四回目のデートで君は、もう会えない、と言った。
四回目のデートで君は、もう会えない、と言った。
6.
あの日、意識のない乃亜を家に送り届けると、さんざん探し回って疲れ果てたであろう顔色の両親が深々と頭を下げた。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。」
「いえ。彼女は、大丈夫ですか?」
目を覚ますことなく眠る彼女を見遣って訊ねると、
「ええ。よくあることなんです。」
目を伏せてそう答える。
「乃亜さんは、わからない、ってそればかり繰り返して」
そういうと両親はびくっと弾かれたように顔を上げた。
みるみるうちに母親の目に涙が溜まってゆく。主人がその肩を抱き寄せた。言い様のない空気が三人の間を渦巻く。
「こんな時間ですが、若槻先生、少し、よろしいですか。」
切り出された話は、脳天を突き破るような、衝撃をもった。
言葉を脳が認識するまでに、これほどまでに時間がかかったことがあるだろうか。聞き間違いではないか、という発想すら生まれない。
無音の世界で、滑稽なまでに目の前の人間の口がパクパクと動いている。身体だけが、ゆっくりと動き、目の前のカップを持ち上げる。
中の液体を口に流し込み、飲み込むことを忘れている脳ゆえに、むせかえった。器官が痛む。
「それで、彼女は、そのことを、知っているのですか。」
途切れ途切れ、それだけを訊く。
両親は、ゆっくりと頷いた。
一層の痛みが身体を走った。
先日倒れたときに、部屋まで抱き上げてゆくことを拒んだ理由を、その部屋に入って初めて知った。
『アルツハイマー病とは』
かつて彼女が大好きな樹の本で埋め尽くされていた場所には、その関連の本が軒を並べていた。乃亜の枕元に立つ。蒼い顔で寝息を立てる乃亜の手をそっと握る。
「若槻先生とは、病院でお会いしたそうですね。」
何もいえない母親に代わり、その主人がゆっくりと語りだす。
「どこか、お悪いんですか?」
不自然なほど、自然な会話を紡ぐ。
「いえ。少し風邪をこじらせてしまって。」
「もう大丈夫なんですか?」
「はい。」
「それはよかった。」
沈黙が、続く。それを破ったのは母親の方だった。
「あの子は、乃亜は、」
涙声で言いかけた言葉を手で制し、彼は、言った。
「乃亜は、若年性アルツハイマーなんです。」
倒れるのは、偏頭痛や吐き気がひどくなるときのようです。
いまはまだ初期の段階ですが、地理や、地形、そういうものが時折わからなくなるらしくて。
詳細すぎるほど詳細だった名刺を思い出す。自宅の地図があった。
帰れなくなったとき、それを見せて、連れて帰ってもらうためのものなのだろう。送るという言葉を拒んだのは、おそらくはまだひとりで帰れると、確認するため。自分を、勇気づけるため。
大学は、今休学しているんです。あの子がそう、望んだから。
大学の話が出たとき、かすかに翳った表情。
僕は何も知らなかった。知らずして彼女を傷つけていた。
「樹医になるんだろう?」そう、言って。
その日は乃亜が目覚める前に、部屋に戻った。
「どうしたの!」
扉を開けた瞬間の世莉の第一声はそれだった。それほど酷い顔をしていた。
以来、目の前にいる、恋人であるはずの世莉の顔が、見えない。
見えない。心が、微動だにしない。最低だと思う余裕すらなかった。
乃亜のことばかりが、頭を占拠する。
乃亜からの連絡は、なかった。かといってこちらから連絡するほど落ち着いているわけでもなかった。会っていない間に
センセイ
そう言って笑う笑顔が、消えてしまいそうになる。
海の底から空を見ているようだ、と評された僕の眼鏡だけが、僕の視覚を支えてくれていた。悪い夢ではないか、と思うたび、いまだに残る、深夜の着信履歴が現実に僕を呼び戻す。
彼女がそうしていたように、僕もまた、大学の図書館でアルツハイマー、それ関連の本を読み漁った。知れば知るほど、絶望は深くなる。若年性、それにしたって、乃亜はまだ二十一になったばかりだ。若すぎる。物忘れや地理に疎いのは、生来のものだと思っていたとあの日両親は言っていた。ただ、頭痛がひどく、それで検査をした結果がこれであった、と。目に見える以上に憔悴している両親の姿が、痛々しかった。そんなどん底の中思うのは、会いたい、だった。不謹慎だと、何度もその気持ちを、封じた。
それでも、膨張したその想いは日に日に肥大してゆく。
乃亜に、会いたい。
会って、声を聞きたい。顔を、見たい。そして、触れたい。
そして、僕は、世莉に別れを告げる。
