれはぼくがやらなければ意味のないことになっている。ぼくがやらなくなれば意味のあることに。

 ぼくは犬を飼ったことがなかった。でもナオジが爪をたててぼくの肩を必死につかんでいる時に思った。すべての犬は可愛い。だけれど自分の犬がいちばん可愛いはずだ。そしていちばん可愛いと思ってくれる飼い主を犬はいちばん好きになってくれるに違いない。

 

 一番をとったテストを見せびらかすことはもう止めていた。相手の持っているペンを指さして「これはペンです」と言い続けることがつらかったからだ。でも話してもらえないとそれはそれで気になるらしい。あたたかなごはんを食べている時、ママがふと思い出したように言った。

「最近、テストはどう?」

「いつもどおりだよ」

「そう。ねえ、何か欲しいものでもある?」

 いつのまにか落としていた視線をあげて、ママを見た。いつもと変わらない顔に見える。

「ぼくの誕生日はまだだよ」

「いつも頑張っているそのごほうびに」

 相手がほしいと言っている時にわたさないで、自分が与えたい時にわたそうとするのは、相手を支配したくてたまらないからだと分かってきた。「何もいらないよ」とぼくが答えたときのママの顔は、ナオジをいじめている時のつとむくんに似ていた。

「無理しなくていいのよ。パパにもきちんと相談するから」

「いや、いいよ。ぼくは何もいらない」

 ぼくに欠けたものなんて何ひとつない。だけど強いて言うなら……ママは机の上で手をくんでこちらをじっと見ていた。

「ママがあの時、口をだしたから?」

 あーあ、ママのきもちわるいおはなしが始まってしまうぞ。もう終わってとりかえしのつかないことをぐちぐちと弁解しはじめて、それで暗にぼくを責め続けるあの時間が。

「ママが言いたかったのはね、あなたが自分のほしいものを道具にしてしまったことなの。ペットを飼ったら利口になります。それは理由にならないのよ。だって利口になることが目的なら、ペットでなくても本や塾で代わりになるのだから。あなたはきちんとほしいものがほしい本当の理由を言わなきゃだめだったの。動物が好きだから一緒にいたい。そう言えばパパも茶化さないで、きちんと話を聞いてくれたのに……」

 本当に、もう、遅すぎた。

 ぼくは食べ終えた食器を片づけるために席を立った。

「ママ、よく考えてみたんだけど、ぼくは動物がそこまで好きじゃないかもしれないんだ」

 つみあげた食器を流し台に置くと、がちゃがちゃと音がした。ママが何か叫んで、ぼくに尋ねていた。でもまるで人の声に聞こえなかった。ぼくは蛇口をひねって水を出して、想像した問いに答えを返した。

「ぼくはペットが好きなんだ」


 何もかも慣れてしまうのだと思った。ナオジはもうびくつかなくなり、ナオジが殴られることは日常茶飯事になり、ノラ猫の死骸にだれもが驚かなくなった。やがて話題は移り変わり、自然に終わってゆくだろう。

 だからその全てが一気に失われたとき、ぼくは何も言えなかった。いや、むしろぼくがいちばん多弁だったかもしれない。だけれど、それは彼らがつみ重ねてきたものよりはるかに少なかった。

 提案したのはつとむ君だった。彼はどこかで捕まえてきたらしいノラ猫をかかえて「もうすこし屈んで」とぼくに言った。ぼくは茂みに隠れるように身を小さく丸めた。

「だけど本当にくるのかな」

「なんども試せばいい。こいつはえづけしておいたから」

 そう言ってつとむくんはノラ猫を放した。猫はぴょんと飛び出してどこかへと駆け抜けてゆく……わけでもなく、のんびりと歩き出す。ぼくたちは猫のご機嫌なしっぽを見送って、ひそひそと話を再開させる。

「この公園を選んだのは? 前に死体があったから?」

「それもただの死体じゃなかっただろ。あれはまだ、生温かった」

 まだ日は落ちていなかったし、どこからか駆け回る音も聞こえていた。だというのに大人が猫を殺せるものなんだろうか。保護者でもないかぎり、いることそのものが不自然なのに。

