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十四回目のデートで君は、初めましてと言った。

十四回目のデートで君は、初めましてと言った。



11.



いつもの窓際。


「この席に着く日のことをデートっていうの。」


いくつもの夜を過ごしても、指を絡めて風の中を歩いても、君が楽しそうにそう言ったあの日から、乃亜と僕の「デート」は、いつも変わらない。

しとしと、と幻聴かと思えるほどの優しい雨の音が聞こえる店内。外の温度は閉ざされたガラスを透過し、温かい店内の大きな窓はたくさんの涙を堪え、その精一杯で我慢しているようだった。

じっと外の往来を見つめていた乃亜が、ゆっくりとこちらを振り仰ぎ、僕の姿を捉える。

少し頬に色が差した。わずかな戸惑いが感じられる。

乃亜の前には手付かずのグラスが置かれていた。

乃亜、とその名を紡ごうとしたとき、乃亜は言った。


「はじめまして」


自分に用があるのだと察したであろう乃亜は僕を見つめて、微笑み、軽く会釈してそう言った。

声、乃亜の、声。その声、が、言った、言葉は、一体何、だった?

椅子にかけていた手が、震える。一瞬にして全身を突き抜けた鋭い痛みが指先までも、痺れさせる。

いつしか後ろに立っていたウエイトレスの

ゴチュウモン、ハ、オキマリデスカ 

その言葉が、の彼方の言語のように、頭蓋骨の中に転がった。


乃亜が、不思議そうにこちらを見つめる。


「はじめまして。」


なんとか状況に適応しようとめまぐるしく動く脳が指令したのは、オウム返しの返事だった。

震える声で、ひとつ、そう返すと、乃亜は笑った。


「変なスイ。」


どうしたの、と。


身体中の力が抜けてゆく気がした。何が、起こったのか。


「乃…亜?」


「はい?」


にこりと笑う。


「乃亜」


うわごとのようにその名を繰り返す。


「スイ、どうしたの。真っ青だよ。」


小さな手が僕の手に重なったとき、思わず力任せに握り返した。

「…っ」

顔をゆがめる。

それに構わず、腕を引き寄せ抱き締めた。

椅子の倒れる音、グラスのぶつかる硬質な音。静まり返る店内。

伝票の落ちる音。静かに流れ続ける音楽さえ、途絶えた気がした。

腕の中で「スイ」とくぐもった声が響く。わずかな振動が胸を突く。


十四回目のデートで君は、はじめまして、と言った。


その言葉は、一瞬後には、君の中から消えていた。

わずかな錯乱。記憶の倒錯。こういうことは、珍しいことではなかった。しかし、その狭間にすっぽりと僕は彷徨いこんでしまった。

それは僕の中に途方もない暗闇を生んだ。

このとき、初めて気がついた。

僕が何よりも畏れていたのは、僕が君を失くすことではなく、君が君の中の僕を失くすことだった。




そして、たったひとつの夢を掴む、

そのために、僕は動いた。

叶えるために見た夢を。

乃亜を抱きながら夜毎強い願いに浮かされ続けたその夢を。

世界でただひとつの神聖な願いを、誓う許しを得るために。




12.



「乃亜を、下さい」





乃亜を送り届けたあと、寝室に乃亜を休ませ、階下に下りる。

あの衝撃の日以来の乃亜の両親、父親の方はもともと時折、授業が終わったあと偶然会って軽く挨拶を交わす程度だったが、今、ひどくやつれて見えた。

両親を前に、ひとつの願いを告げる。


「乃亜さんを、僕に、下さい。」


フレーバーティーを運んできてくれていた母親の手元が狂い、ソーサーの上にカップがガチャン、と鈍い音を立て、白いそこに零れた紅茶が歪な沁みを作る。それに気付くことなく、茫然と彼女は僕を見つめた。沈黙だけが、リビングを支配して、僕の言った言霊が三人の間を漂っているようだった。