七年近くに及ぶ付き合いの果てにあったのは、身勝手な僕の切り出した突然の別れだった。
「それで、どうするの。」
世莉は落ち着いた声で言った。
「彗は、乃亜ちゃんが好きなんでしょう。」
世莉の目を見ると、想像していたよりも穏やかな色をしていた。
こうなる気がしていた、と世莉はいった。
乃亜ちゃんに会ったって聞いてから、いつかこうなる気はしてた。
「でも、手に入れられるとは、限らないのよ。」
そう、乃亜の気持ちを手に入れられるとは、限らない。
世莉のいうように、世莉との別れを意識し始めていたのは、思えば乃亜と再会した時からだった。あの瞬間から、惹かれていた。
ただ、すべてを投げ出して乃亜に向かえる勇気がなかった。
「ハイリスク、ハイリターン。それ覚悟ってこと?」
そんなことする歳でもないでしょう、と溜息をつく。
若気の至りと笑える歳ではなくなっていることは、わかっていた。まだ二十歳を少し越えたばかりの、少女を。
病を抱える少女を、こうまでも求めてしまう自分が、愚かであることは、おそらく自分が一番よくわかっている。
世莉の言葉に僕は頷いた。
「ほんっと、変わらないわね。彗のそういうところ。」
指輪を外し、僕の手に握らせる。そして呆れたように笑った目には涙が浮かんでいた。
「せいぜい、がんばって。」
で、逃した魚はでっかかったって、あとでいっぱい後悔しなさい。
軽口を叩きながらこぼれる涙も拭わず、世莉は部屋を出て行った。
世莉と、世莉の存在を示すすべてのいなくなったがらんどうの部屋で、かばんから取り出した本を見つめる。
寂寥感や、名残惜しさ、世莉との記憶。すべてが一気に押し寄せてきたが、本のタイトル、ただそれだけが僕を先へと押し上げる。
時間がない。時間が、ないのだ。
電話を取った。
7.
「センセイ……」
あの日ぶりの乃亜の声。
こちらが何かを言い出す前に乃亜は言った。
「この間はすごくご迷惑をおかけしたみたいで、本当にすみませんでした。」
「いや。それより、もう、大丈夫か?」
「うん。大丈夫です。」
そのあと、僕が切り出す話を、予想していたのだろうか。
意外にあっさりと会うことを承諾してくれた。
その、四回目のデートで君は、もう会えない、と言った。
「わたし、センセイとは、もう、会えない。」
淡い笑みを口元に浮かべて、乃亜は言った。うっすらと瞳に浮かぶものがあるように見えるのは光の悪戯だろうか。
あの話を聞いたときとはまた別の痛みが、胸を切る。
「……なぜ?」
「なぜ?」
乃亜は逆にそう問い返す。こちらが黙っていると一度伏せた目を上げて、ゆっくりと話しだした。
「センセイは、もう、知ってるんでしょう?
わたしは、この先、思い出を取り出すことが出来なくなる。
ううん、取り出すにも、思い出の居場所そのものがなくなるの。
昨日知っていたことが、今日、未知のものになる。
思い出だけじゃない。現在も未来も、全部、呑みこまれちゃうの」
声が、震えた。
「あんなに、あんなにいっぱい、集めたセンセイの欠片が、全部消えちゃうの。」
かつて乃亜がひっくり返した過去の記憶というおもちゃ箱。
今思えば、あれは、悲痛なまでの乃亜の心の叫びだった。
乃亜は先を続ける。
「センセイのうれしいを、一緒にうれしいって思えなくなるの。
センセイのかなしいを、一緒にかなしいって思えなくなるの。
わたしは、そんなヒトになっていくの。
そして、それはそう遠くない。」
「…だから?」
「だからって……」
こちらの言葉が信じられないというように大きな目を一層大きく見開いて呟く。乃亜の瞳に僕と僕の前のティーカップが映る。
「だから、乃亜は俺と会うのが嫌なのか?」
小さく頷く。
「俺がキライ?」
意地悪だと知りつつ問いかける。
弾かれたように乃亜が顔を上げた。その瞳は真実を映す。
それを誤魔化せるほど大人ではなく。自分でそれが分かっているのか隠すように目を伏せた。
「乃亜。答えて。キライ?」
ぽた、ぽた、と雫が彼女の膝に落ちてゆく。
「……ライ。」
小さく言った。
キライ。
「乃亜。顔上げて。」
ふるふると首を振る。そんな仕草さえ愛しいと思う。
「…いいよ。乃亜が俺を嫌っていても。俺は乃亜が好きだから。」
おずおずと顔を上げる、目が合った。
「だから、会いたい。これからも、ずっと。」
「世、」
世莉の名前が出ようとしたのを遮る。
「世莉とは、別れた。」
「どうして!」
信じられないと目が語っていた。
「どうして?」
君がそれを訊くのかという風に問いかける。僕の顰めた目に一瞬怯むのがわかった。
「言っただろ?乃亜が、好きだから。」
