4.雨の中の奇跡
結局その日は自己嫌悪に陥ったまま、朝を迎えた。
何だか、人生で初めてここまで落ち込んだ気がする。そして一晩寝ても、そのどんよりした気持ちは全く晴れることはなかった。
カーテンを開けて窓を開ければ、からっとした青空には雲ひとつない。ここ数日は曇りと雨が続いていたから、今日は久々の晴天日和になりそうだ。
朝食のトーストを食べながら天気予報を見ても、天気図に梅雨前線は一本もない。お天気お姉さんがにっこり笑顔で「今日は、溜まったお洗濯を一気に片付ける事ができそうですね」とコメントしていた。
「そうだ、陽子。あなたいつもお父さんの傘持って行ってるでしょう。お父さん困ってるわよ。いつも雨が降るとき、あんたの赤い傘使ってるんだから」
「あ、ごめんね」
「別にいいけど。ちょっとお父さん恥ずかしいみたいだから、自分の傘使いなさいね」
「うん」
確かに中年をすぎたおじさんが可愛い花模様の赤い傘をさしている図は恥ずかしいかもしれない。そんなお父さんは朝恒例のトイレ籠り中で、新聞を読んでいる。
……そういえば、もうすぐじゃがいもの収穫期だ。私も手伝わなきゃいけないから、そろそろ度数の高い日焼け止めを買っておこう。
傘はずっとお父さんのを勝手に借りていた。その傘が家にあるもので一番大きくて、二人くらいなら余裕で雨をしのげそうだったからだ。
だけどもう、その傘は必要ない。持っていくつもりもなかった。
さすがに二条先輩からあんな事を言われて、また傘を持って玄関口に行く度胸は無かった。それに二条先輩は私の事を誤解したままだろう。私はすでにその誤解を解こうという気もなかった。
自分という人間がとことん不器用だと知ってしまったから。こんな状況で今更好きだと告白しても、何か裏があるんだろうと、猜疑の目で見られるのがオチだ。
始まりもしなかった恋は自分だけの中で消化して、ひっそりと諦めるのが正しい。
恋情は私には過ぎたものだったのだ。淡く甘い感情をひたすら持て余しただけだったのだから。
テスト期間の校内はどこか慌ただしく、同時に不思議な特別感を感じる。実際は、テストに出る範囲に赤マルをつけたり、先生の何気ないヒントに耳をそばだてたり、ノートの内容を整理して書き直して、午後イチの授業で眠くなって、半分寝ながらノートを取ったせいで文字がアラビア文字みたいになって解読に苦労したりと、普段の日常とあまり変わらないのだけど。
棚部に「今日は元気ない?」と声をかけられて、笑ってごまかした。はじまってもいない恋の結末を、どう説明すればいいのか判らなかったのだ。もう少し時間をかけたら、うまく笑い話にする事もできるかもしれない。
中間テストをのりきったら程なく期末テストが来る。それが終わったら夏休み。部活もあるし家業の手伝いもあるし、夏の季節はあっという間に過ぎていくだろう。
慌ただしい日々の中で、この自己嫌悪のような辛い気持ちも摩耗して消えていくはずだ。
六限目が終わって、放課後のホームルームに差し掛かる。帰る準備をしながら担任を待っていると、窓から見える空模様が一変していた。
「やば、もしかして今日も降るの?」
私の机に腰かけていた棚部がスマホを弄りながら「やだー」と声を上げる。クラス中がざわざわして、幾人かが窓を開けて空を見上げた。
晴天だったはずの空にはむくむくと黒い雲が立ち込め、太陽をすっぽりと隠してしまう。あんなに明るかった空が一気に暗くなって、校庭に佇む野外照明がぼんやりと光を灯した。
ゴロゴロ……と、にわか雨特有の雷鳴が聞こえる。雨が近いと、誰もが確信した。
「んー、でも、急いで帰れば大丈夫じゃないか? 何しろうちには歩くてるてるぼうずがいらっしゃるわけだし」
「……そんな全幅の信頼を置かれても困るよ。大体晴れ女とか雨女とかは単なる確率の問題って話なんだから、雨が降っても勝手に恨まないでよ?」
おどけた様子で軽口を叩く男子生徒を軽く睨み、クギを刺しておく。全く、にわか雨に降られたくらいで失望されてはたまらない。
しかしそんな私も、心のどこかで「自分は大丈夫」と思っていた。何しろ今までの17年間、一度として雨のトラブルに遭った事がなかったのだ。どんな土砂降りでも私が外に出る頃には何故か雨は上がっていたし、遠足や旅行、数々のイベントは必ず晴れだった。天気予報が雨だと言っても、雨は降らなかった。
根拠のない晴れ女のジンクス。だが、今日はそれが初めて外れた。
ザー……。
バケツをひっくり返したという表現が似つかわしい。それはまごうことなくにわか雨。誰だ、今日は洗濯日和とか言ったの。全国の主婦が怒り狂っているぞ。
