君を忘れない。
君を忘れない。
『十四回目のデートで君は、はじめましてと言った。』
0.
乃亜とともに歩く道は逃げ水の中にあって、僕たちは蜃気楼の街を生きていた気がする。ゆらゆらと、世界は揺れた。
時計は戸惑い、針を狂わせる。
太陽は雲に翳り、月は闇に眠る。
幽かな光を瞬かせる星だけが思い出したように時折儚く瞬いた。
髪がなびき、どこからともなく飛んできた紅い楓が髪に絡まる。
白く細い手がゆっくりと上がり、それに触れる。
まるで八ミリ映画を見ているような、穏やかで切ないひとつの場面。乃亜はこちらを見て、ゆっくりと笑顔を作る。
木枯らしにも似たかぜが道を染める銀杏の黄金色と木の葉の紅を舞い上がらせ、彼女を包み込むかのように、それらは不思議な風に乗る。紅と黄金の錦が乃亜をかき抱き、連れ去る幻影を、見た。
1.
街の中を流れる一本の細い川があって、その流れに沿って植えられた柳の木の対岸に桜はあった。絢爛豪華な様ではないけれど、しっかりと根を下ろすその姿で桜前線の到来を知る春。今年もその名残が風の中で乱舞した。今は秋。その樹のてっぺんが少しずつ黄色く染まる。次の春まで桜は眠る。人の心の中で、桜は眠る。
隙間なく降り注ぐ日差しの下、ガラス越しの店の向こう側が違う時を刻んでいるような錯覚をした。それは箱の中の音のない映像。いつもの窓際の席に座り、背の高いグラスのストローを弄ぶ細い指。腕に光る繊細な鎖。観葉植物が少し邪魔をする。
ずっと、ずっとこうして見ていられればそれだけでいい。
僕を待つ、彼女を。
僕はただ、それだけで、いい。ただ、それだけで。
不毛な考えを払拭するように重いドアを押す。
カラン、と鈴の音が店内に響いた。
いらっしゃいませ、と店員が笑顔で声をかけるのを制して、彼女の元へと向かう。
次第に近づいてゆく距離。こちらの姿を捉えた乃亜が笑顔を作る。
「センセイ!」
笑顔に応えて席に着く。
「前から言ってるけど。
そのセンセイっていうの、いい加減止めない?」
思わず苦笑が漏れる。
「うーん。でも。他になんて呼べばいいのかわかんない。」
「名前でいいだろ。」
「今更名前っていうのも。」
「今更って何。」
「センセイはセンセイだし恐縮するというか。」
少し俯いて、小さく答える。
「そう呼ばれ続けるのもなかなか恥ずかしいもんなんだけどね。」
もう俺は君の先生じゃないんだから。
笑って言うと、じゃ、遠慮なく、と乃亜も笑った。
「彗でいいよ。」
苗字を呼びそうになるのを先制すると、その形に開いていた口のままぽかんとする。みるみる間に真っ赤になる。
「…スイ。」
「はい。」
にっこり笑って右手を差し出してこれからもよろしく、と言うと
こちらこそ、よろしくお願いします、スイ。と差し出した手を握って乃亜は満面の笑顔を見せた。
氷の溶けてゆく乃亜の手元のアールグレイティー。
それを自分の元に寄せ、一口含む。
はじめて名前を呼んでくれた「今日」。
この先何が起こっても決して手放さない。
口の中に広がる香り、苦味。外の陽光、風、このすべて。
乃亜には、紛れもなく今しか存在しない。乃亜を形作った過去は完全に現在に同化する。現在は過去も未来もすべて呑みこんでしまう。
2.
大学院時代家庭教師をしていた乃亜と再び出会ったのは、壁画の原色だけがやけに鮮やかな、白い、大きな病院だった。風邪をこじらせてなかなか治らないのに辟易して珍しく病院に行った。
そこで、乃亜と、会った。
三年ぶりの再会だった。
あの頃より、ずいぶんと伸びた長い髪と、やけに白い肌以外は何も変わっていない。人の混みあう待合室で声をかけると、その眼が大袈裟なまでに驚いたあと、ゆるゆると、懐かしい笑顔を紡いだ。
「センセイ」
お久しぶりです。
センセイ、どこか、具合悪いの?