かつてないほどに僕の意識は凛と張り詰めていた。

目を逸らすことなく、父親の目を見る。

眉間に深く刻まれたしわが、少し動いた。瞼が下がる。

そして大きく息をついた。


「…若槻先生。」


父親の低い声が床を這う。


「ご自分が言っておられることの意味が、わかっていますか?」


威圧感すら感じさせる低い声の中、噛んで言い含めるような、幼子に言い聞かせるような口調だった。


「はい。」


僕は答える。


「いや。お分かりではない。」


父親ははっきりと断言する。


「あなたは、本当に理解なさっていない。乃亜は、」


「わかっています。」


言葉を途中で遮った。

母親が軽く震えているのを感じる。


「わかっています。」


繰り返す。


「今はまだ、いい。しかし時は確実に乃亜を喰い尽してゆくんです。」


見ていられないほどに。


乃亜の、母親が軽く目頭を押さえた。


「その意味を、その現実を、あなたは、わかっているとでもいうのですか。それでも、そんなことが言えますか。」

声に嗚咽が、混じり、声が掠れた。


「あの子がもし、本当に二十一の、普通の娘なら、早すぎると、相手の男を怒鳴りつけながら、反対して、それでも娘を盗られる寂しさに浸れるのでしょう。」


取り出されたまま、吸われなかった煙草が彼の手の中で潰れる。


「君の幸せのことなど、そっちのけで、普通の父親らしく」


普通の、父親、らしく。あの子の幸せを願える、父親らしく。


両手で頭を抱える。


「だが、乃亜は、あの子は、」


「しかし、生きています。」


僕は言葉を遮った。


「乃亜さんは、生きています、そしてこれからも、生きて欲しい」


涙の滲んだ瞳で僕を睨みつけながら彼は言った。


「これから乃亜が辿る道は、ある意味、死ぬよりも残酷なことだ。親である私たちでさえ、乃亜の気持ちを思うと、ただ生きていてくれさえすればいい、と純粋に願うことが出来ないほどに。」


失われる記憶に呆然とする乃亜の姿にいっそ、と何度思ったことか。


堪えきれず母親が泣き崩れたのが視界の端に映る。


「ただ、生きていてくれさえすればいい、と願うことは間違いですか。」


「君は、そんなことが願えるのか!あの子が、この先どうなるか考えても尚、そんなことが、無邪気に願えるのか!」


激昂しても、階上の乃亜を気遣って、精一杯声を落として拳を握り締める。手が細かく震えていた。

ただ、生きていて欲しいと、そう願うことは、間違いなのか。

……アルツハイマーは死に至る病ではない、と認識されがちだ。

しかし、若年性の場合、高齢の患者の場合とは異なり、おそらくは病気の進行が早いために、生存予想年数は五年から十年。

その事実を知ったとき、愕然と、した。

乃亜がそこに居る、そんなことすら僕は失うのだろうか。


「…君は」


深く息を吸い込んで瞑目する。


「君はまだ、若い。今、一時の感情で人生を棒に振ることはない」


努めて穏やかな声を出そうとしているのが手に取るようにわかった。


「今のあの子の側に居てくれる、それだけで私達は感謝さえしているのだから。」


何も、乃亜の未来を、背負うことはない。それはあまりにも重い。

君は、もう十分に乃亜の中を生きてくれた。

過去と現在。それだけで、もう十分すぎるほど。


「乃亜には、今、しか、ないんです。」


かみ締めた唇が切れて鉄さびの味が口内に流れ込んでくる。

乃亜が育てているテーブルの上のキャットミントを見つめる。

乃亜の笑顔。


「本当に、今、瞬間しか、ないんです。」


過去も、未来もない。

途中下車の許されない、乃亜の乗った列車。それは止まることなく進行してゆく。終点に向かって忠実なまでに進行してゆくのだ。

僕はもう、彼女の中の過去に生きるつもりはありません。


「そして僕にも、今しか、ないんです。」


乃亜といる「僕」それは乃亜と共に、ひたすら追い立てられる。

誰もこの時計の針を止めてはくれない。

先刻抱き締めた身体の温度を思い出す。乃亜は、生きている。

乃亜は、十四回目のデートで「はじめまして」と言った。

あのとき走った戦慄。おそらくは死ぬまで忘れないだろう。

期せずして涙が、零れた。


「……願い、します。」


床に手をつく。


「お願いします。」


ぽた、ぽたとフローリングの床にいくつもの染みが出来る。


「お願いします。乃亜さんを、僕に、下さい。」


かたん、と頭の上で音がした。

肩を叩かれる。


「若槻先生。今日のところは、お引取りください。」


瞳が、哀しげに揺れていた。

肩に置かれた歳相応の硬い手に力が入る。

僕は立ち上がり、彼らを見据える。


「何度でも、来ます。」


僕を見て彼は溜息をついた。


たとえ貴方が何度望まれようとも、我々が反対しようとも、それは、

「…乃亜が、決めることです。」

 

最後に呟かれた言葉が夜の中に落ちる。

扉が閉まる音が身体に響いた。

見上げた乃亜の部屋の明かりが消えている。

さわさわと、樹が音を立てた。



13.