学校の玄関口で茫然と立ち尽む私の傍を、騒がしく生徒たちが行き交う。ある者は置き傘を用意して。ある者は置き傘を持つ人に同伴して。学校で貸し出してくれる数少ない傘を取り合いしている人達もいた。あるいはびしょぬれ覚悟で走り去る人、雨がましになるまで校内に待機する人、様々だ。
「どうしよ……」
私といえば、この人生初のトラブルに立ち尽くしていた。毎日毎日、晴れの日でさえ傘を持ってきていたのに、どうして今日に限って持ってきていなかったのか。せめて折り畳み傘をバッグに入れておけばよかったのに、うかつだった。晴れ女なんて結局は偶然の産物なんだから、油断してはいけなかったのだ。
思わずため息をついてしまう。昨日は自己嫌悪の日だったけど、今日は後悔の日になりそうだ。憂鬱なテスト期間も相まってげんなりする。
「見事な程の土砂降りだね」
ふいに傍で、低く通る声が聞こえてきた。なぜかとても親しみを感じる声。その声を聞く度、大切に心の宝箱に仕舞って来たから、顔を確認しなくても判る。
だけど私は驚いて、はじけるように顔を上げた。
隣に立っていたのは――二条先輩。
「に、にじょ、せんぱ」
「初めてジンクスが外れたね。晴れ女さん」
からかうように微笑む二条先輩は、昨日ここで出会った時と全く変わらず、穏やかな雰囲気だ。細い黒フチメガネの奥にある瞳は優しくて、思わず恥ずかしくなって俯いてしまう。
どうして? 昨日、あんな風に私の事を言って来たのに……。ろくに誤解も解かないまま逃げてしまった私を、彼は怒っていないのだろうか。
「は、晴れ女だって、外れる時は……あります」
「そうだね。でも、君の晴れ女ぶりは神懸がかっていたから」
クスクスと笑われ、ますます恥ずかしくなってしまう。ザァザァと降り続ける雨は全く止む気配がなくて、ひたすらに校庭の景色を雨色に染め続ける。
「……もしかして、急いでる? 途方に暮れた顔をして雨を見ていたよ」
「実はその、はい。電車に間に合わないかもしれなくて。私の駅、普通電車しか停まらないんです」
急行や特急電車では停まらない。普通電車は今の時間は本数が少なくて、一本逃したら二十分は待たなくてはいけない。それが何となく面倒くさいけど、雨に濡れて帰るのも嫌だなぁと悩んでいたのだ。
二条先輩は「そっか」と呟くと、私の隣に並んで雨を降らし続ける黒い雲を見上げる。
「こういう時、颯爽と置き傘なんかを差し出せたら恰好良いんだけどね。残念ながら僕も傘を忘れてしまったんだ」
「……そういえば、二条先輩はいつも傘を持っていませんでしたね」
「いいや? 鞄にはいつも折り畳み傘を入れていたよ。でも去年から殆ど出番が無かったからね。つい今日は油断してしまったんだ」
――え?
再び顔を上げる。だって先輩はいつも雨が降った日、この玄関口で佇んでいた。まるで雨宿りをするように立っていて、傘を出す気配はなかった。
二条先輩はにこりと微笑み、私を見下ろす。そして自分のカバンを開けてごそごそしたかと思うと、突然私の頭にばさりと何かをかけた。
「こんなのしかなくて申し訳ないけど、傘代わりにどうぞ」
ふわりと香る、他人の匂い。……これは、もしかして、二条先輩のジャージ?
くっ、と手を握られた。
驚いて目を見開かせるばかりの私の手を引いて、二条先輩が土砂降りの中を走り出す。
「ちょっ、あのっ! せんぱい、悪いですよ!」
「あーほんとごめんね、傘代わりにもならないか」
「違います! そっちの悪いじゃなくて、申し訳ないって意味で。だって、先輩がびしょぬれですっ!」
「ごめん。雨音で声が聞こえないんだ。とにかく走って。運動は得意でしょう?」
手を引きながらこちらを向き、目を細めて笑う。彼のかけている眼鏡には雨粒がついていて、少しずれていた。
ざぁざぁと降り続ける雨は容赦なく、私達の走る道を阻む。ばしゃん、と水たまりに革靴がはまって水しぶきがはね飛んだ。
にわか雨はましになるどころか激しさを増す一方で、ごろごろと遠く雷が鳴る。
久々の嵐――そう思うほど体中はびしょびしょになっていって、シャワーを頭から被ったような状態になっている。……それなのに。
なぜか心は、どきどきと高鳴っていた。
胸がくるしくて、顔が熱くて、雨の冷たさを感じない。
頭から被った二条先輩のジャージからふわりと香るのは、雨の匂いに紛れた、彼自身の匂い。
バシャバシャと濡れたアスファルトを走る、二人分の足音。忙しそうに水たまりを跳ねらせて走る車の音。
どっ、どっ。その何よりもどれよりも自分の心臓の音が大きい。
手を握る手は暖かくて、それは間違いなく、私が一年間憧れてきた先輩の大きな手で。
雨の中をひた走る二条先輩の背中を見て、思った。
――わたし、やっぱりこの人が、好きだ。