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あなたの声が聞こえる

作者: けんけん
掲載日:2026/04/07

■ 第一章 電話


 電話が鳴り始めたのは、午前二時十七分のことだった。


 沢田さわだ 晴人はるとはその着信音で目が覚め、暗闇の中で手探りでスマートフォンを探した。画面には「非通知」と表示されていた。普段なら無視するところだが、その夜はなぜか、受け取らなければならない気がした。


「……もしもし」


 応答すると、ノイズの向こうから声が聞こえた。女の声だった。低く、かすれていて、まるで遠くの海の底から届いてくるようだった。


「晴人くん。久しぶり」


 晴人は息を飲んだ。


 その声を、彼は忘れたことがなかった。三年間、一日も。


「……美月?」


 返事はなかった。代わりに、微かな呼吸音だけが続いた。


 深山みやま 美月みつき。晴人の元恋人。そして――三年前に亡くなった女。


「晴人くん」と声は繰り返した。「私、ずっとあなたの隣にいたよ」


 電話は切れた。


 晴人はしばらく画面を見つめていた。発信履歴には何も残っていなかった。非通知の着信は、記録すら残さなかった。


 夢だったのかもしれない、と彼は思った。でも手の中のスマートフォンは確かに温かく、耳の奥にはまだ声の残像があった。


――あの声は、本物だった。


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■ 第二章 三年前


 美月が死んだのは、三年前の十二月だった。


 晴人と美月は大学の同じ研究室で出会い、二年間交際していた。美月は賢く、穏やかで、少し変わった女だった。彼女は人の言葉の「裏側」を読むのが得意で、初対面の相手でも五分話せばその人間の本質を言い当てた。晴人はその能力に、恋をするよりも先に、驚いた。


 関係が壊れ始めたのは、美月が晴人の「嘘」に気づいてからだった。


 晴人には隠していたことがある。大学院に進学すると言いながら、実際は就職活動をしていた。美月と将来を語りながら、別の女と夜を過ごしていた。些細な嘘を重ね、それが積み木のように積み上がった先で、崩れた。


「あなたは私に嘘をついているとき、左の耳を触る」


 美月は別れを切り出した夜、静かにそう言った。怒ってはいなかった。悲しんでもいなかった。ただ、確認するように、事実を述べた。


「晴人くんのこと、好きだったよ。本当に」


 それが最後の言葉だった。


 一週間後、美月は橋の上から川に落ちて死んだ。自殺とも事故とも断定されなかった。彼女の遺体は冷たい水の中で発見され、表情は――目撃者によれば――穏やかだったという。


 晴人は葬儀に参列しなかった。できなかった。


 それからの三年間、彼は美月の声を夢の中で何度も聞いた。しかしあんなにはっきりと、現実の電話で聞いたのは初めてだった。


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■ 第三章 調査


 翌日、晴人は美月の旧友だった女に連絡を取った。


 緒方おがた れい。美月の中学からの親友で、美月の死後も晴人と細い繋がりを保っていた女だ。彼女はいつも少し遠回しな言い方をして、核心を掴もうとすると煙のように逃げた。晴人はずっと彼女が苦手だった。


「昨日の夜、美月から電話が来た」


 電話でそう告げると、玲は笑った。笑い方が引っかかった。驚く前に笑った。


「それは大変だったわね」と玲は言った。「美月は死んでるのに」


「わかってる。でも声だった。本物の」


「夢じゃないの?」


「着信があった。非通知で」


 玲は沈黙した。長い沈黙だった。


「……晴人くん、最近ちゃんと眠れてる?」


「関係ない」


「関係あると思うけど。ねえ、美月のこと、引きずりすぎよ。もう三年だよ」


 晴人は電話を切った。


 引きずっている。それはわかっていた。だが今回は違った。あの声は夢ではなかった。あまりにも具体的で、あまりにも「美月らしかった」。


 晴人は美月の母親に連絡しようとして、やめた。代わりに、美月がよく使っていたSNSの旧アカウントを検索した。鍵がかかっており、フォロワーしか見れない設定になっている。しかしアカウント自体はまだ存在していた。三年前から更新されていないはずなのに、最終ログインの表示が――


「三日前」になっていた。


 晴人の手が震えた。


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■ 第四章 再会


 美月の母、深山みやま 幸江ゆきえに会ったのは、それから二日後のことだった。


 幸江は小さな女で、美月によく似た目をしていた。娘を失った後も働き続け、今は郊外の小さなアパートに一人で住んでいた。晴人が訪ねると、彼女は驚いた様子もなく玄関を開け、「上がりなさい」と言った。


 茶を飲みながら、晴人はSNSのことを話した。アカウントに三日前のログインがあったと。


 幸江は長い間、黙っていた。


「……美月が死んでから」と彼女はゆっくり言った。「一年くらい経ったとき、私もあの子のアカウントにログインしようとしたの。パスワードを試したら、入れた。それで一度だけ入って、写真を見て……また閉じたわ」


「三日前に誰かがログインしています。お義母さんではないんですね」


「違う」幸江ははっきり言った。「私はもう触っていない。怖くて」


 晴人は帰り際、ふと振り返って訊いた。


「美月は、亡くなる前に、誰か恨んでいた人はいましたか」


 幸江は少し考えてから、首を振った。


「恨む子じゃなかった。でも……」と彼女は続けた。「死ぬ前の週、誰かと電話で言い争っていたのを聞いた。『あなたは知っているはずだ』って。誰に言っていたのかは、わからなかった」