「でもわたしは、ア、」
「それもわかってる。」
それもわかってる。世莉を傷つけたことも、わかっている。
負けず嫌いで、あっさりとした性格の世莉の涙を見ることは、共に過ごしてきた七年という月日の中でも本当に数えるほどだった。
彼女は僕の前で涙を見せるのを好まなかった。
その世莉が、拭うことすらせず、涙を零した。
それでも、どうしようもない想いがある。自分でも、どうしてこうまでも、たった一つの感情に動かされてしまったのかわからない。
人が人を想うとき、それがすべて美しく円を描くわけではない。途切れ、新たな線を描き、その先に、続きがある。もしも誰ひとりとして傷つくことのない、すべての者に等しき愛があるとしても、人はきっとその愛を投げ出してしまうだろう。
人は、欲を捨てない。より深く、より強く、想われたい、そう願い愛を求める。平均点のような愛情に浸り続けるほど、人は弱くない。
世莉を傷つけた手で、乃亜を守ろうとする。
違う。守るなんて高尚な理由じゃない。ただ、側に居たい。
最低だと自覚しても尚、僕は最低な人間であることを止められない。
あの瞬間に囚われてしまった。僕は乃亜に囚われた楚囚だ。
その日乃亜は明確な答えをくれなかった。
一緒にいたいという僕の言葉に。
それでも、約束だけはつける。無言の圧力でもって。
「じゃあ、また。」そう言って。
店を出ると生温かい風が僕らを包み込む。
少し湿った香りがした。
この風は、きっと、世莉の元にも、吹いていた。
乃亜から、初めて乃亜の方から連絡が来たのは、それから軽くひと月は経ってからのことだった。
今日、世莉に会った、と乃亜は言った。
8.
いつものように通院し、看護師に導かれ病棟内を歩いているとき、その声はかかった。
「乃亜ちゃん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、ゆるいパーマが柔らかい束をつくる、背の高い女性がこちらを見ていた。
「世莉、さん?」
そう声をかけるとぱっと笑顔になった。
「やっぱりそうだった。乃亜ちゃん。久しぶりだねぇ。今日はどうしたの?」
センセイは、彼女に何も話していないのだろうか。
彼女の表情は本当に何も知らないようだった。彼女に何も言わずに、別れを告げ、センセイは自分の側に居るという選択肢を選んだ。
言い様のない胸の痛みを覚えるのを堪え、世莉さんに声をかける。
「世莉さんは?どうかなさったんですか?」
「ああ。私はコレ。」
そう言って手元の封筒を見せた。
「研究室の調査結果をこちらの先生にね、」
要するにパシリです、と言って明るく笑った。
看護師さんを待たせている。話したいことは山ほどあったけれど、そう長くは話せない。その気持ちを察してくれたのだろうか、世莉さんは言った。
「乃亜ちゃん、診てもらうの終わるのって何時頃になる?」
大まかな時間を告げると、世莉さんは嬉しそうに笑った。
「ちょうどよかった。私もそれくらいはかかりそうなの。
ちょっと、お茶でもしない?」
この病院と、人とはよくよく縁があるものだと思う。
センセイに続き、世莉さんにまで会うなんて。
けれど、ちょうどよかった、と思った。
センセイが世莉さんに何も話していなかったのだとすれば、わたしが話せばいい。
指定された駅近くのカフェで待っていると少し経ってから世莉さんが現れた。テーブルの上のガラスに浮かべられた小さなガーベラ。
「ごめんね、お待たせ。」
「いえ、わたしもさっき終わったところなんです。」
そっか、と言いながら席に着く。漂う香水の香りが、かつて勉強を見てもらっていたときのセンセイの移り香と同じことを思い出した。
まだわたしが手放さずにいられる、センセイの欠片。切ない欠片。
「すごいね、偶然。」
紅いルージュの曳かれた唇が、ゆるやかにほころぶ。
「彗ともここで会ったんだよね。」
「はい。」
「乃亜ちゃん、変わってないね。」
俯きがちになってしまうわたしの上から声が降ってきた。
振り仰ぐと、目が合った。
「きれいになったね、とか言うべきなんだけど」
そう言って、乃亜ちゃん、元々可愛いかったからね、そこは許して、と笑う。大人の、女性なのだと、否応なしに感じた。
「時に乃亜ちゃん。」
運ばれてきたアイスコーヒーをストレートのまま口に運んだあと、
少しおどけたような、それでいて真剣な声がかかった。
「彗は、どうしてる?」
あまりな直球に口ごもる。
「もしかしてまだ乃亜ちゃんに会ってない?」
盛大に眉をしかめるのを見て慌てて否定する。
「いえ。先日お会いしました。」
