5.また、明日
駅に辿り付いた頃にはすっかり濡れ鼠状態で、改札口を通り過ぎた頃、改めてお互いの姿を見た私達は同時に吹き出してしまった。
「ひどい雨だったね」
「本当ですね。髪の毛から雨粒が滴り落ちてますよ」
あはは、と二人で笑ってから時計を見ると、普通電車の時間には間に合いそうだった。私は頭にかけていた二条先輩のジャージを軽く畳み「あの……」と声をかける。
「これ、ありがとうございました」
「うん。ちょっとでも傘代わりになったのなら良かった……あっ」
パッと突然、ばつが悪くなったように二条先輩が顔をそらす。首を傾げると、私から視線を外したままの先輩が口に手を当てつつ、頬を赤くした。
「その。随分濡れてしまったけれど……そのジャージ、着たほうがいいと思う」
「え?」
畳んだジャージを見下ろす。その時、雨に濡れた自分の制服が薄く透けている事に気が付いた。慌ててジャージを抱きしめ、自分の身体を隠す。
「あ、あの、スミマセン。お言葉に甘えて借ります……」
蚊の鳴くような声でぼそぼそ呟くと、横を向いたままの二条先輩が頷く。私は水を吸ったぶかぶかのジャージに袖を通して、ファスナーを締めた。
雨自体はとんだトラブルだったけど、先輩に手を引いてもらって、先輩のジャージを貸してもらえるなんて……。今日は一体、どんな奇跡が起きたのだろう。
スポーツバッグを肩にかけて駅の構内を見上げる。電車は程なく来るようだった。到着時間に間に合ったのは良かったけど、もう先輩と別れなければならないなんて悲しい。同じ電車だったら嬉しいけど、そこまで現実は甘くないだろう。
……寂しい。相合傘とはちょっと違うけど、折角一緒に駅まで行けたのに。でも、だからといって電車を見送るのもおかしい話だ。それならもう一言か二言何かを言って、次に繋げる努力をするべきだろうか。
「あのっ」
声が、ハモった。
私と二条先輩の声が合わさって、ハッとしてお互いに俯く。
「せ、先輩、お先にどうぞ」
「あ、うん」
所在なくスカートの端を掴んで雨水を絞る。二条先輩もポケットからハンカチを取り出すと、雨粒だらけになった眼鏡を外して軽くふき取った。
「その……、昨日はごめんね」
綺麗になった眼鏡をかけ直して、私と向かい合う。自然と私も顔を上げ、謝罪の言葉を口にする二条先輩を見た。
「酷い事を言ってしまって。本当に君がそうだとは思っていなかった。でも、もしかしたらって疑念もぬぐいきれなくて、つい……。僕も、今までいろいろあったから」
「あ……いえ。気に、してません。大丈夫です」
嘘だ。本当はめちゃくちゃ気にした。二条先輩の言葉に傷ついたし、違うと否定したのにどうして信じてくれないんだろうと悲しくなったし、恋に恋していた自分の気持ちに自己嫌悪を覚えたりした。
でも、それより何より、二条先輩にジャージを貸してもらって、手を握り合って雨道を走った事の方が嬉しくて、謝ってくれた事に喜びを感じる。だから、悲しい気持ちなんて一瞬で吹き飛んでしまった。
それに二条先輩は本当に辛い目に遭ったのだろう。目的が別にあって手段として声をかけてきたような、そんな人が恐らく実際にいたのだ。
だから……。
「本当に気にしてません。わ、私の誤解が解けたなら、それでいいです」
「そっか、良かった。昨日は自分からあんな事を言っておいて、後ですごく後悔したんだ。自分の臆病さから君を傷つけてしまって、完全に嫌われたらどうしようって、そんな事ばかり考えていた」
「そんな。私も、落ち込んでましたから。あ、二条先輩がどうこうって言うんじゃなくて、自分の事で。もっと積極的に先輩に話しかけていたら良かったのかなぁと考えたりして……」
「君は悪くないよ。ほんとに、僕がすっかり怖がりになってしまっていただけなんだ。昨日はそれで、全然勉強できなくて。テスト期間だっていうのにね」
「私も! わ、私も、ぜんぜん……勉強できてませんでした」
まぁ、普段もあまり勉強しないというか、集中力が長くもたないのだけど。私がぼそぼそと俯きながら言うと、くすくすと二条先輩が笑う。
「今は大事な期間だから、雨で風邪をひかないようにね。続きはまた明日、帰り道で話そう。……いつもの玄関口で待ってるね。――雛田陽子さん」
え?