やさしく問われる言葉をどこか夢現に聞いていた。
ここで会うまで思い出すこともなかった。なのに、締め付けられるほどに、懐かしく、このまま別れてしまうことがどうしてもできなかった。彼女はこんなにも、甘い声をしていただろうか。
送り届けるという申し出を、乃亜は頑ななまでに断った。
電車とバスを乗り継いで、帰ることを、譲らなかった。
だから、連絡先を聞いた。
どうして、そこまでしてしまうのかわからない。けれど、そうせずにはいられなかった。ここで逃したら二度と会えない気がした。
「れんらくさき…」
乃亜は僕の言葉を繰り返す。そしてかばんを開き、一枚の名刺を差し出した。通常の名刺よりも、詳細すぎるほど詳細に書かれたそれ。血液型だけではなく、裏には家への地図までが克明に書かれていた。
わずかに怪訝に思いつつ、それを丁重に受け取った。
僕のその様を見て乃亜は微笑んだ。蕾が綻ぶようだと、思った。
僕たちが再会したのは奇しくも乃亜が二十一歳の誕生日を迎えた翌日のことだった。
電灯掲示板に受付番号が点滅する。
それを待ちながら僕は乃亜に聞いた。
「大学、どう。楽しい?」
「おかげさまで。」
乃亜ははにかむように笑った。
「センセイにいっぱいいっぱいお世話になって。がんばって入ったところだもん。」
理数系がまったく駄目で、そのくせ理系志望だった乃亜の受験勉強はずいぶん手間取った。それを思い出して思わず笑ってしまう。
今となっては笑えるあの頃のこと。
思い出し笑いを堪えながら訊ねる。
「三年生になったんだよね?そろそろ専門かな。」
その言葉に少しだけ表情が曇った気が、した。
「乃亜ちゃん?」
「あ。ええ。そう、ですね。うん。楽しい、です。」
「よかった。ずっとやりたがっていたことだからね。」
「はい。」
僕の笑顔に応えるように乃亜も笑顔を作る。
あ、と小さく声を上げる。
彼女の持ち札の番号が点滅した。
「あのそれじゃあ、また。」
ぺこり、と頭を下げて乃亜は会計へと歩き出した。
かすかに彼女の残り香が、僕の周りに漂った。
「樹医になりたいんです。」
初めて出会ったとき、真剣な目で、そう言った。
机の上に広げられた答案用紙はお世辞にも褒められたものではなくて、理系だといわれて頭を痛くせずにはいられなかった。
判定は最後までCを越えることはなくて。それでも諦めず泣きそうになりながら数学と格闘していた、まだ制服を着ていた乃亜の姿を思い出す。ふ、と今日の数字が頭に浮かんだ。
昨日は乃亜の誕生日だったはずだ。二十一歳の、誕生日だった。
電話を取ったのは、誕生日を言い訳にしただけだったのかもしれない。会いたい理由を、それにすり替えた。
まさか本当に連絡してくるとは思っていなかったのだろう。
電話の向こうで乃亜が慌てているのが目に見えるようだった。
「乃亜ちゃん、こないだ二十一歳になったでしょう。」
「覚えていてくださったんですか。」
受話器越しでも、あの声は寸分も変わらない。
「あの日、誕生日の翌日だったよね?」
「はい。」
はにかむように笑う声。
「せっかくだから、お祝いしよう。」
半ば強引に取り付けた約束。
そこに現れた、乃亜。
すり替えなど、もはや出来なかった。自分を、誤魔化せない。
会えて嬉しいという純粋な感情で埋め尽くされるのを、感じた。
はじめてのデートで君は「すごくうれしいです」と、言った。
少し明かりの落とされた店内にはごくわずかな音量で音楽が流れる。
乃亜とこういった場所に来ることになるとは思ってもみなかった。
自分で差し向けたことではあるけれど。
「センセイは今、何してるの?」
大きな瞳でこちらをじっと見つめて、乃亜は言った。
「あー。うん。あのまま研究室に残って。」
「大学の先生なんだ。」
驚いたように声を上げる。
「まだまだだけどね。助手をしてる。」
「いいなぁ。」
遠くを見るように、僕の向こう側を見る。
「乃亜ちゃんもこれからやっていけるだろ。」
「…これから」
「そう。これから。樹医になるんだろ?」
