8.番外編:二条清久の事情 2
秋が深まり、そろそろ冬支度を始める頃。
僕は三年の前会計役員から仕事を引継ぎ、ようやく日常に落ち着きを取り戻していた。
まぁ、程なく文化祭が来るわけだが……。
憂鬱だ。絶対忙殺されるんだろう。文化祭は前生徒会役員にとって最後の仕事であり、役職を継いだばかりの役員にも雑用が回ってくる大変なイベントなのだ。しかも期末テストが近いので役員のみならず生徒全員が忙しい時期である。
休める時に休んでおくのがいい。またつまらない用事で宮歌や橘に捕まるのが嫌だった僕はとっとと荷物を片付けて鞄を肩にかけ、ホームルームが終わった途端に教室を出る。
廊下を歩きながら窓を見ると、雨が降っていた。今日は朝から曇り空だったが、とうとう降り出してきたのだ。
昔は雨が大嫌いだったけど、最近はそうでもない。むしろわくわくと心が浮き立っている。
またあの小さな奇跡を、見る事ができるのだろうか。
靴を履き替えて玄関口に出ると、一面が雨模様だった。
――僕は、自分で言うのも何だけど、いわゆる「雨男」である。物心ついた頃から天気の運に恵まれず、大抵の遠足旅行、イベント事は雨に見舞われてきた。
絶対晴天、降水確率0%と天気予報士が言っていても、なぜか楽しみにしてる日に限って雨が降る。
てるてるぼうずも全く効果は出ず、家族旅行などの思い出は全て雨。そして逆に雨が降って欲しい日は必ず晴れだった。運動が大の苦手な僕にとって学校における最悪イベント、運動会とか。
そんなわけで僕は雨が大嫌いで、天気予報はあまりアテにしていない。だからいつも折り畳み傘を持ち歩いていた。今だって肩掛け鞄の奥底には黒い折り畳み傘が入っている。
だけど、それを出すことはしない。
……彼女を、待っているから。
僕が玄関口についてからしばらくして、ぱたぱたと急ぐ足音が聞こえて来た。やがて慌ただしく靴を履き替え、彼女が現れる。
「あっ……」
空を見上げ、可愛らしい声を上げた。
つられて僕も空を見ると、昼頃から降り続けていた雨が上がっている。朝から緞帳のように降りていた薄黒い雲に切れ目が入り、秋の太陽が顔をのぞかせた。
僕が待っていたのは雛田さん。彼女は何故かにわか雨に限ってホームルーム直後にここへ来る。そして不思議な事に、彼女が玄関口に出た瞬間、雨が止むのだ。
まるで魔法みたい。晴れ女というのもうなずける。この瞬間が見たくて、僕はにわか雨が好きになった。この奇跡みたいな一瞬は何度続くんだろうという興味もある。百発百中ならまさに魔法の域だろう。
「また雨が止んだね。晴れ女さん」
「そっ、そう、ですね……」
どこか残念そうな雰囲気がするのはなぜだろう? 傘をささずに済むならその方が良いと思うけど。
ちらりと雛田さんを見下ろすと、彼女は俯き、傘を握りしめていた。女の子が持つには似合わない、紳士用の傘。お父さんの傘でも借りているのだろうか。
雛田さんは僕の前だと、いつも大人しそうに俯いている。髪は部活中しかまとめないらしく、今は肩までかかる髪がおろされていた。もっと顔が見たいのに、残念ながらサイドの髪がすだれのようになっていて、見る事はできない。
どうして僕には、あの溌剌な顔を見せてくれないのだろう。
道場で見かける、まっすぐで意志の強い瞳が好きだ。きびきびと動く姿が好きだ。校内で時々見かける時はとても明るく笑っていて、俯く事なんて一度もないのに。
もしかして僕、嫌われてる……? それはかなりショックだ。これ以上嫌われまいと懸命に笑顔を振りまき、ぎくしゃくと雨上がりの校庭を歩いて去る。
空はすっかり晴れ模様で、ようやく出番を取り戻した太陽がはりきって街を照らし、秋の空を鮮やかにする。
雨に濡れた道は爽やかにきらめいて、歩く足取りは軽い。しかし、出来る事ならもう少し雛田さんとお近づきになりたいなぁと思った。でも、なかなか僕は恋路の歩を進められないでいる。
最初の勇気は、六月の梅雨時期だった。
僕は追われていた。僕にとっての疫病神、宮歌から逃げていたのだ。ヤツとは二年続けて同じクラスで、一年の頃になぜか気に入られて以来、僕は迷惑ばかりを被っていた。風貌の目立つあいつはしょっちゅうイベント事や騒ぎの渦中にいて、事あるごとに僕は巻き込まれる。本来、のんびりゆっくり平穏を楽しんでいたい僕にとって、宮歌の存在はまさに歩く厄災だった。
そんな宮歌が玄関口で待ち構えていて、帰る事のできない僕は仕方なく図書室に避難したのだ。するとそこには思ってもみない先客がいた。雛田陽子さんが自習室に座り、机に向かっていたのだ。僕はその時、心の底から宮歌に感謝した。ありがとう宮歌。お前が玄関口で張っていなければ、ここで彼女に出会うことはなかった。全僕がスタンディングオベーションしてやる。
そのころの僕は道場以外で彼女を見かけることがなく、図書室の出会いで初めて、制服姿の彼女を見た。
