あなたの声が聞こえる
■ 第一章 電話
電話が鳴り始めたのは、午前二時十七分のことだった。
沢田 晴人はその着信音で目が覚め、暗闇の中で手探りでスマートフォンを探した。画面には「非通知」と表示されていた。普段なら無視するところだが、その夜はなぜか、受け取らなければならない気がした。
「……もしもし」
応答すると、ノイズの向こうから声が聞こえた。女の声だった。低く、かすれていて、まるで遠くの海の底から届いてくるようだった。
「晴人くん。久しぶり」
晴人は息を飲んだ。
その声を、彼は忘れたことがなかった。三年間、一日も。
「……美月?」
返事はなかった。代わりに、微かな呼吸音だけが続いた。
深山 美月。晴人の元恋人。そして――三年前に亡くなった女。
「晴人くん」と声は繰り返した。「私、ずっとあなたの隣にいたよ」
電話は切れた。
晴人はしばらく画面を見つめていた。発信履歴には何も残っていなかった。非通知の着信は、記録すら残さなかった。
夢だったのかもしれない、と彼は思った。でも手の中のスマートフォンは確かに温かく、耳の奥にはまだ声の残像があった。
――あの声は、本物だった。
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■ 第二章 三年前
美月が死んだのは、三年前の十二月だった。
晴人と美月は大学の同じ研究室で出会い、二年間交際していた。美月は賢く、穏やかで、少し変わった女だった。彼女は人の言葉の「裏側」を読むのが得意で、初対面の相手でも五分話せばその人間の本質を言い当てた。晴人はその能力に、恋をするよりも先に、驚いた。
関係が壊れ始めたのは、美月が晴人の「嘘」に気づいてからだった。
晴人には隠していたことがある。大学院に進学すると言いながら、実際は就職活動をしていた。美月と将来を語りながら、別の女と夜を過ごしていた。些細な嘘を重ね、それが積み木のように積み上がった先で、崩れた。
「あなたは私に嘘をついているとき、左の耳を触る」
美月は別れを切り出した夜、静かにそう言った。怒ってはいなかった。悲しんでもいなかった。ただ、確認するように、事実を述べた。
「晴人くんのこと、好きだったよ。本当に」
それが最後の言葉だった。
一週間後、美月は橋の上から川に落ちて死んだ。自殺とも事故とも断定されなかった。彼女の遺体は冷たい水の中で発見され、表情は――目撃者によれば――穏やかだったという。
晴人は葬儀に参列しなかった。できなかった。
それからの三年間、彼は美月の声を夢の中で何度も聞いた。しかしあんなにはっきりと、現実の電話で聞いたのは初めてだった。
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■ 第三章 調査
翌日、晴人は美月の旧友だった女に連絡を取った。
緒方 玲。美月の中学からの親友で、美月の死後も晴人と細い繋がりを保っていた女だ。彼女はいつも少し遠回しな言い方をして、核心を掴もうとすると煙のように逃げた。晴人はずっと彼女が苦手だった。
「昨日の夜、美月から電話が来た」
電話でそう告げると、玲は笑った。笑い方が引っかかった。驚く前に笑った。
「それは大変だったわね」と玲は言った。「美月は死んでるのに」
「わかってる。でも声だった。本物の」
「夢じゃないの?」
「着信があった。非通知で」
玲は沈黙した。長い沈黙だった。
「……晴人くん、最近ちゃんと眠れてる?」
「関係ない」
「関係あると思うけど。ねえ、美月のこと、引きずりすぎよ。もう三年だよ」
晴人は電話を切った。
引きずっている。それはわかっていた。だが今回は違った。あの声は夢ではなかった。あまりにも具体的で、あまりにも「美月らしかった」。
晴人は美月の母親に連絡しようとして、やめた。代わりに、美月がよく使っていたSNSの旧アカウントを検索した。鍵がかかっており、フォロワーしか見れない設定になっている。しかしアカウント自体はまだ存在していた。三年前から更新されていないはずなのに、最終ログインの表示が――
「三日前」になっていた。
晴人の手が震えた。
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■ 第四章 再会
美月の母、深山 幸江に会ったのは、それから二日後のことだった。
幸江は小さな女で、美月によく似た目をしていた。娘を失った後も働き続け、今は郊外の小さなアパートに一人で住んでいた。晴人が訪ねると、彼女は驚いた様子もなく玄関を開け、「上がりなさい」と言った。
茶を飲みながら、晴人はSNSのことを話した。アカウントに三日前のログインがあったと。
幸江は長い間、黙っていた。
「……美月が死んでから」と彼女はゆっくり言った。「一年くらい経ったとき、私もあの子のアカウントにログインしようとしたの。パスワードを試したら、入れた。それで一度だけ入って、写真を見て……また閉じたわ」
「三日前に誰かがログインしています。お義母さんではないんですね」
「違う」幸江ははっきり言った。「私はもう触っていない。怖くて」
晴人は帰り際、ふと振り返って訊いた。
「美月は、亡くなる前に、誰か恨んでいた人はいましたか」
幸江は少し考えてから、首を振った。
「恨む子じゃなかった。でも……」と彼女は続けた。「死ぬ前の週、誰かと電話で言い争っていたのを聞いた。『あなたは知っているはずだ』って。誰に言っていたのかは、わからなかった」