あのとき、病院で大学の話を出したときに見せたような、表情が乃亜の顔をちらついた。どうしたの、と聞く代わりに軽くアルコールの入ったスカイブルーのグラスを差し出す。触れてはいけない気がした。
ちょっと遅くなったけど、と前置きをして
「誕生日、おめでとう。」
カチン、とグラスがぶつかる涼しい音。
「ありがとうゴザイマス。」
乃亜は、笑った。
キャットミントの苗を渡すと猫のように彼女は喉を鳴らして喜んだ。
「センセイ。」
別れ際、今日は本当にありがとう。すごく、うれしかった。
真剣すぎるほど真剣な目で、僕を見つめて、頭を下げる。
ここでもまた、送ると言った僕の言葉は聞き入れては貰えなかった。
危ないからせめて駅まで、と妥協案を呑んでもらい、改札の前で乃亜は頭を下げた。再び見上げてきた目は、少し濡れていた。
アルコールのせいだけではないだろう。
「…また、会えるよ。」
僕の言葉に、切なそうに目を伏せた。
答えることなく、じゃあ、と改札を通りそうになる、その腕を、力を入れれば折れてしまうのではないかと思うほどに細い腕を、咄嗟に掴む。
「乃亜!」
掴んだ衝動で軽く体制を崩す。驚いたように立ち止まる。
乃亜の後ろに居た年配のサラリーマンが怪訝な顔でこちらを見た。
「…センセ?」
掴んだ腕に少し力をこめる、その力が強すぎたのか、乃亜が少し顔を顰めた。電車の発着を告げるアナウンスが響く。
「またね。」乃亜。
次回を思わせる言葉を、真っ向からぶつけた。
これに反対語はない。断る言葉は、ない。だから言った。
乃亜は少し困ったように笑って「はい。」と小さく返事をした。
そして僕たちは再び出会う。
3.
二回目のデートで君は、おもちゃ箱をひっくり返したように、饒舌なまでに思い出を語った。とても嬉しそうに、語った。
乃亜はその目を窓の外にやる。どこか懐かしそうな、羨ましそうな、そんな目をしていた。制服姿の少女たち。胸元に結ばれた赤いリボン。風に揺れる、それ。
「あれ。乃亜の高校の制服じゃないか。」
少し遠いそれを見るために目を細めると乃亜はくすくすと笑った。
「なに?」
「ううん。センセイ、全然変わってないね。
煙草の匂いも、遠くを見るとき少しだけ、目を細める仕草も。」
そして戯れに僕の眼鏡に手を伸ばす。
ノンフレームのそれを指でなぞりながら、眼鏡越しに僕を見る。
ぐらぐらする、そう言って乃亜は笑った。
「相変わらず目、いいの?」
「うん。両目とも1.5」
いまのところは、そう付け足された言葉を、僕はさらっと流してしまった。
「それはそれは。」
センセイはこんなのかけて世界を見てるんだね。
なんだか、海の底から空を見てるみたい。
ガラス邪魔じゃない?
あの頃と同じ質問に思わず笑ってしまう。
「これがないとむしろ見えないからね。」
うーん、と考える仕草もそのまま。
君は僕が変わっていないというけれど、君の方こそ、何も変わっていないんだ。
「早いね。もう三年経つんだ。」
視界からようやく消えた制服。
「そうだよー」
そう言って乃亜は笑う。
「センセイも歳をとるわけだ。」
「こら。お前さっき全然変わってないっつったろ。」
軽く頭を小突くと乃亜はさらにくすくすと笑った。
「むかし、センセイによくこうされたよね。」
「そうだっけ?」
乃亜を見る。乃亜は驚くほどにやわらかで、それでいて大人の目をしていた。まなざしが発する、光。
遅い。
帰宅の遅くなった乃亜の帰りを部屋で待つ。
うわ。センセイ。ごめんなさい。待っててくれたんだ。
乃亜は慌ててかばんを置いた。顔にかかる髪を耳にかける。学校から帰って間もない乃亜は稀に授業のときに着替える時間がなかったといってそのままでいる制服姿の時と違い、リアルすぎるほどにリアルだった。自分が、もう通り過ぎた時期を確かに生きている乃亜。
今日学園祭の準備で委員会があって。
ああ。学園祭。
懐かしいな、と小さく呟くと聞き捨てならない乃亜の声。
何?昔過ぎて忘れちゃった?歳だなぁ。
無言で頭を小さく小突く。
痛いよ。
痛くねぇだろ。
痛いんです。センセイの石頭とは違うんだから。
誰が石頭?
わたしのほかにここに誰がいる?
