2.図書室の出会い
思えば、初めて二条先輩を意識した日も雨が降っていた。
放課後の図書室。一年の頃、それは丁度中間テスト期間で、私は一人勉強していた。
はっきり言って私は頭の出来がよろしくない。この高校も、合気道部に力を入れているという理由一つで入試に望んだ為、正直勉強の方は授業についていくのが精一杯だった。
そんな私にとって六月の中間テストは入学最初の難関。親を説得し倒して入学した手前、いきなり赤点を取るのは大変に恰好が悪かったのだ。
部活動のないテスト期間の放課後は、皆家で勉強をするのか図書室に人は少ない。閑散とした自習室で分厚い参考書を開き、ウンウンと唸りながら勉強に取り組む。そんな私の机に、ぽさりと薄い問題集が置かれた。
「その参考書、分厚いだけで全然参考にならないから。こっちの問題集を繰り返してやるほうが効率がいいよ」
見上げると、そこには知らない男子生徒が立っていた。
細い黒フチの眼鏡が、やや神経質そうなイメージを持つ。鴉のように混じりけのない黒の髪。初夏であってもきっちり第一釦まで留められたシャツと、赤とグレーのネクタイ。
第一印象は背が高い上に無表情で、少し怖い人、だった。
ネクタイの色から一年先輩という事だけ判る。その人は私から少し離れた自習席に座り、難しそうな辞書と参考書をぱらぱらめくって勉強を始めた。
彼はその後、私に一度として目を向ける事はなかった。きっと偶々、効率の悪い勉強をしている下級生を見かねて、助言をしたくなったのだろう。
私はもっと彼を見ていたいと思ったけど、我慢して目の前の問題集を解き始めた。折角助言をしてくれたのに、ボーッと彼を見ていては失礼になるかな、と怖くなったのだ。
問題集は私でも解るような基本中の基本から始まっており、段々と難易度が増すタイプ。判らないところは次のページに解説が書いてあって、内容はとてもかみ砕いた判りやすいもの。
いつの間にか夢中になって問題集をやってしまい、下校を促すチャイムが鳴ってようやく顔を上げる。
赤いネクタイの上級生はすでに片付けを終えていて、丁度図書室を出る所だった。私は慌てて問題集を貸出申請し、がさがさと荷物をスポーツバッグに詰め込んで追いかけた。
その後はどうしたいのか。そんな事は考えていなかった。ただ衝動的に走り続ける。
果たして上級生は、靴箱のある玄関前で立ち尽くしていた。どうして? 考える間もなく気づく。
さぁぁ、さぁぁと降りしきる雨。先輩は傘を持っていなかった。昼頃になって突然降り始めた雨だから、恐らく傘の用意をしていなかったのだろう。
対して私は、スポーツバッグの奥底に小さな折り畳み傘を入れていた。使う機会は一度としてこないが、一応入れっぱなしにしてあるのだ。
「あの――」
どきん、と高鳴る胸の鼓動を感じながら声をかける。
図書室で問題集を勧めてくれたお礼に――。
さっきは助言をありがとうございました。私、勉強が不得意で――。
顔が熱い。脳みその中は数々のシミュレーションでいっぱいになってる。そういえば、こんな風に異性へ声をかけるなんて生まれて初めてだ。
しかし、私の言葉は次に繋がらなかった。
何故か私が玄関口に出た途端、まるで神様が示し合わせたようにサァッと雨が止んだのだ。
つい先ほどまでしとしと雨を降らせていた厚い雨雲が幾分薄まって、雲の切れ間から現れた爽やかな太陽が校庭を照らしている。
「……すごいね。あんなに降ってた雨が止んだよ」
赤いネクタイの先輩が、感心したような声を上げた。そしてちらりと私を見下ろす。
「もしかして、君の力?」
「あ……」
はじめて目が合った。最初は怖いと思っていたけれど、黒フチメガネの奥にある瞳は意外と優しい。
かーっ、と顔が熱くなっていく。もしこれが漫画なら、私の顔はゆでたこのように赤くなっているだろう。
「わ、私、晴れ女ってよく言われていまして」
かろうじて出た言葉はそんな一言。先輩は「へぇ」と少し興味を持ったように目を丸くして「いいね、お得そうで」と目を細めて笑い、雨上がりの校庭を歩いて去った。
私は何も答えることができずに見送るしかできなかったけど、後でクラスの情報通から話を聞いて彼の名を知った。
……二条先輩。去年はクラス委員長で、今年は生徒会会計。頭脳明晰で校内でもトップクラスの学力を持つ、秀才。目立つ風貌の会長や副会長の影に隠れがちだけど、真面目そうな佇まいに誠実さを感じるのか、一部の女子から人気が高い。……らしい。