 晴人はその夜、眠れなかった。


 誰かが美月のアカウントにログインしている。誰かが美月の声で電話をかけてきた。そしてその誰かは、晴人に何かを伝えようとしている。


――あるいは。


 晴人に何かを「させようとしている」。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


■ 第五章 二通目のメッセージ


 電話から五日後、今度はメッセージが届いた。


 送信者は美月のSNSアカウント。内容は短かった。


  「橋の上で待ってる。来て。」


 美月が死んだ橋だ、と晴人はすぐにわかった。


 行くべきではない、と理性は言った。罠かもしれない。いや、そもそも幽霊などいない。死者はメッセージを送れない。誰かが美月を騙って、自分を引き出そうとしている。


 だが晴人は外套を羽織り、靴を履いた。


 橋に着いたのは午後十一時過ぎだった。河川敷に降りる風は冷たく、冬の匂いがした。欄干に手をかけて下を覗き込むと、黒い水が静かに流れていた。三年前、美月はここから落ちた。


 背後に気配を感じて振り返ると、人影が立っていた。


 女だった。コートの襟を立て、マスクをしている。しかしその立ち姿を見た瞬間、晴人の全身に電流が走った。


「……美月」


「違う」と女は言った。マスクを外した。


 緒方 玲だった。


「驚いた?」


 晴人は言葉を失った。玲は静かな目をしていた。怒ってもいない、悲しんでもいない。美月が別れを告げた夜に見せていたのと、よく似た目をしていた。


「電話も、メッセージも、全部あなたが?」


「ええ」


「なぜ」


 玲は少し間を置いてから、答えた。


「あなたに、真実を話してもらいたかったから」


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■ 第六章 告白


「美月は自殺じゃない」


 玲は欄干に背を預け、静かに言った。


「事故でもない。誰かに橋から突き落とされた」


「……何の証拠があって」


「美月から、直前に電話が来た。あなたに何か言おうとしているって。怖がっていた。でも言えないって言った。それから一時間もしないうちに、死んだ」


 晴人の耳の奥が、痺れた。


「私はずっと調べていた」と玲は続けた。「美月が知っていた秘密。あなたが隠していた何か。三年かけて、ようやくわかってきた」


「俺が……美月を?」


「違う」玲は首を振った。「あなたじゃない。でもあなたは知っているはず。あなたの周囲に、美月が知りすぎた誰かがいる」


 晴人は欄干を握りしめた。水の音だけが、低く響いていた。


「知っている誰か」。その言葉が、ゆっくりと、頭の中で形を成し始めた。


 大学院の研究室。美月が何度も足を運んでいた場所。そこで美月は、ある教授の不正を偶然目にしていた。晴人はそれを、美月から打ち明けられていた。論文データの改ざん。共同研究費の横領。美月は「告発しようか迷っている」と言っていた。晴人は「余計なことに首を突っ込むな」と言った。


 そして美月は死んだ。


 晴人は気づいていた。ずっと、気づいていた。ただ認めたくなかっただけだ。


「……三年間、俺はずっと」


「知っていたんでしょう」玲は静かに言った。「そして黙っていた。それがどういうことか、わかっているはずよ」


 風が吹いた。川の匂いがした。三年前と同じ、冬の匂いだった。


 晴人は、ゆっくりと口を開いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


■ 第七章 あなたの声が聞こえる


 玲はその夜、教授の名前を聞いた。


 そして証拠の音声データを持って警察に向かった。彼女が三年かけて集めたものと合わせれば、捜査を動かすには十分だった。晴人は参考人として事情聴取を受け、全てを話した。


 一ヶ月後、教授は逮捕された。


 研究費横領と証拠隠滅の疑い。美月の死については「事故死」のまま記録は変わらなかったが、少なくとも動機を持つ人間が断罪された。それ以上でも、以下でもなかった。


 晴人は結審の知らせを受けた夜、久しぶりに美月の夢を見た。


 夢の中で彼女は橋の上に立っていた。冬のコートを着て、こちらを見ていた。晴人が「美月」と呼ぶと、彼女は穏やかに笑った。


「ありがとう」と彼女は言った。「やっと言えた」


 晴人は目が覚めてから、泣いた。三年間、一度も泣けなかったのに、その夜だけは止まらなかった。


  ―


 それから数日して、晴人はある事実を知った。


 玲が「美月の声で電話をかけた」と言っていた件。晴人はずっと、玲が何らかの音声加工ソフトを使ったのだと思っていた。しかし玲に改めて確認すると、彼女は不思議そうに首を傾げた。


「電話なんて、かけていないけど」


「え?」


「SNSのメッセージは私。でも電話はしていない。非通知で話しかけるなんて、そんな回りくどいことしないわ。直接かければよかったんだから」


 晴人は固まった。


「じゃあ……誰が」


 玲は答えなかった。答えられなかった。


 あの夜の電話。非通知の。「晴人くん、久しぶり」と言った声。「私、ずっとあなたの隣にいたよ」と言った声。


 それは誰だったのか。今も、わからない。


 ただ晴人には一つだけ、確かなことがある。


 電話がなければ、彼はあの夜、動かなかった。


 あの声があったから、全てが始まった。


  ―


 春になった。


 晴人は今日も、朝の電車の中で、ふとスマートフォンを見つめる。着信履歴に、何かが残っているような気がして。


 もちろん、何もない。


 でも時々、人混みの中で、背後から聞こえる気がする。


――あなたの声がきこえる

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