「そっか。それでどう。って私が口を挟むようなことじゃないんだけど。ごめんね。だけど。彗は、幸せに、なれるかな?」
本当に、本当に優しい目をしていた。
この人は本当にセンセイを愛しているのだと、伝わってくる。
センセイが幸せになれるか。そんなことは、有り得ない。
少なくとも自分と居る限りにおいて。
センセイが選んだそれは、正しくない。
黙り込んでしまったわたしを見て世莉さんは優しく言った。
「乃亜ちゃんは、彗がキライ?」
この二人はどうしてこんなに似ているのだろうか。
同じ言葉でもって相手を追い込む。
「キライじゃないよね、高校のときからね。」
ばっと顔を上げると、にやり、と笑う世莉さんと目が合った。
見透かされていた。頭に血が上る。
わたしの部屋の窓を開けて夜に向かって呑気に紫煙を吐く。
そして、乃亜、問5、三行目で計算ミスしてるよ、と。
もっと早く言ってくれれば、と思うほど数式の並んだノートを恨めしく思っているわたしを尻目に、窓際でこちらを見ることなく、事も無げに言い捨てる。
その人は少し意地悪で、冷たくて、それでも、本当はとても優しい。
厳しかったけれど、いつも、最後まで見捨てないで居てくれた。
繰り返し、出来るようになるまで見てくれた。
高校生の子供が届くような人ではなくて、大人で、あの頃のわたしには、背伸びをすることさえ出来なかった。
背伸びの仕方すらわからなかった。
ジャケットからは女性ものの香水の移り香。
それが漂うたびに、胸がきしんだ。
センセイは附属の大学の学生で、ごく稀に会えたときは、たとえひと目見られるだけでも、それだけでとても幸せな気分になれたり。きれいな女の人達に囲まれているのを見て、苦しくなったり。
センセイの一挙一頭足に一喜一憂した、あの頃。
センセイの低い声が好きだった。
指し示す、骨ばった、細くて長い、指が、好きだった。
目にかかる前髪、その眼鏡の向こうで、稀に見せてくれる笑顔が、本当に大好きだった。
乃亜、あんな人とよく一緒に勉強できるね、
あたしなら絶対緊張しちゃって集中できない。
カッコいい先生っていうのも良し悪しだね、
ていうか、だから乃亜数学上がらないんじゃないの。
そう友達に笑われて。
ひどい点数のときはセンセイをダシにからかわれたり、した。
でもセンセイの側にはずっと世莉さんが居て。
どんなに手を伸ばしても届くはずもないのに。
それでも、わたしは、センセイが好きだった。
届かなくても、叶わなくても、ただ、憧れだけは捨てることができなかった。ずっと。いつかどこかでばったり会ったとき、はずかしくない自分でありたい。そう思って生きてきた。
勇気すら出せなかったわたしのやたら、前向きな矛盾。
諸々を思い出し、茹蛸のようになっているであろうわたしを見て世莉さんはくすくすと笑った。
そしてガラスのガーベラに手を伸ばす。きれいな色の爪で触れられたそれはゆらりと流れた。
「うん。正直でよろしい。」
可愛いなぁやっぱり、世莉さんはそう笑う。その視線の先に、花。
「好き?」
たった二文字の禁句。
あの頃伝えないままでいることを選んだ理由は、ただの逃げだった。
けれど今、それを伝えることは許されない。
わたしの世界の、最後に希望の残らない、パンドラの箱。
「………。」
沈黙が帯びた。
下校途中の小学生のはしゃいだ声が届いてくる。プールの帰りなのか、子供たちの髪が一様に濡れていた。蘇る塩素の匂い。いずれ、その光景を微笑ましいと思うことすら、わたしはなくなるのだろう。
わたしは一つ深く息を吸い込んだ。
「世莉さん。」
「ん?なぁに?」
「世莉さんは、ご存知ではないんですか?」
「何を?」
軽く首を傾げた拍子にカールされた髪のひと房が胸元にかかった。
「わたしの、身体のことを、です。」
わたしの向かいにいるその人が怪訝な表情になった。
胸を打つ鼓動が自然、早くなった。自分の口で、誰かにこのことを告げるのは、思えば初めて、だった。
病院の四角い一室で、青白く光るそこに張られたレントゲン写真。
前頭にひどい萎縮が見られる、と状態を淡々と語り、告げられた病名。両親もその場にいた。わたしはいつも受身だった。
「身体って…」
「わたし」
わたし、という一人称と、次に並べなければならない単語、会話の中でさえ、繋げるのがこんなに苦しいとは知らなかった。
奥歯をかみ締める。
「わたし、若年性のアルツハイマー、なんです。」
時が止まった気がした。事実、このふたつの席の間の時は止まっていた。ストローに手をあてていた世莉さんの右手。テーブルの上のきれいにマニキュアの塗られた左手の爪。大きく見開かれた瞳。