噂で、二条先輩はロングヘアーが好みだと聞いたので、私はショートカットの拘りを捨てて髪を伸ばし始めた。
思えばそんな事をし始めた頃から、私はすでに落ちていたのだ。恋という名の底なし沼に。
「なーにが、恋という名の底なし沼に、だ。ポエマー雛田め。全くキャラ違いすぎて笑う気にもならんよ」
「うるさいなぁ。……初恋なんだから大目に見てよ」
教室の片隅でカツカツと弁当つつく棚部にボソボソと不機嫌な声で返す。ぱく、と食べたおにぎりは今日で三つめ。うち、一つは朝練の後に部室で食べた。カロリーが気になるお年頃ではあるのだが、朝練の後に一個でも食べておかねば、四限目あたりで教室内に羞恥極まりない腹の虫を鳴らすことになる。
「大体さ、雛田はひじょーにらしくないぞ。部活のない日だけ、しかも雨が降ってる時しか先輩に声をかけないなんて。好きならもっとガンガン攻めたらいいじゃんか。所詮は超体育会系、脳筋思考なんだし」
「脳筋って言うな! ……。……私、そんなに体育会系に見える?」
ふと、思う所があって声を潜めて聞いてみる。棚田はもぐもぐとアスパラ肉巻きを食べつつ、神妙な顔で頷いた。
「そんなに、というか。100パーセント体育会系ですよ、あなたは。勉強だって小手技一つ使えず、ひたすら原始的に『繰り返し書いて覚える』を地で行ってなんとか平均値のちょっと下をひた走る有様ではないですか」
「うぅ……」
「しかもクラス一の力持ちで武道にも長け、そこんじょそこらの男よりよっぽど強い。足は速いし瞬発力はあるし体育祭のエースとはまさに君のことだ今年も期待している」
「力持ちは誤解だよ! このクラスの男子が弱すぎるんだ。土嚢くらい普通に持てるってば」
もう、とおにぎりをかじりつつふて腐る。
二年になった四月の後半ごろ、夜の大雨によってグラウンドが多大に浸水してしまった日があったのだ。その日は球技大会があった為、緊急措置として大量の土嚢を運び、土で水たまりを埋める作業を行った。
その時、土嚢を小脇に抱え、もう一つ土嚢を肩に担いで運んでいたら、クラスメートに……主に男子にあれこれと言われてしまったのである。
「大体、じゃがいもだって一箱10キロだよ? 土嚢と同じようなものでしょ」
「うん……。そういえば君んちは野菜農家だったな。君の脳筋思考は生まれた時からの定めだったのだな」
なにそれ。全国の農家に謝れ。インテリジェンスな農家だっているんだぞ。
それはともかく、私がどこから見ても体育会系に見えるというのは地味に傷つく。これでも、髪を伸ばして大分と印象が変わったと思うんだけどなぁ。
もっと大人しくならなきゃいけないのだろうか。そもそも、合気道をやってるのが駄目なのかな? でも小学生のクラブ活動から続けていた合気道を辞めるのはちょっと躊躇する。
「どうやったら二条先輩の好みのタイプになれるのかな……」
「二条先輩ってそういう浮ついた話しそーにないけど、好みなんて、どうやって調べたの?」
「噂とか……合気道部の先輩に聞いたりして。ロングヘアーで大人しい、文学タイプが好きみたい。でも私、そういうタイプとは程遠いというか、努力しても無駄感たっぷりで。だからせめて髪を伸ばしたり、少しでも話す機会を作ろうって、相合傘計画を立てているんだけど……」
フゥとため息をつく。計画を立ててみたものの、持ち前の晴れ女スキルのせいで全くチャンスは巡ってこないし、今更文学タイプに転向した所で付け焼刃感が否めないに決まっているる。棚部が言う通り、私は悲しいほど体育会系なのだ。活発で騒がしい熱血タイプではないけれど、かといって大人しいかと言われると首を傾げてしまう。
これが試合なら、気を引き締めて攻めの体勢をとって、いくらでも攻撃を仕掛けることだってできるのに、恋沙汰になると情けない程臆病だ。先輩に話しかける手段としてひたすら相合傘を狙ってる辺りが非常にチキンで意気地がない。
もっとハッキリと。それこそ棚部が言うように体育会系丸出しで晴天の青空の元、堂々と声をかけたらいいのに。
「雨」を理由に声をかけようとしている。雨を狙って、大判の傘を毎日学校に持って行って、放課後を心待ちにしている。
別に相合傘でいきなり仲良くなろうなんて、そんな早まった事は思っていない。
だけど梅雨が明けるまでに、少しだけ距離を縮めてみたかった。決まった女の子がいるのかとか、好きな女の子はいるのかとか、……私が好きになってもいいのかとか。そういう事を確認したかったのだ。