とある願いの結末
20世紀初頭、ロンドン。
ストランド通りからテムズ川に一本行ったところに一つの酒場がある。
ロンドン中心街から少し離れた所にひっそりと佇むその店は、店主の陽気な人柄のお陰で、大繁盛とはいかないまでも固定客をしっかりとひきつけ細々と経営していた。
その日も夕刻になれば仕事終わりの常連客が、安いビールを求めていつもと同じ明るく騒がしい夜を迎えるのだと店主は思っていた。
しかし昼前に店を開け、軽く掃除し、ゴミを出そうと裏口から外へ出たところでそんな予想は驚きと共に裏切られた。
「首元にナイフを一閃。こりゃ即死ですな」
ベテランの刑事であるラルフ・マクアイヤーは最近めっきり太ってしまった体を揺らしながらそう手帳に書き込んだ。
目の前の一角、元は酒場のゴミ捨てに使われるそのスペースには大きな肉の塊がある。
まだ人の形をはっきりと保つそれは、つい数時間前までは確かに生きていたのだろう。煉瓦で舗装された道は変色した血で真黒に染め上げられている。水分を保ちながらも個体となった血の結晶は今朝方の猛烈な冷え込みのせいなのだろう。
ボロボロなつぎはぎだらけ粗末な服では、あの冷え込みをそうとう堪えたはずだが命を落とす事はなかったはずだ。
浮浪者であろうその男の死体から目を離し、ラルフは酒場でしおらしく座る店主へと近づく。
「それで、彼に心当たりはありますかな」
ラルフは絶対に分かり切っている質問を形式的に一応してみる。あのボロボロな服装ややせ細った体つきからしてみれば考えなくとも彼がこのあたりに住む浮浪者であることが分かる。
世界恐慌でこのロンドンも経済的な大打撃を受けた今の時分では、いかに浮浪者を取り締まったところでその数は減る様子もない。治安悪化もそれによって助長され、警邏が忙しくなっているのも同僚たちとの愚痴の一つだ。
「被害者の身元を含めて一通り被害者を調べ報告」
ラルフは近くで待機する警官たちに指示を与えて、自分は店主から少し離れた所に座る。
「ラルフ大丈夫か」
「あぁ、問題ないですじゃ」
同僚から心配の声をかけられて、そんなに心配される程の顔をしていたのかと、ラルフは自分を恥じながらも何事もないように答えた。
ラルフは15年前に結婚をした。アニスと言う気立てのいい、美人な人だった。二人は仲睦まじく幸せな生活を送っていた。なかなか子供ができないということぐらいが二人の悩みだった。
悲劇が起こったのはそんな時だ。
アニスが自動車事故に巻き込まれ、アニスの小さな体には鉄骨が突き刺さり煉瓦の上に叩きつけられた。アニスからはどくどくと血が流れ、生死の境をさまよった。その事故を真横で見続けたのがラルフだった。
結果としてはアニスは子供が産めない体になってしまったが生還した。アニス自体に後遺症はないがラルフは大量の血液を見る度に事故の光景を思い出してしまう。この光景を思い出すたびになぜ自分が刑事を続けているか不思議に思う。
ラルフはもう克服したと思っていたが、同僚の様子を見る限りそんな事はなかったようだ。
だが刑事と言う職場を選んだ以上いつまでも甘ったれる訳にもいかない。
ラルフは椅子から立ち上がり、自ら殺された男へと歩み寄った。
やはり殺された男は浮浪者だった。
バリーと言う浮浪者集団でも古参な人物で、他グループには厳しいが身内には優しいというのは同じ浮浪者チームの言葉。
「そのバリーが誰かに恨まれるようなことはありましたかな?」
ラルフが手帳片手に尋ねると、不精髭を生やした青年が乗り気で答えた。
「さあね。バリーは外には敵を作るヤツだったしな。敵は多かったんじゃないのか」
「そうか。ありがとうですじゃ」
ラルフが感謝の言葉を受けて立ち上がると、様々な野次と共に声援も送られる。世界恐慌の中厳しい生活を押し付けているのもラルフたち警官だし、彼らの安全を守っているのもラルフたち警官なのだ。
「そう言えば、昨日の午後にまた新しい奴が来てなかったか」