中途半端に開いた口。音が、消えていた。
「乃、」
かすれた声。
「亜ちゃん、が?」
「はい。」
見入られる瞳を逸らさず見つめる。
「ど……して」
吐息のような声が漏れた。目を逸らしたのは世莉さんだった。
医学系の研究室にいるという世莉さんだからこその、声、反応。
目元を、片手で軽く覆う。呼吸を整えているのが、こちらにも伝わってくる。手が払われたときに、わずかに瞳に浮かんでいるものは世莉さんの、世莉さんらしい、優しさだと思った。
「治ることはなく、一方通行に病状だけが悪化してゆくんです。」
これから先、刻一刻と。
最初の告白からあとは自然と言葉が出た。驚くほどにすらすらと。
「彗はそのことを知っているのね。」
問いかけではなく、断定だった。
「はい。」
はぁ、と深い溜息をつく。
「…あの馬鹿。」
小さな声が出た。世莉さんの本音なのだろう。
再び動き出した時間の中に、漂う空気。まるで、遠い遠い異国から吹いてきた風のような香りがした。ガーベラがその風に揺れた。
「乃亜ちゃんは、私がこのことを聞いて、彗のところに戻るって期待してる?」
やさしい笑みがわたしを見る。
正直に、頷いた。
期待している、のではなくて、一人よがりな望みだった。
だとしても「今」のわたしにしか祈れない、センセイの幸せ。
そう遠くない日、わたしは、祈ることを失ってしまうのだろう。
たいせつな人よ、幸せであれ、と祈ることを。
祈りも、願いも、誓いも、根こそぎ、奪われてしまう。
そこに残るのは、わたしの残骸。わずかにエゴだけが残る抜け殻。
ならば、せめて今、未来のわたしの分まで、祈りたい、願いたい。
あの日再会したとき、まだ、センセイのことを覚えているときに出会えたことを、神様に感謝した。不意打ちのプレゼントだった。
うれしかった。本当に、うれしかった。
夢見てきた、「いつかばったり出会ったとき」それが叶ったのは、皮肉にも病院での再会で。
わたしはもう昔のわたしには戻れず未来のわたしにも進めない状態だった。わたしの意志を置き去りにして、脳が侵されてゆく。
音も立てずに、静かに脳細胞が、狂ってゆく。
あの頃は決して叶うことがないと思っていた、センセイと過ごせる時間。どうしてこんなことになっているのだろう、と思いながら、流されるように、熱に浮かされるように、その時間を過ごした。
そしてそれは増えてゆくたび、嬉しい反面とても、苦しかった。
こんなに幸せな想いさえも失くしてしまうであろう、いずれ来る日のことを思うと、怖かった。センセイを想えば想うほど、それに比例するように、もっともっと怖くなった。大切な想いを得れば得るほど、不安と恐怖が身体の中をどす黒く染めた。
「彗はね、乃亜ちゃんの病気のことを知ったからこんなことを言ったんじゃないのよ。」
世莉さんの目がわたしを見ている。どうして、こんなに優しい目が出来るのだろう。
「乃亜ちゃんと病院で会ったって聞いたとき、なんとなく、こうなる気がしてた。」
ずっと、付き合ってきたから、だからわかるの。
乃亜ちゃんが、好きなんだ、って。
一時の浮気とか、そんなんじゃないってこと。
だから別れたのよ。もし、浮気だったら、一発二発殴って、それでチャラにすればいい話。私がいうのも変だけど、昔からあいつに言い寄る女って少なくないのよね。悪戯っぽい目で世莉さんは笑った。
「でもね、違うの。彗は、乃亜ちゃんが、好きなの。」
他の誰よりも、私、よりも。過ごした時間なんて、関係ないの。
「今まで彗が積み重ねてきたもの、全部をひっくり返してしまっても、何を失っても、求めてしまう、そんな人に出会った。」
そして彗にとって、それは、私じゃなかった。
水滴のついたグラスに両手を充てる。世莉さんのグラスの中は氷がとけて、薄い色になっていた。
「彗は、病気のことを知ってて、その上で乃亜ちゃんと居たいって言わなかった?」
頷くより他はない。それを見て世莉さんは微笑んだ。
「それが、彗の本音なのよ。」
馬鹿でしょう?でもね、彗は、久しぶりに会った元教え子の病気のことを聞いて、救ってやりたいなんて思うほど、熱血漢でも正義漢でもないわ。
馬鹿だから。どんなに辛くても、いいって、本当にそう思っているから、覚悟の上で乃亜ちゃんに、そのこと、言ったのよ。
それに、同情でこんなことをしちゃうほど、残酷な人でもない。
普段はほんとにそっけないけど、そういう意味では、とても、優しい人だから。
そのことは、乃亜ちゃんにも、わかっているでしょう?