 

海が見たいと言った乃亜を連れて白い砂浜に下りる。

さくさくと足跡が残り、波打ち際まで進んだ乃亜が不意に小さな波に攫われそうになった。どくん、と心臓が打つ。


「乃亜っ」


「平気だよ~」


呑気な声。ぱしゃぱしゃと水しぶきを立てて。

スカートの裾を少し上げて素足のままコバルトブルーの中に入ってゆく。赤い夕日が水面に反射して、金色の光。

白いワンピースの乃亜が黄金色に染まった。


拾った貝殻を耳にあて、僕の肩にもたれ掛かる乃亜の名を呼ぶ。


「乃亜。」


「ん?」


螺旋を描いて巻かれた乳白色の貝殻。それを弄ぶ手を止めて乃亜は隣りの僕を見上げた。

両手でその顔を包む。温かい。


「俺と、一緒になってくれませんか。」


呆然と見開かれた瞳。

口唇を、指でなぞる。それは、少し、乾いていた。


「一緒に、生きてくれませんか。」


乃亜の震えが、ダイレクトに伝わってくる。

ふっと、口元を緩め、乃亜は僕の手にその手を重ねた。

ゆっくりと首を、振る。


「…ごめんなさい。」


それは、出来ない。


予測していた、答えだった。乃亜の性格を思えば、素直に受けてくれるとは、思っていなかった。

おそらく乃亜の両親もそれを見越していた。

理由を訊くまでもない。

それでも。


「乃亜」


伏せた目を上げる。


「乃亜が欲しい。」


乃亜が、欲しい。残された乃亜の時間、世界、すべてが欲しい。


ストレートに、自らの欲を曝け出す言葉に、乃亜は戸惑っていた。

一緒にいるだけなら、今のままでもできるのだろう。

そして乃亜もそれを望んでいる。僕がこれからの乃亜に疲弊したとき、何のしがらみもなく離れてゆける、今の状況を。

しかし、乃亜が、欲しかった。


「今の俺には、乃亜が足りない。」


呼吸すら、困難なほどに。


乃亜の瞳から涙が零れ落ちた。


その涙を口唇で拭う。


「乃亜が足りなくて、俺は、」


「…スイ」


掠れた声。それに構わず続ける。


「苦しい。」


苦しい。


どこまでも自分本位で勝手な願い。

僕の中の乃亜が足りなくて。掴んでも掴んでも、この砂のように手の隙間から零れて行く。手放すまいと躍起になればなるほど。

この一握の砂は、かけがえのない砂は、指の隙間からすり抜けてゆく。どうか誓わせて欲しい。

たとえ、それがいずれ自分ひとりだけのものになるのだとしても、一度でいい。

誓いが欲しい。

胸の中の君を、抱き続けるために。



「桜木乃亜さん。どうか僕と結婚してください。」



波音がその声を海の向こうまで連れてゆく。

乃亜の瞳から滴り落ちた涙が、足元の砂にゆっくりと沁みこんでいった。







そして「桜木乃亜」は「若槻乃亜」に、なった。


乃亜は僕の結婚の申し出をどれ程悩んだことだろう。

思い詰めて、思い詰めて、悩むという域を超えていた筈だ。

けれど、乃亜は僕が苦しい、と言った言葉に応えてくれた。

乃亜、ありがとう。ありがとう。









高台にある小さな教会で、誓いを交わす。

純白のウエディングドレス。裾から胸元にかけて刺繍された花々。パールの艶が、それを遮る雲ひとつない青空の下、やさしく光った。乃亜は、このまま、召されてしまうのではないかと思うほどに美しかった。