乃亜の目は悪戯っぽい光を湛えてこちらを見る。ふう、と溜息。
ったく。消去法かよ。
そんな難しい単語使わないでよ。
どこが難しいんだ。どこが。そうだ。乃亜、あれ、解けたか?
……う。
出来てねぇんだろ。
……うう。
分かり易すぎるほどわかりやすい乃亜の表情に思わず笑ってしまう。
なんで笑うの~
いや。お前の場合消去法なんて面倒なことしなくてもすぐに答えでるな、と思って。
単純ってこと?
いや。あえてそうは言わないでおいた。
言ってるも同然じゃない。
軽く頬を膨らませる。こちらが笑うと乃亜もつられて破顔した。
じゃ、そろそろやろうか。
ジャケットを脱いで椅子の背にかける。かすかに香水の香りが漂った。
乃亜が不意に動きを止めて、どこか切なげな目をする。
どうした?
ううん。どうもしない。
乃亜はにこり、と笑って教科書を開いた。
「世莉さんは、元気?」
乃亜は不意に学生時代からつきあっている世莉の名を口にした。
わずかに動揺してしまったのは、気のせいじゃない。
何気ない風を装って僕は煙草に手を伸ばす。
「センセイ、ここ、禁煙席。」
乃亜の言葉に手が行き場をなくして空を切った。
「世莉さんにも、会いたいな。」
乃亜は無邪気に笑う。
窓の外。車道を救急車がよぎった。
近づいては遠ざかってゆくサイレン。
それは時の通過と経過を知らせる音。
「…ああ。またそのうち、連れて来るよ。」
「ほんと?」
たのしみだー、といいながら乃亜は錠剤を手に取った。
あの日、再会してから軽く一ヶ月は経っている。
「まだ具合悪いの?」
僕の言葉に乃亜は曖昧に笑う。
「うん、少しね。」
ひっくり返されたおもちゃ箱は、乱雑なまま僕の心に残る。
三角の積み木を踏んでしまったような鈍い痛み。
あの頃、僕の都合がつかないとき、世莉には代わりに授業に行ってもらっていた。自然、世莉と乃亜は親しくなる。
何一つ、忘れていない乃亜の中では、世莉もまた同じように、棲んでいた。
4.
三回目のデートの終わり。
乃亜の顔色はまるで紙のように白かった。全力疾走をした後のように息が乱れている。
「…へいき」
小さく、途切れ途切れに呟く言葉が弱々しく周りのざわめきに呑みこまれた。
「センセイ…それより、も、さっきの話の続きが、聞きたい」
そう言って、テーブルの上の僕の手を弱々しく握った。
驚くほどに冷えている。
「帰ろう。」
送るから。
「やだ。」
小さい子供のように駄々をこねる。その瞳が、必死だった。
白い顔に異様なまでに光を放つ瞳。
「ね?だ…じょうぶ、だから、聞きたい。」
大丈夫なはずがない。どうしてこうまですがるように話を求めるのか。それも、僕の昔の話、世莉の昔の、話を。乃亜は過去を求める。
抱え上げるようにして席を立つ。
続きは車の中でしてあげるよ、無理やり乃亜を僕の車に乗せた。
車中で乃亜は、話を聞くどころではなく蒼白なまま目を閉じていた。長い髪の一筋が顔にかかっている。指を伸ばし、それを除ける。
かすれながらの甘い吐息が、手にかかった。
SAKURAGIと書かれたネームプレート。
こじんまりとした庭に咲く色とりどりの花。
相変わらず手入れがよく行き届いている。
オレンジと紫色が混ざり合った空に薄い雲が浮かぶ。
桜草が地面いっぱいに広がっていた。本当に久々に訪れた乃亜の自宅。チャイムを押すと見慣れた顔が見えた。
「乃亜!」
母親は咄嗟に娘の名を叫ぶ。
腕の中で依然として、ぐったりとしている乃亜はその声に弱々しく笑った。
「ごめん。」やっちゃった、と小さく舌を出す。
娘の声を聞き少し安心したのか、僕の顔を見上げ
「若槻先生…」
「ご無沙汰しています。」
「本当に、ご迷惑をおかけしてしまって。」
「いえ。話しているうちに、少し具合が悪くなってしまったようで。」
すみません、と頭を下げる。
ゆるゆると首を振った。
「この子が無茶言ったんでしょう。いつものことですから、ご心配おかけしました」
寂しそうな笑顔で、謝罪の言葉を口にする。
部屋まで連れて行こうとしたとき、急に乃亜は僕の腕の中で暴れた。
「ごめんなさい。センセイ。でも、大丈夫。ひとりで行ける。」
瞳に宿った強い光は昼間のそれと同じだった。
「わかった。」
その言葉に抗うことなく、軽い身体をそっと、下ろすと、乃亜は母親に寄りかかるようにして、蒼白い顔で微笑んだ。
「センセイ。今日はどうもありがとう。
ごめんなさい。迷惑かけて。」
頭を下げると、さらさらと髪が流れた。
それに手が伸びそうになるのをぎゅっと握り締めて乃亜の家を後にした。
これが、乃亜が僕の前ではじめて見せた、兆候、だった。
乃亜が、何を抱えているのか、その時の僕には知る由も、なかった。
空に浮かぶ細い月の色を見ていると、乃亜の顔色を思い起こさせる。
面影を振り払うようにして、部屋に戻った。
5.