世莉さんの瞳に涙が浮かんでいた。
「乃亜ちゃん。」
「はい。」
もう一度だけ聞くけれど、と前置きをして。
「乃亜ちゃんは、彗が、好き?」
繰り返される質問。答えてはいけない答え。越えてはいけない柵。
……けれど、わたしはその有刺鉄線に手をかけていた。
「はい。とても、とても好きです。」
知らぬ間にわたしの目から、涙が伝っていた。センセイが好き。
世莉さんは、大輪の向日葵のような笑顔を見せる。
「よかった。」
乃亜ちゃん、それでいいのよ。彗の幸せはそこにあるの。
「容易なことじゃないって、わかってる。乃亜ちゃんの辛い気持ちも、少しかもしれないけど、わかってると思う。
でもね?乃亜ちゃん、彗は、今、そこに居るのよ。」
世莉さんはわたしの胸を指差した。
指し示された胸を、かき抱くと、もっとたくさんの涙が零れた。
片手で数えられるほどのことでいい。
何を失っても、ただ、それだけをわたしの中に残してくれると、誰かが言ってくれるならば、わたしは、この「時間」のことを、迷わず数に含めるだろう。
きっと今この瞬間も侵食されているであろう脳細胞が、たとえわたしを混沌と空白の淘汰する世界へ突き落とす日が来ても。
わたしは、深く頭を下げた。留まることのない涙が膝を濡らしてゆく。
「……莉さん、」
世莉さん。
ありがとう、ございます。
わたしは、何度も、繰り返した。声を振り絞って、繰り返した。
この時間を、忘れたく、ない、です。
顔を上げたとき、世莉さんの瞳は光を受けて一層、濡れていた。
それでも世莉さんは、にっこりと、笑った。笑ってくれた。
「うん。」私も、忘れない。私は、忘れない。乃亜ちゃんの分まで。
世莉と会ったと言った乃亜からの電話はひとつだけ、告げた。
「センセイ、会いたいです。」
零れ落ちてきた言葉を掬いたいと思わず手を伸ばしかけた。
拾えるはずのないそれを。
乃亜との電話が終わったあと、しばらくしてから携帯が震える。
一通のメールが届いた。
受信 世莉
件名 無題
本文 ばーか。ばーか。ばーか。
何よりも世莉らしい、と思った。こみ上げてくる笑みと切なさ。
ありがとう、と無言の携帯に告げた。
9.