思っていたよりも間抜けな声が出て、顔を上げる。二条先輩は丁度きびすを返していて、私が乗る電車とは逆方向のホームに向かって歩いていく所だった。
どうして二条先輩が私の名前を知っているのだろう。自己紹介なんて勿論したことがない。
不思議に思いながら電車に乗る。つり革に手をかけて、ふと車窓に映る自分を見た。
紺色のジャージは学校指定のものだ。ぶかぶかで、胸元の部分には二条と刺繍がされていた。
くん、と匂いを嗅いでみる。馴染みのない、自分のものではない他人の香り。それが二条先輩の匂いなんだと判って、嬉しさと同時に恥ずかしくて堪らなくなった。好きな人の匂いを嗅ぐなんて、なんだか変態さんみたいだから、やめておこう。
そんな事を考えていたのに、家に帰って洗濯機に入れる前、名残惜しさから思いきりぎゅーっとジャージを抱きしめてしまった。……私は二条先輩が好きになりすぎて、ちょっと頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
その次の日は、朝からしとしとと静かに雨が降っていた。傘をさして登校し、朝練の為に道場に入る。するとニヤニヤした笑顔を浮かべる棚部が待ち構えていた。
「きのうはおたのしみでしたねぇ」
「テスト一週間前は自由参加のはずなのに、どうして面倒臭がりの棚部さんが道場に来ているんですかね」
はぁ、とため息をつく。自由参加の朝練に来る部員は少ない。私だって参加しない日の方が多い。今日は偶々床の雑巾がけでもしようかと思ったのだ。故にいつもの胴着姿ではなく、ジャージを着ている。そして棚部はそもそも朝練をするつもりがないのか、制服のままだった。
「なんとなく雛田ちゃんは今日、朝練に来るんじゃないかなーと思ったのだよ。何かあるっていうと大体ここで雑巾がけしてるし」
「うう……行動が筒抜けなのか。とりあえず、そこに突っ立ってるつもりなら手伝いなさい」
水で絞った雑巾をポイと棚田に投げつける。ぱし、と受け取った彼女は素直に端から雑巾がけを始めた。
「昨日、ちょっとした騒ぎになってたんだよ? 知ってるかい」
「知りません」
「あの堅物ド真面目、生徒会の財布の紐、堅牢堅固の人間電卓、無表情会計の二条清久先輩が下級生の女の子にジャージの上着貸して雨の中おてて繋いで走っていったという事実に、皆騒然となっておったのですよ」
棚部は言いたい放題だ。確かに二条先輩は秀才な上、生徒会役員だからそこそこ校内で顔が知られてる有名人ではあるけれど、騒然となる程なのだろうか。
棚部とは逆の端から雑巾がけをしつつ、言い返す。
「無表情会計は言い過ぎだよ。二条先輩は確かに大声で笑うタイプじゃないけど、いつも優しい笑顔を浮かべているよ?」
「いやそれはですね……そんなレア表情を見る事ができていたアナタがですね、特別……いや、なんでもない。それより。相合傘計画とやらはうまくいったんですかい?」
棚部は私が二条先輩を好きだということを知る唯一の友達だ。私はバケツの中で雑巾を洗いつつ暫く考え、やがて一つ頷く。
「相合傘はできなかったけど、目的は達成したかもね」
「そりゃよかった。じゃあ、次の段階にも行けそうですかね?」
フフン、と勝気な目をして私に笑いかけて来る。からかってる口調だけれど、不思議と私を心配する気配が感じられた。
……もしかしたら棚部は見抜いていたのかもしれない。私が、初恋の感情を持て余していた事を。
だから私は、彼女を安心させるようにカラッと笑った。
「うん。次は告白を目指すよ」
「全く。最初からそうすればよかったのだよ。私からしてみれば君も二条先輩も奥手すぎ。一年間もお互いモジモジしてただけなんて。私なら絶対耐えられないね」
「なんの話? 私は確かに奥手かもしれないけど二条先輩は関係ないでしょう?」
「……そのニブさは罪だよね。まぁ、雛田ちゃんらしいっちゃ、らしいけど」
何せ君は脳筋で体育会系だから、といつもの悪口を言われ、私はジト目をして「脳筋は言い過ぎです」と言い返した。