十字架にかけられたキリスト。棘の冠を戴、両手両足を杭打たれたその姿。鈍い銅色。見上げたその姿は神のもの。

永遠に、君を愛す。

君が誓いを忘れても、僕は君を離さない。

生涯君を幸せにすると言えれば、よかった。

多くの男が口にする、それが、どれほどの重みを持つか、人は、知っているだろうか。口に出来ることの価値を知っているだろうか。

君を蝕む病魔がもしも、もしも幻で、君が、ごく普通の、女性であるならば、言えるはずの言葉が、僕には、決して許されない。

君の幸せは、君のものでしかなく、君にしか、見えないものとなってゆく。けれど、あの日、君は、言った。



「どうか、信じてください。たとえわたしが、貴方のことを忘れてしまう日が来ても、わたしの幸せは、貴方の、幸せです。」


貴方が、幸せであれば、それが、わたしの傍のものではなくても、わたし以外の誰かが与えるものであるのだとしても、スイ、貴方のこの手がわたしから離れても、わたしは、幸せです。

本当に、本当に、幸せです。

だから、誓ってください。幸せに、なると。

それがわたしが貴方に願う、唯一の希みです。




乃亜の投げたブーケが、白い雲の浮かぶ青空の下、白い光の中、ゆるやかな弧を描いて、笑顔の世莉の手の中に、届いた。




14.



あるとき、水の滴る音がして、それが僕らを呼んだ。

しまりの悪い蛇口のように水滴が僕らを呼んだ。

音の源を辿ると、生茂った夏草の中に澄んだ底なしの池があり、月明かりが乃亜を照らすと、妖しく揺らめきながら、池は乃亜の姿を映した。それは下弦の月の夜のことで、月明かりは神々しくもなくひっそりと控えめに、射していた。

そっと入れた手の体温を冷たい水が奪ってゆく。ゆっくりと弧を描きながら水面が震える。

池のほとりには朽ち果てた大木の切り株。乃亜はゆっくりとその場にしゃがみこみ腐葉土を撫ぜた。落ち葉の葉脈さえも鮮やかに映し出すこの池が僕らを映す。

揺れる。乃亜の傍に腰を下ろすと、乃亜は僕の手に触れた。

その手を握り締める。

下弦の月の輝く夜空を見上げる。ゆっくりと雲がたなびき、そして月を隠す。月を隠した雲のように、雲に隠れた月のように、その変わりゆく夜空のように。すべては移ろいゆく。

けれど、僕らは変わらない。僕はこの手を離さない。




15.



どうしたの、というように乃亜が首をかしげ僕を見る。


小さな手を胸に当てる。


「いたい、の。」



スイが、いたい、の。



四回目のデートで君は言った。

「センセイのうれしいを、一緒にうれしいって思えなくなるの。

センセイのかなしいを、一緒にかなしいって思えなくなるの。

わたしは、そんなヒトになっていくの。」


そう言った君は、なおも僕と共に生きてくれている。

僕が苦しいとき、かすかな変化を見逃さず、乃亜は「いたい」と言って涙を零す。

僕を見つけて。花のように、表情が変わる。光が満ちる。


「これは、なに?」


僕の手を握り締めて。強く握り締めて。小さく問いかける。

目を伏せる。睫毛が落とす影。髪が顔にかかる。胸に置かれた手。



ぎゅって、にぎられるみたいに、くるしくて、でも、わたしのなかがスイですごくいっぱいになって、あったかくなるの。



「この、きもちは、なに?」


君は変わらない。


「どうかこの気持ちの名を教えてください。」


僕たちを包み込む空気の温度は一気に下がり、覆うもののない素手はひどく凍えていた。ふとした瞬間に感じる風は髪を揺らし、おそらくはすっかり冷たくなっているであろうそれが、乃亜の頬を撫ぜた。等間隔に浮かぶほの白い明かりが二人の存在の輪郭を顕わにする。夜気の中、僕の手を取り指きりを交わした乃亜の手は日陰のコンクリートを思わせ、細く、まだ明けきらぬ闇の中、一層蒼白さを増していた。絡まった指がそ、と離れたあとも僕は指を戻すことが出来ないでいた。昼日向であれば滅多に見かけることのない野良猫が側を通り、ひたひたと四肢を動かす音が何故かすぐ耳元で響く。蒼い闇の中、そう、まるで、幼子の約束のしるしのように彼女は小指を絡めた。そして、言った。