 たずねれば、つとむくんは軽くうなずいた。

「犯人はおれたちと同じ子どもに違いない。だれも子どもがやったと考えてないから、見つけられないんだ……大人はもっと、見えないところから傷つけるものだ」

 ふとして落とした視線からつとむくんがこぶしを作っているのが分かった。そのこぶしと言うのも、親指を中に折りこんでいて、自分の上半身を支えるように地面に押し付けられていた。まるで猫が前足を丸めて座っているようだった。

 からかおうと思って顔をあげたところで、つとむくんの首が汚れていることに気付いた。それはシャツの襟首にちょうど隠れるぐらいの位置にあって、いつもの姿勢なら見えなかったに違いない。指でこすって取ってあげよう。そう思って指をのばしたその時だった。

「何やってんだおまえは!」

 急いで手をひっこめたが、つとむくんはこちらを見ていなかった。立ち上がる瞬間すらとらえることが出来なかった。茂みの先にノラ猫の鳴き声と怒声、それから懇願するような声が聞こえた。茂みから顔を出して、音を立てないようにそっと腰をあげる。砂場でだれかに馬乗りになって、丸めたこぶしを振りかざそうとしているつとむくんが見える。ぼくは彼の背を追うようにして近づく。途中であのノラ猫とすれちがう。立ちどまる。刃物の先が砂に埋もれて斜めに突き刺さり、すぐそばにナオジの顔がある。

 丸められた手は頭上にあげられたまま、何かを待つように震えていた。ぼくはつとむくんの斜め後ろに立って、ナオジに向けられたその表情をぬすみ見た……ぼくがあとずさりすると同時に、つとむくんはこぶしを砂場に下ろした。その手を砂にはわせて、ナオジを見下ろしながら言った。

「最初からおまえだろうと分かってたんだよ、ナオジ。何も悪くないのにいじめられていると思ったか? 違うんだよ。おまえにそういう素質があると見抜いていたんだ。ろくでもないことをしでかすという未来を! だからおまえに手をかけてやったんだ。折檻だ。教育だ。しつけだ。おまえのためだ。でもだめだった。結局おまえには汚い血が流れているんだ。おれはおまえを必要以上に殴りやしないよ。だけど血は抜いておいたほうがいい。そうだろ?」

 砂場から抜き取った刃物の先端がナオジのほほにふれた。ナオジはみじろぎもせず、こちらを見ていた。つとむくんの肩越しから。

「たすけてください」

 首だけこちらに向けて、つとむくんがぼくをにらみつけた。ぼくはただあたりをみわたすふりをしたあとで、ゆるい握りからナイフをうばった。

「刃物で傷つけたなんてことになったら、つとむくんが犯罪者になっちゃうよ! こいつのやったことは先生や警察に任せようよ。これ以上、関わらないほうがいいって。こんなきもちわるいやつ」

 立ちあがったつとむくんは、ぼくに顔を近づけて低い声でたずねた。

「かばってるのか?」

「かばう価値もないよ、あんなやつ」

 砂場でまだ尻をついているナオジを見下ろす。ほっとしたような表情にほほ笑みかえす。

 おまえは何を勘違いしているんだ?

「八つ当たりなんて、サイテー」

 ぼくはつねひごろから思っていた。

「自分がつらいからって、自分より弱いやつを傷つけていいとでも思ってるの?」

 パパと離れて暮らすママに。不良生徒に頭を悩ませている先生に。

「幸福を奪ってまで生きる価値があるの?」

 復讐心からなる、本人も気づいていないだろう歪んだ笑い方に。

「傷つけないと生きていけないなら、死ねよ」

 ぼくはきっと、真顔でいられたと思う。


 ナオジが学校に来ないことは、だれもが先生に聞かされる前から知っていた。はっきりと言葉に出さないまでも、みながノラ猫について話していた。女子の一人が「もうかなしいことは起きないから、記念に何かを作ろう」と言いだした。女子を茶化しながらも「墓がいい」とだれかが言った。ぼくは死体の一つも眠っていない、形だけの墓を想像して、くすりと笑った。

 つとむくんは学校に来なかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