枕元の携帯が鳴り響いたのは、それから数日経ってからのことだった。隣りに居た世莉が僕を起こす。
「彗、携帯、鳴ってるよ。」
暗闇に目が慣れないまま、点滅するディスプレイを見る。
乃亜の自宅の電話番号が表示されていた。時刻は一時。
妙な胸騒ぎがして電話に出ると、それは乃亜の母親だった。
「夜分に、申し訳ありません。」
焦ったような声の中でも恐縮しているのがわかる。
「いえ。どうかしましたか?」
「乃亜が、そちらにお邪魔していませんか?」
意外な言葉に、完全に目が覚める。
「いえ。来ていませんが。どうかなさったんですか。」
「夕方少し出てくるって言って、そのまま戻らなくて。」
夕方。ありえないほど時間が経っている。
「どこに行ったのか言って、」
会話が重なる。
「ええ、近くだったので。すみません、深夜にお騒がせしました」
それだけ言うと電話は切れた。無機質な機械音だけが繋がっている。
乃亜が、帰っていない。
携帯を持ったまま、微動だにしない僕を不審に思ったのか
「何かあったの?」と世莉の声。
それに答えず、ちょっと出てくる、と車のキーを持って部屋を飛び出した。
乃亜のよく行く場所など、知っているはずもない。
そういえば、そういう話をしたことは、なかった。
乃亜はいつも僕の話を聞きたがった。
きっともう知っているであろうことを、何度も聞きたがった。
乃亜の家は閑静な住宅街にある。そこを抜けるとすぐに公道に出るわけではない。多少入り組んだ地形が続く。家庭教師をして間もない頃、よく迷ったことを思い出す。
近くに出かけるといった、近く……。
シロツメクサが一面に咲く公園がある。乃亜は昔その場所をとても好んでいた。知っているのはそれだけだ。
何処までも広がる花の白とクローバーのグリーンのコントラストの中にひとり佇む乃亜の姿が頭をよぎった。
「乃亜!」
居るかどうかもわからない人の名を、叫びながら園内を彷徨う。
「乃亜!」
真っ白い花が、脳裏で舞い上がる。
「乃亜!」
四つ葉のクローバーに僕は祈った。
ジ、ジジ、ジ・・・・・パシッ
一連の音の繰り返し。街灯の白い光が不自然なほど明るい。不愉快な、白さだ。
大きな蟲、小さな蟲が狂ったようにその光にぶつかってゆく。命尽きるまで狂ったように光に向かっていった蟲たちの屍骸が明かりの下の硬い地面に転がっている。羽を広げたまま力尽きた蟲の姿を目の端に映しながら、夏の夜のまとわりつくような空気を肌にまとって僕は乃亜を探した。
少し先にぼんやりと人らしき影が浮かぶ。
「乃亜!」
声をかけると、ゆっくりと振り向く。見たことのない瞳をしていた。
がらん、とした瞳。何を映して、何を見ているのか。
駆け寄ると両肩を掴む。ようやく何かを把握したようだ、瞳に色が差した。
「……センセイ?」
「大丈夫か?」
「……かんない……」
か細い声で答える。
「わかんない。わかんなくって……」
ぐるぐる、する。
茫然とした瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ、糸の切れた人形のように、乃亜は僕の腕の中で意識を手放した。
四回目のデートで君は、もう会えない、と言った。