「どうかこの気持ちの名を教えてください。」



スイのことを、想うだけで苦しくなって、貴方が世界の何よりも、大切で、大切で、胸の奥が熱くなる、この気持ちは、何ですか。


かすかに潤んで光る大きな瞳。それが僕を見つめる。

そして、乞う。愛という名を、教えてください、と。

愛がその名を失くしても、君は愛を伝えてくれる。

ただ、僕だけに、愛を伝えてくれる。

「貴方が、好きです」と、手で、声で、音で、伝えてくれる。

幾度も伝えてくれる。 



「この、きもちは、なに?」


それは、愛。君が僕に捧げてくれるただひとつの、愛。



銀の蓋には瀟洒な細工の施された、うつくしいクリスタルの小瓶。

街中の小さなガラス細工の店で見つけた小瓶に乃亜はひどく惹かれていた。


「買ってあげようか。」


そういうと、うれしそうに、笑った。

「何を入れようかな。」そう言って。


今はそこに。たくさんの薔薇の棘が、息づいている。


薔薇であればすべて許されるのではない。

純白の世界の中でも、乃亜が愛した木々は、乃亜の魂に生きているようだった。無意識のうちに乃亜はハイブリッド・ティーよりもフロリバンダの種を選ぶ。その花は、柔らかな黄色。

ほのかに黄みのかかったミルクの白い色は、日傘を通して漏れる日差しのぬくもりを思わせる。

いつしか乃亜は薔薇の棘を集めることを、好みだした。

僕の表情が翳るとき


「スイの、いたい、なの。」


そう言って、薔薇の棘を集める。

乃亜を待つ僕は小さな庭を囲むアルミ格子にもたれかかり、暮れなずむ空を見上げる。アーチに絡まった蔓のてっぺんに咲く大きな薔薇が、揺れた。





冬だった。

濃い霧を受けた樹木が樹雨を降らせる。

その雫を避けるように僕たちは、歩いた。

ハンカチノキの白い(ほう)を見たいと乃亜は言った。

木にたくさんの白いハンカチが結ばれるのは、来年の初夏。

オオギリ科ダヴィディア属の落葉高木の話を聞いたとき、彼女はそれを見てみたいと瞳を輝かせた。

いいよ。乃亜。

必ず一緒に、見に来よう。







16.

          

          

丈高のシャンパングラスに注がれた淡い飴色のシャンパン、小さな、小さな泡が空気の中に逃れるかのように上がってゆく。

光の溶け込んだ味は甘く、クリスタルの小瓶をあわせるとキン、ときよらかな音を生み、哀しい祝杯を象った。

背筋を伸ばし凛と立つ、その者は、高い位置からまっすぐ前方に伸ばされた腕、その手にもっていたシャンパングラスを手放した。

わずかほども逡巡せずにシンプルでいて、華奢なはかなさを湛えたグラスを手放した手は、蝋人形のように精巧で、一切の温度と排除しているようだ。血色の悪い肌色が人工的な明かりを受けるとより蒼白く見える。

グラスは窓から差し込む光を一身に受けて手放されたときのままの向きでまっすぐに堕ちてゆく。残っていたシャンパンは、天に昇る龍の如く一筋の弧を描いた。日の光、星の光、月の光、街の灯り、春の日差し、夏の照射、秋の霞み、冬の銀光、すべてを含んだそれはきらきらと乱反射し、最後の瞬きを見せる。

破壊音は破壊音たらしめぬ、あまりにも澄みきった音色だった。

地面と平行してわずかにカップの部分が斜めに下を向いた形で堕ちたグラスは欠片となって、聖なる粒子のように静かに空気に溶けた。

          





    乃亜。




17.



彼女の瞳が映すは、青い空に浮かぶ白い雲、ペットボトルの向こう側に揺れる景色、窓の外の雪、澄みきった夜空に瞬く星、翳る月。揺らめく蝋燭の炎でさえもそのままの姿が映る。そして彼女は口の端を少し上げ、かつて人の話に耳を傾けるときにそうしていたような顔をして、何かを聴いている。


乃亜、君はいま幸せだろうか。


そして、僕はいま幸せだと、どうすれば君に伝えられるだろうか。

どの宝石よりも美しく月明かりを弾く君の瞳は、こうなった今、憂いを湛えたままだ。破顔の笑顔など、ついぞ目にしたことがない。透明な瞳には、時折涙が浮かび、頬を伝い、首筋を伝って襟元を濡らすのだ。しかし君は僕に笑顔を向けてくれる。ただ、僕ひとりのために、その笑顔を向けてくれる。幾年の月日が流れても、変わらず僕に向けてくれる。