その一言にラルフは回れ右をして声の主に戻った。
「そのことについて詳しく教えてくれますかな?」
昨日の午後。というよりも夜。新しく来た浮浪者が彼等の縄張りに入ってきたそうだ。浮浪者たちは縄張りを厳格に守るため、バリーがその事を文句に行った。新参者の浮浪者と口論になり、結局はその新参者がすごすごと帰っていく所を見たそうだ。
「それでその新しく来た浮浪者は分かりますじゃ?」
ラルフが尋ねると、浮浪者たちは似顔絵まで描いてその新参者の名前を教えてくれた。絵を描いたのは元画家らしく、そのまま捜査に使えそうなレベルだ。
「ふむ、レオンじゃな」
ラルフはその名前を手帳にしっかりと記入し、野次と応援を背中に受けながらその場を後にした。
車に戻ると、まだ完全に整備され切っていない道路が妙に騒音に満ちていた。
「どうなさったのじゃ?」
ラルフが義務感に追われ、近くにいたスーツの男性に話しかける。
「あぁ、刑事さん。さっきそこでひったくりがあったんですよ」
男性の説明になんとなく目を向ければふくよかな老婆が道の真ん中で倒れている。
「それで私も追ったんですがついていけませんでした。たぶんまだこの辺にいると思います」
言われてみればスーツ姿の男性は汗でぬれている。この冬空の下で汗をかくほど懸命に走ったのだろう。
「わかりましたですじゃ。それでその男はどんな姿ですじゃ?」
「それ」
ラルフがひったくり犯の特徴を書こうと手帳を開くと、男性はページの左側を指さした。
そこには今さっき教えてもらったレオンと言う男の似顔絵。
ロンドンという警察も配備された大都市でも、名前と似顔絵だけでたった一人の人物を探す事は難しい。
しかし、この時に限ってはそんな事はないようだった。
ラルフは車に飛び乗り、同僚に連絡を入れると同時に車を発進させる。
まだ道の整備されていないロンドンでは車では通れない細い路地もあるが、追われて思考がパターン化しているレオンなら大きな通りにしかいかないだろう。
ラルフの考えは一つの賭けだったが、その賭けには勝利した。
大通りを走り、ふと角を曲がる少年の顔が、手帳に書かれた顔と一致したのだ。
ラルフが追って角を曲がれば、レオンが一つのマンションに入る所だった。
マンションは寂れ、窓ガラスもことごとく割れている。世界恐慌の影響を受けて倒産した数多のマンションの内の一つであり、浮浪者たちの宿となる数多のマンションの内の一つの様だった。
ラルフはマンションを見上げ、拳銃にしっかり弾が入っている事を確認し、この拳銃を使わない事を祈りながらマンションに入った。
マンションは予想したよりも明るかった。
電気こそは止められているが、暗くなり始めた曇り空がしっかりとした光源となっていた。
けれど日が沈みきる前にレオンを捕まえなければ、これ以上の追跡は厳しくなってしまう。
ガタガタと上の方で、騒がしい音がする。レオンは上の階にいるようだ。
ラルフは少し足早に階段を上った。
一階から二階。
二階から三階。
三階から四階。
そろそろ階を通り越してしまったかもしれないとラルフが不安を覚え始めた四階の踊り場。
五階の廊下からレオンが飛び出した。
やせ細った体。みすぼらしい服装。浮浪者の典型のような姿。ただその腕の中には明らかに浮いた存在がある。
一人の女の子だ。
気を失っているのか、目を瞑っている少女をその腕に抱えレオンはさらに上階へと階段を駆け上がる。
その姿を見てラルフは太った体に鞭をうち、階段を上る速度を上げる。
あの女の子は浮浪者であるようだが死んでもいいという事にはならない。殺人者であるレオンと一緒に気絶している事がいかに死と隣り合わせかと言う事は分かる。
人質として使い、最悪の場合は捨て駒として扱うのだろう。もう女の子の命に安全の保証はない。
ラルフは無理矢理にでも階段を駆け上がる。
五階から六階。
六階から七階。
七階から。