自習室で熱心に勉強している雛田さんの後ろ姿は、思っていたよりも華奢に見えた。部活ではあんなにも機敏できりりとしているのに、肩は細く、全体的にすらっとしている。運動部に所属している故かスタイルは均整がとれていて、文化部の女の子のような弱弱しい感じはしないものの、引き締まった体つきが何とも言えない。スカートから伸びる足も必要なところに必要な筋肉がついている感じで、形のよいふくらはぎは白く、きっちりと履いた紺色のハイソックスに健康的な色気を感じた。
……うん。彼女が後ろを向いている事をいい事に、舐め回すようにガン見するのは、やめよう。
雛田さんが熱心に勉強しているのが気になって、上からひょいと覗いてみる。
ノートの内容から中間テスト対策をしているのだと判った。しかし大分と苦戦しているようで、基本はできるようだが、応用になると途端にシャーペンの動きが止まる。コツコツと指で机を叩いて、手元に置いていた参考書をぺらりと開いた。だが、解説を読んでもよく理解ができないらしく「うー」とか「むー」とか唸りながら頭を抱え、困ったように教科書をめくる。
内容は数学だったが、どうも数式を理解しきれていないようだった。
一年の数学なんてまだまだ中学の数学に毛が生えたようなものなのに、それでも苦労しているということは、彼女は日々の授業についていけていないのかもしれない。
何だか可愛いなぁ、と微笑ましくなった。合気道はあんなに強いのに、勉強は苦手なんだ。勉強が得意で運動が苦手な僕とは正反対だ。
声をかけようか、と思った。
勉強教えようか? と。
しかしそれって、どんなナンパだよと思い直す。知り合いやクラスメートならいざ知らず、初対面の男から唐突にそんな事を言われては警戒するだろう。しかしこのまま放っておくのも気が引ける。それに、折角人気の少ない図書室なのだ。いわばこれはチャンス。不審を抱かせない程度に、しかし僕という存在を雛田さんに知らせるまたとない好機。
散々悩んだ挙句、僕は自分が昔よく使っていた問題集を勧めることにした。雛田さんが使っていた参考書はある程度公式を理解していないと難しいと思ったのだ。ついでに軽くアドバイスして、努めて自然体を装いながら自習室の席につく。
いきなり知らない上級生から声をかけられて驚いたのか、雛田さんはチラチラと僕の方を見ていたけれど、やがて勉強の続きを始めた。横目で彼女の様子を伺うと、僕が勧めた問題集を開いていた。
素直で、他人の言葉を疑わない子なんだろう。ずっと道場の窓から彼女を覗き見る日々だったけど、やっとコンタクトらしい事ができて良かったとニマニマしてしまう。このままだとただの覗き屋、下手するとストーカーになる所だった。
これを機にすぐ仲良くなれるとは思わないけど、彼女の中で僕という存在が記憶に残ったら嬉しい。そうすればきっと、次に繋げられるだろうから。
でも、その『次』は、思っていたよりも早く来た。
サァー…と静かな音を立て、目の前の光景は雨一色。
いつの間に雨が降り出したんだ……僕の雨男ぶりに悲しくなる。まさか図書室で時間をつぶしていた小一時間のうちに雨が降るとは。
げんなりするけど、こういう時の為の折り畳み傘だ。僕の場合、いつもタイミング悪く雨が降るので、常にカバンの底に入れている。
折り畳み傘は携帯に便利だけど片付けるのが面倒だ。ハァと溜息をつきながら鞄を開けようとした時、蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。
「あの……」
振り返ると、後ろにいたのは雛田陽子。
まさか声をかけられるなんて。嬉しい。思い切って声をかけてよかった。
彼女はスポーツ用品で有名なメーカーのスポーツバッグを肩にかけていた。その肩紐をぎゅっと結び、頬を赤くして僕を見上げている。
……こうやって見下ろしてみると、彼女は僕の頭一つ分、背が低いようだった。線が細く見えていたのはそれも理由にあったのか。寺町よりは背が高いみたいだけど、こんな可愛らしい姿をしていて平気で人を投げ飛ばすことができるのだから人間ってわからない。
もしかして、彼女もまた突然の雨で途方に暮れているのだろうか。そうだったら、僕の折り畳み傘で途中まで送っていってもいいんだけど。……って、それってもしかして相合傘ってやつ? そんなのしてもいいの? まだ初対面に近いのに、そこまで進展していいものなの?
頭の中がザワザワして体中が熱くなる。どうしようと思っていると、雛田さんは僕に何か言うつもりなのか隣に立った。
――その途端、にわか雨がサァッと上がる。
え? とびっくりして、空を見上げた。止む気配がなさそうだった雨はゆっくりとその雨脚を減らして行き、やがて雲が晴れて太陽が顔を出す。
こんな出来事など生まれて初めてだったので思わず彼女に声をかけた。すると雛田さんは自分が晴れ女なのだと話してきた。
何というか、名は人を表すというけれど、本当にそうなのかもしれないと面白くなる。
彼女は暖かい日向に恵まれた女の子なのかもしれない。
思えばその日から、にわか雨の度に放課後、彼女と顔を合わせるようになった。
そのうち雨が降るのを心待ちにするようになって。一言二言声をかけるのが嬉しくて堪らなくて。
いつかその晴れ女のジンクスが外れる日が来るのだろうかと、半ば楽しみにしている自分がいた。