秋晴れの抜ける青空のもと、隙間なく降り注ぐ日差しの下、ガラス越しの店の向こう側が違う時を刻んでいるような錯覚をした。それは箱の中の音のない映像。いつもの窓際の席に座り、背の高いグラスのストローを弄ぶ細い指。腕に光る繊細な鎖。観葉植物が少し邪魔をする。
ずっと、ずっとこうして見ていられればそれだけでいい。
僕を待つ、彼女を。
僕はただ、それだけで、いい。ただ、それだけで。
不毛な考えを払拭するように重いドアを押す。
カラン、と鈴の音が店内に響いた。
いらっしゃいませ、と店員が笑顔で声をかけるのを制して、彼女の元へと向かう。
次第に近づいてゆく距離。こちらの姿を捉えた乃亜が笑顔を作る。
「センセイ!」
笑顔に応えて席に着く。
「前から言ってるけど。
そのセンセイっていうの、いい加減止めない?」
思わず苦笑が漏れる。
「うーん。でも。他になんて呼べばいいのかわかんない。」
「名前でいいだろ。」
「今更名前っていうのも。」
「今更って何。」
「センセイはセンセイだし恐縮するというか。」
少し俯いて、小さく答える。
「そう呼ばれ続けるのもなかなか恥ずかしいもんなんだけどね。」
もう俺は君の先生じゃないんだから。
笑って言うと、じゃ、遠慮なく、と乃亜も笑った。
「彗でいいよ。」
苗字を呼びそうになるのを先制すると、その形に開いていた口のま
まぽかんとする。みるみる間に真っ赤になる。
「…スイ。」
「はい。」
にっこり笑って右手を差し出してこれからもよろしく、と言うと
こちらこそ、よろしくお願いします、スイ。と差し出した手を握って乃亜は満面の笑顔を見せた。
氷の溶けてゆく乃亜の手元のアールグレイティー。
それを自分の元に寄せ、一口含む。
はじめて名前を呼んでくれた「今日」。
この先何が起こっても決して手放さない。
口の中に広がる香り、苦味。外の陽光、風、このすべて。
五回目のデートで君は僕の名を、呼んだ。初めて、呼んでくれた。
「会いたかった。」
乃亜はぽつり、とそう言った。
「すごく、会いたかったの。」
たった、これだけの言葉が、人の脳内を溶かす熱をもつと初めて知った。
乃亜は続ける。
本当は、側に居るべきではないのかもしれません。
この先、わたしに訪れるものは、もう想像の限界を超えています。
そんなわたしには、誰かを傷つけることしか、できないかもしれません。何も、何も生み出すことができないのかもしれません。
でも、貴方が、わたしの中に、貴方がいるから、この手が血にまみれても有刺鉄線を越えたい、そう思いました。
乃亜は、僕の目を真っ直ぐに見据える。
「スイ、わたしは、貴方が、好きです。」
「ありがとう。」
乃亜の中の自責に負けないでくれて、ありがとう。
好きだと、会いたかったと、言ってくれて、ありがとう。
乃亜は言った。
「世莉さんが、押してくれた背中だから。」
「うん。」
世莉らしい、と思う。三文のメール。あの裏にある意味。
「わたしが開けた箱は、最後に希望の残らないパンドラの箱かもしれません。」
乃亜は逸らすことなく僕を強く、見つめた。
たとえ、君がそう感じているのだとしても、僕はそうは思わない。
乃亜は、乃亜のままでいてくれればいい。
そのとき、そのときの、乃亜であればいい。
乃亜の瞳に僕だけが映る。この、今という時間。
一瞬一瞬、それが繰り返されれば、僕は他には何も望まない。
10.
乃亜は過去をいう夢を見る。そして、その夢の中をゆっくりと漂う。
人にとっては捨ててゆくようなものが、乃亜にとっては至宝となる。
乃亜は何かに酔うかのように、乃亜の中の大切なものの話を、した。
破れたハウスと西日と題したひとつの風景が乃亜にはあった。
よくその話を聴かせてくれた。
乃亜の中の紅が、鮮やかに蘇り、僕の中を色濃く染めた。
道を隔てて建つ、大きな建物の脇に沿って植えられた木が白樫だと気付いたのは、たくさんのどんぐりが転がって、それが踏み潰された憐れな姿を見たときだった。秋という季節。
側に横たわる大きな犬の、ビロードの肌触りの耳を触りながら刻んだ光景。その犬はもういない。眠るように、逝ってしまった。
その犬はとても大きな体をしていて、真っ黒いビー玉のような目で、カワウソのような尻尾をいつも幸せそうにぱたぱたと振っていた。与えたごはんを貪るように食べる姿に「おいしい?」と聞くと、言葉の意味を知ってか知らずか、ぱたぱたと答えてくれた。
いとおしい、いとおしい子。
ぎゅっと強く抱き締めて皮の緩んだ首元に顔を埋めると、お日さまの匂いがした。とても懐かしい匂いで、不覚にも時折顔を埋めたまま泣いてしまう。
まるで獣のようにうめきながら涙を流すわたしに気付いたとき、彼女は心配そうな表情で、ざらざらとした大きな舌で、涙を舐めてくれた。
