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3.恋に、恋するということ

 さぁぁ、さぁぁ。

 雨季の雨は静かで、長く、ゆっくりと地に恵みを与える。

 ホームルームの時間。担任が話す連絡事項を聞き流しながら肘をつき、外を見た。

 グレーの色を持つ雨雲からしとしと雨が降っていて、昼なのに野外照明がついている。雨の日はまるで一日中が夜になったみたいだ。

 今日も大判の傘を持ってきている。普段はお父さんが使っている、二人でも余裕で雨がしのげる紳士傘。

 二条先輩は生徒会の仕事がない限り、学校で居残りをする事なく下校する人だ。その確率は、まぁ五割といった所。

 不思議なのは、一度として先輩は傘を持ってきていないという事。

 朝から雨が降ってる日は別だけど、彼は置き傘をしたり折り畳み傘を用意する、という事をしない人らしい。

 もう一つ疑問に思っているのは、一部女子から人気があるはずの先輩は、いつも一人だという事。

 彼女らしい人を見かけた事は勿論ないし、一緒に下校しませんかと誘うような女の子もいない。生徒会長や副会長なんて、常に複数の女の子が傍でうろちょろしているのに。

 ……まぁ、私からしてみれば目下ライバルがいない状態なので、大変ありがたい話なのだけど。

 学年一の成績を持つ秀才で、真面目で誠実そうで、混じりけのない黒髪とかすごく素敵だと思うのだけど……どうしてかな? って。そんな疑問を感じながら、今日も傘を片手に廊下を走る。

 先輩が玄関口に立っている確率は五分。だけど、今日から中間テスト期間に突入していた。テストを一週間後に控えた今は余程の事がない限り、生徒会の用事は無いはず。先輩が玄関口にいる可能性は十分に高いと言えるだろう。

 貴重な勉強時間を奪おうなんて考えていない。駅まで歩く道を、相合傘で帰ることができたら――。私の望みはそれだけ。

 もはや意地みたいなものになっていた。他にいくらでも先輩に声をかける方法はあるはずなのに、雨の日に拘っている。自分でも理由がよくわからない。だからこれは、私の勝手な意地なのだ。

 言い方を変えれば、願掛けに近いかもしれない。晴れにさえならなければ。私の晴れ女ジンクスが外れたら。

 ――何か奇跡が、起こるかもしれないと。


 二条先輩は、今日もそこに立っていた。

 さぁぁ、さぁぁと降りしきる雨は止む気配がない。ねずみ色の雲は分厚く、雨雲に溜めた水を振るい落とすかのようにしとしとと雨粒をこぼしている。

 ぎゅ、と傘を握った。あの人に恋をしてから丁度一年。幾度となくこの光景を見てきた。

 雨の日の玄関口。まるで誰かを待つように立ち、雨空を見つめる二条先輩。

 ……もしかして、あの人が待っているのは私?

 そんな、根拠のない希望が心の中に湧き上がる。もしかしたらという甘い期待と、そんなはずはないという後ろ向きな気持ちが同時にひしめく。

 一歩、前に出る。雨は止まない。もう一歩、止まない。

 今日は、今日こそは、憧れの相合傘に誘えるのか。とうとうジンクスが外れるのか。どきどきする胸を手で抑えて、勇気を出して声を出す。


「あの……」

「君、いつもここに来るよね。僕が雨が止むのを待っている時」


 ぴたり、と足が止まった。「え?」と見上げれば、二条先輩は私を見下ろしている。

 かぁっと顔が熱くなって俯いてしまった。雨の放課後にここへ来るようになってから、時々二条先輩に声をかけられていたけれど、やっぱり嬉しくて恥ずかしい。彼にとって世間話みたいなものでも、私にはその一言一言が宝物みたいだから。


「もしかして、期待してる?」


 その言葉に、俯きながら目を見開いた。期待してる? 確かに期待してる。これをきっかけに距離が縮まること。少しでも仲良くなれる事。


「悪いけど。僕を足掛かりにしようと思っているなら無駄な努力だよ。勝率は低くても正攻法で行く事をお勧めする」


 ……え?

 何か、予想もつかなかった事を言われた気がする。恐る恐ると顔を上げると、そこには穏やかな笑顔を浮かべたままの二条先輩がいた。


「会長か副会長か、どちらかを狙ってるんでしょ? 二人の周りには常に取り巻きを気取った三年がウロウロしてるし、確かに下級生は近づくのは難しいよね。でも、僕から君を紹介してもらおうと思っているのならお門違いだよ。それよりは手紙の一枚でも書いて下駄箱にでも入れておくほうが余程有効だと思う」


 何を……言っているんだろう。会長、副会長? 違う。そうじゃなくて、私は。……否定しないと。よくわからないけど、二条先輩は勘違いをしている。私はふるふると首を振り、やがてぶんぶんと勢いよく振った。


「違いますっ! 私、生徒会長とか副会長とか全く興味ないです。狙ってなんかいないです」

「そう。じゃあ、ここでの出会いは偶々なの? 秋の長雨の時も、冬の寒い雨の日も、何故か君はにわか雨の日に限ってここに来ていたね」

「そっ、それは……」


 傘をぐっと掴む。今だ、今しかない。むしろ今言うべきだ。

 あなたに傘を貸してあげたかったんです。

 いっしょに、駅まで歩きたかったんです。

 それだけが、私の望みだったんです。ずっと、ずっと。


「……君みたいな子、初めてじゃないよ。そういう、僕に気がある風を装って近づいて来た子は沢山いた。嫌になるほどね? 結局君も、目的は生徒会役員に自分を紹介させる事なんでしょう? もしくは生徒会室に招待してもらう事かな? 何故か生徒会室に入りたがる子、多いんだよね。特別感でも感じたいのかな?」


