末結のい願るあと
おにいちゃんなんだから。と言われた。
いもうとをまもるんだよ。と言われた。
だから守ろうと思った。だから護らなくちゃいけないと思った。
それが小さな僕の、一生続く大きな誓い。
明日からさらに冷え込むらしい。
ただでさえここ最近は冷え込むというのに、これ以上寒くなったらどうなってしまうのだろう。
ロンドン、ストランド通りから川を離れて数ブロック進んだ所にある廃墟のマンションの中で僕はそんな事を思った。
毛布代わりのボロ切れをすぐ横で眠る妹にかける。
硝子のない窓から少し白み始めた東の空を見る度、まだ暖かなベッドで眠っていた日々の事を思い出す。
一応、上流階級と呼ばれる家柄だったが父親の勤める会社が手広く事業を広げたのが原因だった。
新しく始めた事業の詳細こそは知らないが、新事業を始めた瞬間不況の波が到来した。
世界恐慌と後に呼ばれることになる不況の嵐が父親の会社に直撃し、例に洩れず倒産した。
以来父親は必死に再就職の道を探したが、世界恐慌下ではそう簡単に仕事は見つからない。もしくは見つかったとしても苦しい生活は逃れられない。
結論から言えば、僕と妹は捨てられた。
家に帰れば部屋には何もなく、ただ書き置きだけが残された時は随分と驚き絶望したものだ。
以来、ただひたすら南下してロンドンにたどり着き、立派な浮浪者となり果てた。
ふと気づけば、少し値の張る指輪を片手で弄っていた。
指輪は随分と前、まだ家が裕福だったころに親が買ってくれたものだ。
別に特別親に会いたいとか考えていないと思っていたが、どうやらもう一度会って小言を言うくらいの事をしたいようだ。
そのためにはまず今日を生き延びなければ。
僕は毛布を全て妹に預け、寒さに耐え立ち上がった。
少し、このロンドンと言う町は居づらい。
別に寒さをしのぐ場所が少ないだとか、食料の調達が難しいとか、警察が目を見張っているとか、そんなことはない。
むしろ、寒さをしのぐ廃ビルはいくつあるし、大都市ゆえに食料も多く、大恐慌の負い目か警察は甘い。
今まで渡り歩いていた町に比べたら格段に住みやすい。
ただロンドンには居づらいなり理由があった。
大都市であり、浮浪者の人数が多いが故に浮浪者たちの中にも社会と言うものがあるのだ。
派閥があり、縄張りがあり、序列がある。そんま画画とした社会の中で新参者は爪弾きにされる。
現に昨日の昼に寝床を探していたら、大きなグループの幹部らしき男に出会った。
いわく、派閥に収入を入れろ。だそうだ。
もちろんそんな規則に従う義理はない。ただ生活しているだけでさえもうカツカツなのだ。これから寒くなれば本当に死んでしまうかもしれない。
そんな中で派閥なんかに入れるものはない。一人分なら自分の分を切り崩せば何とかなるかもしれないが2人分は賄えない。課と言って妹の分を切り崩すなんてことはできない。そもそも弱者である妹が奴らの食い物になる事なんて火を見るよりも明らかだ。
結果として、その男の顔を一発殴って、一発殴られ逃げた。
別にひっそりと暮らしていれば、またあの男と出会う事なんてないだろうし、早々にこのロンドンを出れば問題はない。
そろそろどこかに腰を落ち着けた方が良いと思っていたが、どうやら先延ばしになるようだ。
そんな事を考えながら、何気なさを装って聖マルティン広場の店先のパンに手を伸ばす。それを掴んで服の中に入れようとしたところで主人に睨まれたので、大人しくパンを戻す。数多い浮浪者たちのためかパンを盗まれるという事に慣れているようだ。この大都市ロンドンではパンを盗むことすらも集団でしなければならないようだ。
こう言うところでも新参者は住みづらい。さっさと次の町に移るなりなんなりの別の案を考えなければ。
僕はそう思ってストランド通りを超えてテムズ川の方へ出る。確かこっちの方に酒場が一つあったはずだ。今日の朝食はそこから失敬しよう。
「お兄ちゃん」
そのバーへ向かう途中、昨日寝床にしていたオンボロマンションの跡地の上階から突然声を掛けられた。
顔を上げれば七階ある内の五階から妹が顔を出している。もう少し起きるまで時間がかかると思っていた予想よりも早かった。