何もかも、忘れられない。
じゃれついてくる、大きな手。弾力のある黒豆のような肉球。地面を踏みしめるその足はとてもいい匂いがした。そして叱られたときの怯えた表情。
あの子が死んでしまったなんて、信じられない。
部屋の片隅、車の助手席、取り出した冬物のコート、それらに残るあの子のきつね色の毛を見つける度、胸の奥がしわしわとする。
いないはずの存在の名残を見つける瞬間の痛み、残酷な不意打ちだ。
わたしは出かけた両親の帰りを、待っていた。
縁側の向こう側には垣根があって、その隙間から破れたハウスの残骸のビニールが西日を弾き、直視できない眩しさを生んだ。
少しの差でそのポイントがずれてしまい、濃緑の垣根に隠れた光は息絶える。金色を生み出すビニールがとても立派に見えた。
たとえ、姿こそ破れた無残なものであるとしても。
じっと縁に座り込み、明かりもつけずに北国のオーロラのような輝きを見つめているわたしの幼心に太陽は実に神秘的な映像を映してくれた。時計の針はわずかに動いただけなのに空は刻々と色を変える。金色の光は少し気温の下がった空気に溶け、白い雲は暮れゆく青空で唯一黄昏の名残を持った。空の端、山の向こう、もう濃紺になりつつある蒼い空のわずかな紅さがますます鮮やかに見えた。
黄昏色の光を編みながら、失われる一日を見送る。
……違う、失われたわけではない。
ただ、未来が現在になって、現在が過去になる、それだけのこと。
「それだけ」がこうもわたしを打ち砕く。
一瞬とは、弾けるシャボン玉のようなものだと思う。シャボン玉が弾けるとき、わたしはきっとひとつ何かを失くす。
カワウソの尻尾をもった、いとおしい、あの子のように。
この命果てるまでの時間の中で、人はいったいどれだけは失えばいいのだろう。わたしはどれだけ失えばいいのだろう。
ひとしきり黄昏の光を紡いだあと、乃亜は最後に付け加える。
忘れられない、この景色も、あの大きな体のお日さまの香りも、わたしは、もうすぐ失ってしまうんだね、と。
過ぎ行くとき、それはまるで両手から零れ落ちてゆく色彩豊かな砂が光を反射するさまを見ているようだ。
いっそ過ぎ行くときの美しさを心に残そうと思うことができるなら、流れゆくときに怖れずに済むようになるのだろうか。
乃亜が与えてくれる光の中で、乃亜を失くす日に怯える。
覚悟はしていたはずなのに。
僕は、弱虫だ。そして僕の中の弱虫が、季節はずれの鈴虫のように細く、高く、啼いている。
最近の乃亜は、道で途方にくれる頻度が目に見えて際立ってきた。
あの夜公園で見た、空虚な瞳。激しい渦の中に巻き込まれてゆくような混乱。乃亜は、ひたひたと押し寄せてくる影と、小さな身体精一杯でもって対峙している。
たとえば、アイスティーを前に、途方にくれる。
シロップを入れること、ミルクを入れること、ストローの封を切ってグラスに入れるということ。そんな些細なことに乃亜は追い詰められる。悪魔はふとした瞬間に乃亜の傍で猛り狂う。
泣き明かす夜は、両の手を広げて、またその指を折り返して、それを繰り返しても数え切れないくらいになっていた。苦しげに嗚咽を堪えて、強く耳を塞いで、喘ぐ。僕が寝静まったのを見計らって、乃亜はそうしてひとり泣いていた。彼女は僕の前で涙を見せない。
時折、些細な言葉に詰まるようにもなり始めた乃亜は、忘れまいとただ、ひとつのことを、書き綴っていた。
スイ
彼女が刻もうとしているのは、彼女自身の名でもなく、他の何物でもなく、僕の名であることを知ったとき。
僕の名は、君に呼ばれるためにあるのだと、思った。
ニュース番組の天気予報は気持ちがいいほど傘マークが並んでいた。その夜は雨が降るという。それを見て乃亜はひとつ、提案した。
街の空は、まるで蒲公英の綿毛のように、その元を軸として光が燈る。カーテンを曳き外からの光の遮られた部屋の中よりもむしろ外の方が明るかった。
乃亜は言った。
「スイは、空から落ちてくる一滴目の雫を見たこと、ある?」
「一滴目?」
訝しげに問い返すと、嬉しそうに乃亜は笑った。
「うん。
空に瞬く一番星をみつけるみたいに。
車のフロントガラスにつく跡とか、アスファルトの部分的な染みとか、そういうのじゃなくて、ここに降り立つ一滴目。」
それを、見てみたいな。見つけてみたいな。
わたし、きっと見たこと、ないと、思うんだ。
ベッドから降りて、シーツに包まったまま嬉しそうに窓の外を見つめる乃亜を背後から抱きしめる腕に力をこめる。少しシーツのはだけた素肌にひとつ口付けを落とす。少しずつ、遠い日を手放しつつある乃亜に答える代わりに、力を込める。
大きく窓を開け放ち、空を見上げる。
どこにゆくのか、飛行機の轟音が近づいては、遠ざかっていった。