 二条先輩は、恐ろしく猜疑心の強い人だった。けれどそれは最初からだったわけではなく、今まで彼に降りかかった災難によってこんな事を言うようになってしまったのだと、何となく判る。

 確かに、今代の生徒会メンバーは粒揃いだ。顔がよくて育ちもよい会長と副会長は勿論の事、書記の女子生徒二人も美人で男子生徒から多大なる人気を集めているし、監査役の先輩も剣道部に所属している大人気の先輩だ。二条先輩も含め、まるでそこだけが少女漫画みたいな世界。

 だから、憧れる人が止まない。

 生徒会室は基本的に役員や委員会の人間しか入ることができないけど、個人的に仲の良い生徒は出入りしていると聞いた事がある。

 特別な人間の集まりに入る事の出来る優越感。

 手段を選ばず、狙う人間の目に留まろうとする努力はある意味間違っていないのかもしれない。だけど確実に二条先輩の心の中には、そんな他人の色恋沙汰によって傷を負っていた。


 でも、違うんだ。私は違う。そんなのが目的じゃない。けど、どんな言葉なら、彼の誤解を解くことができるんだろう。

 ……そこまでを考えて、ようやく気付く。

 私は、二条先輩の事を何も知らない。ロングヘアーで文学タイプで大人しい女の子が好きらしいと、そんな噂を聞きかじった程度。

 私は何一つ、二条先輩の事を知らないのだ。知らないから、どんな言葉が彼の心に届くのか、わからない。


「二条先輩。私は、生徒会にも興味はないんです。私はっ、ただ、二条先輩の……頭に、傘をさしたくて……」


 口にすると、なんて些細な望みだったのだろうと恥ずかしくなる。

 幼稚で曖昧で具体性のない望み。まだ、会長や副会長を目当てに二条先輩へ近づいた女の子の方が行動理由として判りやすい。こんなの、先輩が不審に思うのも仕方がない。私の陳腐な願いは、彼にとって予想し難いものだったのだ。

 そこから急接近したいと思ったわけではない。ずかずかと彼の領域に入り込もうと思ったわけではない。

 ただ……。


「私は、二条先輩と相合傘がしたかったんです!」


 目をぎゅっと瞑って大声を出す。いつもは二条先輩の背中を見送ってばかりだったけれど、初めて自分から校庭に駆けだした。スポーツバッグの肩ひもを握り、大判の傘を掴んだまま暫く走り――。

 ……ようやく、いつの間にか雨が上がっている事に気が付いた。


「――あ」


 六月の蒸し暑さが、雨雲の隙間から現れた太陽によって戻ってくる。アスファルトのあちこちにできた水たまりはたちまち温くなって、足首に湿気のある熱を感じた。

 どこかで雨宿りしていた鳥たちが空を飛び始め、やっと今という時間が昼なのだと思い出したように、駅へ向かう何でもない通学路は美しく色めき出す。

 誰かの家にはたくさんの紫陽花が咲いていて、雨露が宝石みたいに輝いていた。

 こんなにも、こんなにも、雨上がりの景色は綺麗なのに。……私の心は虚しさでいっぱいになっていて、何一つ、感じない。


 ……初恋だった。しかし恥ずかしながら私は、恋路にかけては大分と疎く、鈍い人間だったのだろう。

 一年前、初めて感じた憧れにも似た思いを大切に大切に育ててしまったせいで、こんなにも何でもない結末を呼び込むはめに陥った。


 そう……何も、ない。


 恋をしても、私はそこからどうすればいいのか判らなかった。距離の縮ませ方も、他人の異性に話しかけて仲良くなる術も、自分を知ってもらう努力の方法も、全く分からなかった。

 それを誰かに相談するわけでもなく、ただ自分の淡い気持ちを宝物のように大事にしていて。

 ……それだけできっと、満足していた。だから「相合傘をしてみたい」なんて曖昧な望みだけで一年間、片思いをし続ける事ができたのだ。

 それは結局のところ、恋をしている状況を楽しんでいただけ。うきうきして、どきどきする気持ちを心地よいと思っていただけ。

 二条先輩を足掛かりに生徒会のだれかと仲良くなろうとした――そんな女子生徒は許せないと思う。だけど、私はその女子生徒をなじる権利はない。

 私も彼女たちと同じだった。二条先輩を好きになった自分に酔っていただけだったのだ。

 二条先輩が好きなら、もっと彼を知る努力をすればよかったのに、クラスメートの噂話だけで満足していた。彼が言うように手紙の一枚でも書いて、自分の存在を知ってもらう努力をすればよかったのに、ただ雨の日を待っていた。

 ……これは、失恋、と言うのだろうか。

 いや、特に振られたわけではないから失恋ではないか。それ以前に、二条先輩は私の名前すら知らないのだ。なぜか雨の日に限って放課後にやってくる、晴れ女を自称する下級生。そんな立ち位置に過ぎない。

 つまり、私の恋は始まってすらいなかった。

 片思いらしき思いを一年間持ち続けて、挙句二条先輩に誤解されて、そして自分の臆病すぎる本音を思い知っただけ。

 私の一年間は、からからと意味のない空回りだったのだ。


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