あまり盗む現場に連れていきたくはないが、ダメと言ってもついてくるだろう。
「降りてこいよ。一緒に行こう」
そう声をかけてやると小さな顔が硝子のない窓から引っ込み、バタバタと階段を駆け降りる音が聞こえてくる。
軽く息を上気させながら妹は嬉しそうに僕の横に立つ。僕は差し出された小さな手を取って、一緒に歩き始めた。
煉瓦造りの道を並んで歩きながら目標である一件の酒場、その裏口に出る。
ここから先、近くに妹を隠して自分は酒場の中に侵入しようと考えていると。見たくもない顔が姿を現した。
昨日出会った浮浪者集団の一人だった。
「おい、お前」
「なんだ」
男は高圧的な態度で話しかける。こう言うところも気に食わない。
「さっき広場でパンを盗もうとしてただろ。困るんだよ、勝手にあんな事をされたら」
「ふん」
「無視してんじゃねえよ」
と言われてもこう言う奴らは無視するに限る。下手に相手したらもっと面倒くさいことになるという事は目に見えている。
「ここらは俺らの縄張りなんだよ。勝手に盗みを働かられると困るんだよ!」
「じゃあ、どうすればいいんだ?勝手に野垂れ死ねばいいのか?」
「だから俺らに金を払えって言ってんだよ」
「断る。だいたいそんな余裕なんてない」
適当にあしらってやるが、どうやらその様子が気に食わなかったようだ。見る見るうちに顔が赤くなっていく。
「その金がないんだったら・・・」
男は少し離れた所にいた妹の手を取り引き寄せる。羽交い締めにして片手でナイフを取り出す。
怯える妹の事など一切気にせず、ナイフを引き下ろした。
ボロボロな服がすっぱりと切れ、妹の体の上半身が露わになる。
「こいつを売っ払えばいいんじゃないのか?」
男は泣き出しそうな妹の首をさらにきつく締め、今度はナイフを頬に当てる。
「それかこいつを殺しちまえば、払う金が半分になるぜ」
瞬間勝手に体が動いていた。
ナイフを握る男の手首を一瞬で、それこそ手首がもげるくらいの勢いで捻りあげナイフを奪う。
肩肘で妹を押して男から離した事を確認すると、手に持つナイフを男の首筋めがけて勢いよく薙いだ。
暖かなものが僕の体を汚す。
真っ赤な海の中心で僕は佇む。
今起こした事実に気づくまで、少し時間が必要だった。
ぼくはひとをころした。
どうしよう。ぼくはひとをころしてしまった。
絶望に溺れながら僕は少し広めな通りに出る。
どうしよう。ぼくはつかまってしまう。
盗むくらいなら大目に見てもらえたが殺人となればそんな訳にはいかないだろう。間もなく僕は捕まってしまう。
別に自分が捕まる分には気にならない。ただ心配なのはマンションに戻った妹の方だ。
通りを歩きつつ、指輪の装飾をポケットの中でなぞりながら考える。
まだ盗みも働いた事のない妹。そんな彼女がこれからさらに酷くなるであろう冬に一人で耐えられるとは思わない。
どうしよう。ぼくはいもうとをまもれない。
孤児院という選択肢はない。そもそも入れるくらいの子供の空きがあれば既に孤児院に入っている。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
僕が通りを歩いていると、ふと警察の車が目に入った。
警察。今、僕を追っているやつら。
ひょっとしたらもう名前と顔くらいはばれているかもしれない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
ふと一つの考えが頭に浮かんだ。これなら妹を絶望の淵から救い出す事が出来るかもしれない。ただ失うものは多い。
でも、それでも構わない。
こうしよう。こうしよう。こうしよう。
そのたった一つの考えに、分の悪い賭けに僕は乗った。
幸い金を持っていそうなふくよかな老婆が見える。
僕は一つの決断を下し、老婆の持つ鞄を奪い取って駆けだした。
老婆が悲鳴を上げる。それに呼応して正義感あるスーツの男性が僕を追い始めた。
それでも捕まる訳にはいかない。ここで捕まったら何もかも終わりだ。
僕は懸命に走る。あいにくだが、浮浪者生活はまだ一年にも満たないが僕はそこらにいる人たちには負ける気がしない。