ラルフが屋上を開け放つとそこは屋上だった。微かな灯りはもう薄れ、暗くなるまでもう何分とかからないだろう。
そんな光を背負ってレオンは屋上の片隅に佇んでいた。
「もう。逃げられないのですじゃ」
ラルフがそれだけ告げてほんの僅かに前へ出る。しかしすぐに走り出せる距離だけ残して立ち止まる。
人質を持って、追い詰められた殺人者と無闇に近づく事は得策ではない。
「うるさい!」
レオンが大声は張り上げて、左腕を女の子の首に回し、右手でポケットからナイフを取り出した。片腕分の支えを失った女の子は、その左手だけで体を浮かせる事になる。それでも
「うるさい!これ以上来るな!殺すぞ!」
レオンは女の子の首にナイフを当てる。ラルフはその先から予想される未来を想像してしまう。
切りつけられる首。流れ出る血液。死んでしまうのは女の子だ。
ラルフは打開策を探す。あの様子じゃ説得なんてありえない。レオンだけ狙って打つ事も不可能だ。
ならば残された選択肢はそう多くない。
ラルフは瞬時に拳銃を抜き取り、レオンの足もとに向けて発砲した。
絶対に当たらない弾丸の軌道。しかしこれには二つの意味がある。
一つは銃声でレオンを委縮させる事。そしてもう一つは、レオンの視線を弾痕のある足もとへと移させる事。
その数瞬の隙を狙ってラルフは走った。
レオンが視線を戻した時にはもう遅い。突然の接近に驚き、レオンは女の子を手放し思わず後ずさった。
ラルフは倒れてくる女の子を支え、そのまま床に寝かせる。
「やめろ!来るな!」
レオンはそう言いながら後ずさる。だが、その先は。
「待っ・・・」
ラルフの叫びむなしく、レオンは屋上の淵から足を踏み外した。
ゆっくりと、しかし確実に落下していくレオン。ラルフが屋上から覗き込んだ頃には既にレオンは地面へと叩きつけられていた。
地面に叩きつけられたレオンからは真っ赤な血があふれている。
ラルフの頭に入り込んでくる事故の記憶。だがそれを見ても不思議と気持ち悪くはならない。
おそらく、レオンとアニスとが不思議と重なって見えたからなのかもしれない。
レオンはきっと浮浪者同士の争いも、ひったくりも、生きるために行ったのだ。
世界恐慌という勝ち目のない流れに挑んで死んでいったレオン。
自動車事故という出口のない流れに挑んで生き残ったアニス。
勝利のない戦いに巻き込まれ倒れたという点で、二人はどこか似通っているのかもしれない。
そして、ラルフはきっとその妻のために戦っている。
ラルフは勝ち目のない戦いに巻き込まれた人を助けるために戦っている。
そのためにラルフはまだ刑事と言う仕事を続けているのだろう。
そして今、ラルフの前には一人の女の子が横たわっている。
首元には高級そうな指輪が鎖でつながれている。元々はいい家系の出なのかもしれない。
しかし世界恐慌で居場所を失い、殺人事件の週末に巻き込まれ、力なく残された女の子。
浮浪者としても生きていけば死んでいってしまうだろう。
その女の子を見て、ラルフが一人思う事は。
真っ赤に燃える夕焼けの下。すっかり夏色なテムズ川を一人の女の子が眺めている。
首に鎖で掛けられた高級そうな指輪を両手で包み、何かに祈るように遠くを見る。
「ケイト。先行くよ」
アニスの声に、その女の子、ケイトは指輪から手を離した。
その様子を少し後ろからラルフは見ていた。
強大な敵に巻き込まれ力なく倒れそうだったケイト。彼女を引き取ることにアニスは何も言わなかった。
孤児院に空きがなかった事もほんの少し後押ししたせいもあるだろうが、二人とも子供が欲しかったからかもしれない。
ただラルフはそれだけではなかった。
自分がまだ刑事として戦い続ける理由をはっきりと教えてくれたケイトに何か恩返しをしたかったからかもしれない。
アニスの横に並ぶケイトを見てラルフは願う。
彼自体がレオンの様に強大な敵に負けてしまわない様に。
新しく出来た大切なものを失わない様に。