薬指に輝くプラチナの光。

君は僕を繋ぐ。決して解かれることのない呪縛。

花開くことなく萎んだ紅の薔薇のように、頭を垂れても輝く君を、二度と永遠に手に入れられないのだとしても、僕は悦びの中、その呪縛にあろうと思う。そして、いばらの繭に包まれる君を、守る。

願わくばこれこそが、君を得て、君に触れた罪の罰。

かつて人魚が、足の代わりに得た声の罰。

 


西から雲が来た。

ひと雨降るのだろうか。

乃亜の目がその空を見上げる。ゆっくりとした速度で、視線が、空をなぞる。


 春霞、桜雨。


バルコニーの籐の椅子に掛けている乃亜の前髪が濡れて顔に張り付いている。

中に入ろうか、と声をかけると、珍しく乃亜は僕の声に反応した。小首を傾げ、微笑む。

天使の微笑みだと思う。

無垢で、柔らかで、伏せた睫毛が白磁の肌に暗く影を落とす。

そうして、ゆっくりと首を、左右に振った。

僕は彼女の背後に回り、華奢な肩を抱き締めた。


「乃亜」


冷たい雨にこれ以上熱が奪われてしまわぬように。

濡れた髪はシャンプーの香をより強く醸し出す。甘いブーケの香。

その香が鼻腔に入ってきたとき、柄にもなく泣きそうになった。

雨の音を聴きながら、意味もなく僕は泣きそうに、なった。


「魚だったらよかったな。

そうすれば泣いても、わかんないのに。」


かつての乃亜の言葉を思い出す。


その声を思い出し、涙は、堰を切った。


春の雨は降り止むことなくしとどに降り注ぐ。

乃亜の中にはアスファルトの窪みに溜まった水溜りの世界がある。

雨上がりの空は、とても澄みきっている。

ビルや、商店の看板、側に停められた自転車。

それらを歪な窪みに、逆さに映す水溜り。

深く濃く変化したアスファルトの黒さに、青い空は、より透き通って映る。肉眼で見るよりも、その雲はくっきりとした形を持ち、確かなもので、そびえ立つビルは、誇り高かった。

侵入する異物や、風で、その世界は一瞬ゆらめき波紋を広げるが、それでも当然のように、しっかりと元の形に戻るのだ。

だが、それはいつか枯れ果てる世界。干からびしあと、歪な窪みが浮き上がるのみ。

けれど僕にとってこのひとときの世界は、何よりも「現実」だった。乃亜の中には、その世界がある。乃亜と共に在ったあの頃よりも、確かな世界。

覗き込めば吸い込まれてゆきそうで、透きとおりながらも堂々としていて。偽物の世界から本物を見つめているような錯覚になる。

深い、深い、蒼の世界。未だ光の差さぬ暁闇。その、蒼。

ツユ草のような、イヌノフグリのような、蒼。

乃亜の中に広がる蒼茫の中、僕は、安らぎを得る。


「どうか、このきもちの、なまえを、おしえてください。」


乃亜は、僕に何度もそう言って。

そう言って、僕に愛を教えてくれた。僕が君に愛を伝えると、何よりも真摯に、僕に愛で答えてくれた。


「スイが、すき。」


にこり、と笑って乃亜は言った。



好きだと思えることが、自分が、誰を愛しているか、自覚できることがどれほどのかけがえのない幸せであるのか、それを教えてくれた。

あの頃、乃亜が失われれば失われるほどに、僕は貪欲になった。

乃亜の中に、他の誰よりも、何よりも、僕の存在を刻みつけることに必死になっていった。たとえ、何もかも忘れてしまっても、たった一言、「スイ」と覚えてくれたなら、何を失ってもいいと思った。

これを強欲といわずして何というのだろう。

真っ白な乃亜に、僕だけを刻み込もうとする、我欲。

それでも最後の最後まで乃亜は僕を、呼んでくれた。

乃亜の中の乃亜、以上に僕を呼んでくれた。


「スイ」


甘い、声で、ゆっくりと一音一音、大切そうに、呼んでくれた。



テーブルの上、光弾くクリスタルの中の棘。



桜散らせる春風が、時折激しく吹きすさび、桜の花を偲ばせる。

風花舞いしそのときに、寒さに耐えたるその姿、いまや美々しく乱舞(らんまい)し、桜狂いの風に乗せられ君の残し、かの(ふみ)が僕の手元に届く。





彗へ

 