どんどんとスーツの男との距離が開き、ついにスーツ姿の男は追う事をあきらめた様だ。
大通りから大通りに曲がったところで僕は少し息を落ち着ける。ここからが本番だ。
息を整え終わるとほぼ同時に少し離れたところからサイレンが聞こえる。
僕は狙い通り大通りを走りだし、警察の目の前に躍り出る。
そのまま今までよりも遥か早く走る。
これが最後の走りだ。死ぬ気で、僕の持つすべての体力を注ぎこんで走る。
見えた。
最短距離で走りぬく目的地は寝床にしていた廃マンション。そこに僕は飛び込むように入った。
背後で車が止まる音がする。少し時間に余裕が出来たが、悠長にしている時間はない。
今度は階段を一段抜かしで、五階を目指して駆けあがる。
「あれ?お兄ちゃん、どうしたの?」
妹は汗をダラダラと流し息を切らし駆けあがってきた僕を見て、とたとたと寄ってくる。
その妹の顔を両手でつかみ、腰を曲げて視線を合わせる。
疑問を口にしようとする妹だが、僕が話しかけるほうが早かった。
「ケイト、これからも元気に生きてくれ」
そう言って僕は指輪をはずし、指につけてあげようとしたがサイズが合わない。仕方なしにちかくにある鎖を取って、それに指輪を通しかけてやる。
「じゃあな」
そう言って僕は妹の腹に拳を叩き込んだ。妹はあっけなく気絶し、緩やかに僕に体重を預ける。
階下で階段を上る音が聞こえる。もう少しこうして妹と触れ合っていたいと思うが、そんな時間はないようだ。
妹を抱きかかえ、僕は踵を返して階段に躍り出る。
追ってくる刑事を視界にとらえた。中年の少し太った男性だ。
今は眼を厳しく釣り上げているが、普段はもっと優しい目をしているのだろう。そんな目だ。
彼なら安心して妹を託せる。
僕は妹を抱いて、痛む足を押して階段を駆け上がる。
五階から六階。
六階から七階。
七階から屋上。
微かな陽光はもう薄れ、暗くなるまでもう何分とかからないだろう。曇った空の下から微かに見える金色の光が僕が見る最後の光景だ。
「もう。逃げられないのですじゃ」
背後から聞こえる刑事の声に僕は振り返る。刑事は少し近づくが、まだ少し遠い絶妙な距離を保って止まる。
「うるさい!」
僕は大声は張り上げて、左腕を妹の首に回し、右手でポケットからナイフを取り出した。片腕分の支えを失った妹は、僕の左手だけで体を浮かせる事になる。僕は妹の首にナイフの背を当てる。遠目から見たら僕が妹の命を握っているように見えるだろう。
「うるさい!これ以上来るな!殺すぞ!」
声を張り上げて、狂気の殺人犯のふりをする。口から出た言葉とは裏腹に心の中はひどく冷静を保っている。
一世一代の、刑事を騙す大勝負。でも妹の為に僕は負けるわけにはいかない。
ほんの少しナイフを妹の皮膚に食い込ませる。これが決定打だった。
刑事は瞬時に拳銃を抜き取り、発砲した。
狙いは足元の様だ。こうすれば僕の動きが止まると思ったのだろう。
実際には予測できていたので驚く事はないが、これは刑事が考えての一手なのだろう。僕は甘んじてその考えに乗り、さも驚いたかの様に妹を手放す。
その妹を刑事は優しく支え床に寝かせた。彼なら安心して妹を任せられる。
「やめろ!来るな!」
僕は最後の猿芝居を打ちながら後ずさる。後ろに何があるかなんて見なくても分かっている。
「待っ・・・」
刑事が手を伸ばしたが遅かった。
僕は最後の一歩を踏み出し、7階立てのマンションの屋上から身を躍らせた。
今まで感じたことのない、これから二度と感じる事のない浮遊感が僕を襲う。
これで良かった。
あの優しそうな刑事の事だ。殺人犯に拉致され、人が死ぬ瞬間を見た妹を刑事は放っておけないだろう。
見た限り刑事歴も長そうだ。孤児院につながりがあるかもしれないし、それともひょっとして彼が妹を引き取るかもしれない。
僕は妹の幸せを願いながら、自分の体が地よりも深く叩きつけられるのを感じた。
おにいちゃんなんだから。と言われた。
いもうとをまもるんだよ。と言われた。
だから守ろうと思った。何をしてでも護りたいと思った。
それが大きな僕の、一生で最後の願い。