このところ、世界が、水槽の向こう側のように思えます。

わたしの中に入るのは、散れぢれになった世界の欠片ばかりで、ゆわりゆわりと漂うそれは、小さな空気を上へ上へと手放して、静かに水底に下りてゆきます。そしてわたしはそれを拾う。

水の中に差しこみ、屈折を繰り返してわたしの元に届く光は、ゆらゆらとやさしく世界に広がります。

わたしが、わたし自身が、かつてないほど、身近になっているようです。まるで、鏡の国を抜け出したアリスのように。

タイムリミットが、近いのかも、しれません。

 彗。

神様がたったひとつだけ、わたしの中に残してくれるならば、わたしは、命ではなく彗を残したいと、何度も願いました。

たとえ、わたしがわたしを失くしても、わたしは彗を愛しています。

それを届ける術がないことが、哀しいけれど。

それを伝える術がないことが、苦しいけれど。

それでも、骨に刻むように、肉に刻むように繰り返し続けた彗への想いは、わたしが朽ち果てるまで、続きます。

薬指の指輪が、どれほどわたしを幸せに誘ってくれるか、お話したことが、ありませんでしたね。

遠く、近い世界から、わたしを奪うように伸びてくる手から守ってくれたのは、この銀色の光でした。

彗、わたしの全部は彗でした。

あの日、誓ったように、わたしの幸せは、彗の幸せです。

いつかわたしが彗の手の届かないところにゆく日が来ても、彗は彗の幸せを掴んでください。そして、誰よりも幸せになってください。これが、貴方がわたしに与え続けてくれた愛への、わたしなりの精一杯の応えです。

時折、すき、がわからなくなります。

あい、がわからなくなります。

そういう日が、増えました。そういう時間が増えました。

残酷なまでに、わたしの持つ、たったひとつの真実さえ、奪われてゆくようです。彗に向かう気持ちはいつも変わらないのに、それらが名前をなくします。

伝える唯一の手段の、その名を、失います。

わたしは手の中で、抜け殻を持て余します。

彗。もしもこの先、あなたがわたしに与えてくれたような愛を他の誰かに感じる日が来るとき、どうか、その気持ちを大切にしてください。好きだと思えることが、好きだと伝えられることが、どれほど満たされたことであるか、どうか忘れないでください。

あなたに会えて本当に良かった。

その代償が、今のわたしなのだとしても、わたしは、

わたしは、きっとありがとう、と笑えるでしょう。

もっと違う再会の仕方があったならばと、泣く夜は、もう、通り過ぎました。

あなたが絶え間なくわたしを愛してくれたから。

ひたすらに、愛してくれたから。

たくさんのキスをくれたから。

今も昔もこの先も、わたしは、永遠(とわ)に幸せです。


  彗のこれから先、歩く道が、光満ちたものでありますように。


                      

若槻 乃亜




手紙に同封されていたのは、一枚の薄い薄い紙だった。

乃亜の部分がすべて記入済みになっていた。

滲みのないきれいな捺印。

それは僕たちを、切り離すための、もの。

乃亜の、乃亜らしい、思いやりだ。

乃亜、ありがとう。でも、これは僕には一生必要ないもの。

僕はそれを細かく千切って風に乗せる。

まるで季節はずれの雪のように、ふわりと風に舞った。

 



降り続いていた雨が、止んでいた。

空の両端に七色の橋がかかる。よく繁ったキャットミントの葉にたたえられた雫がぽたり、と落ちた。

僕は軽く腰を下ろし乃亜と目線を合わせる。

そっと顔を寄せると乃亜はゆっくりとその瞼を下ろした。

やさしい、やさしいキス。

口唇を離すと、ゆるゆると瞳を開けて、乃亜は、微笑んだ。



もうすぐ夏が来る。

乃亜が見たいと言ったハンカチノキにたくさんの白いハンカチが結ばれる。



約束したね。乃亜。あの樹を、見に行こう。



雨上がり、風に流されし雲の隙間、青い空から光が射した。



『十四回目のデートで君は、初めましてと言った。』


本編は以上で完結となりますが、最後に番外編となる短編が続きます。


もし宜しければ、最後までお付き合い頂けると幸甚です。

宜しくお願い致します。

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