晴人はその夜、眠れなかった。
誰かが美月のアカウントにログインしている。誰かが美月の声で電話をかけてきた。そしてその誰かは、晴人に何かを伝えようとしている。
――あるいは。
晴人に何かを「させようとしている」。
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■ 第五章 二通目のメッセージ
電話から五日後、今度はメッセージが届いた。
送信者は美月のSNSアカウント。内容は短かった。
「橋の上で待ってる。来て。」
美月が死んだ橋だ、と晴人はすぐにわかった。
行くべきではない、と理性は言った。罠かもしれない。いや、そもそも幽霊などいない。死者はメッセージを送れない。誰かが美月を騙って、自分を引き出そうとしている。
だが晴人は外套を羽織り、靴を履いた。
橋に着いたのは午後十一時過ぎだった。河川敷に降りる風は冷たく、冬の匂いがした。欄干に手をかけて下を覗き込むと、黒い水が静かに流れていた。三年前、美月はここから落ちた。
背後に気配を感じて振り返ると、人影が立っていた。
女だった。コートの襟を立て、マスクをしている。しかしその立ち姿を見た瞬間、晴人の全身に電流が走った。
「……美月」
「違う」と女は言った。マスクを外した。
緒方 玲だった。
「驚いた?」
晴人は言葉を失った。玲は静かな目をしていた。怒ってもいない、悲しんでもいない。美月が別れを告げた夜に見せていたのと、よく似た目をしていた。
「電話も、メッセージも、全部あなたが?」
「ええ」
「なぜ」
玲は少し間を置いてから、答えた。
「あなたに、真実を話してもらいたかったから」
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■ 第六章 告白
「美月は自殺じゃない」
玲は欄干に背を預け、静かに言った。
「事故でもない。誰かに橋から突き落とされた」
「……何の証拠があって」
「美月から、直前に電話が来た。あなたに何か言おうとしているって。怖がっていた。でも言えないって言った。それから一時間もしないうちに、死んだ」
晴人の耳の奥が、痺れた。
「私はずっと調べていた」と玲は続けた。「美月が知っていた秘密。あなたが隠していた何か。三年かけて、ようやくわかってきた」
「俺が……美月を?」
「違う」玲は首を振った。「あなたじゃない。でもあなたは知っているはず。あなたの周囲に、美月が知りすぎた誰かがいる」
晴人は欄干を握りしめた。水の音だけが、低く響いていた。
「知っている誰か」。その言葉が、ゆっくりと、頭の中で形を成し始めた。
大学院の研究室。美月が何度も足を運んでいた場所。そこで美月は、ある教授の不正を偶然目にしていた。晴人はそれを、美月から打ち明けられていた。論文データの改ざん。共同研究費の横領。美月は「告発しようか迷っている」と言っていた。晴人は「余計なことに首を突っ込むな」と言った。
そして美月は死んだ。
晴人は気づいていた。ずっと、気づいていた。ただ認めたくなかっただけだ。
「……三年間、俺はずっと」
「知っていたんでしょう」玲は静かに言った。「そして黙っていた。それがどういうことか、わかっているはずよ」
風が吹いた。川の匂いがした。三年前と同じ、冬の匂いだった。
晴人は、ゆっくりと口を開いた。
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■ 第七章 あなたの声が聞こえる
玲はその夜、教授の名前を聞いた。
そして証拠の音声データを持って警察に向かった。彼女が三年かけて集めたものと合わせれば、捜査を動かすには十分だった。晴人は参考人として事情聴取を受け、全てを話した。
一ヶ月後、教授は逮捕された。
研究費横領と証拠隠滅の疑い。美月の死については「事故死」のまま記録は変わらなかったが、少なくとも動機を持つ人間が断罪された。それ以上でも、以下でもなかった。
晴人は結審の知らせを受けた夜、久しぶりに美月の夢を見た。
夢の中で彼女は橋の上に立っていた。冬のコートを着て、こちらを見ていた。晴人が「美月」と呼ぶと、彼女は穏やかに笑った。
「ありがとう」と彼女は言った。「やっと言えた」
晴人は目が覚めてから、泣いた。三年間、一度も泣けなかったのに、その夜だけは止まらなかった。
―
それから数日して、晴人はある事実を知った。
玲が「美月の声で電話をかけた」と言っていた件。晴人はずっと、玲が何らかの音声加工ソフトを使ったのだと思っていた。しかし玲に改めて確認すると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「電話なんて、かけていないけど」
「え?」
「SNSのメッセージは私。でも電話はしていない。非通知で話しかけるなんて、そんな回りくどいことしないわ。直接かければよかったんだから」
晴人は固まった。
「じゃあ……誰が」
玲は答えなかった。答えられなかった。
あの夜の電話。非通知の。「晴人くん、久しぶり」と言った声。「私、ずっとあなたの隣にいたよ」と言った声。
それは誰だったのか。今も、わからない。
ただ晴人には一つだけ、確かなことがある。
電話がなければ、彼はあの夜、動かなかった。
あの声があったから、全てが始まった。
―
春になった。
晴人は今日も、朝の電車の中で、ふとスマートフォンを見つめる。着信履歴に、何かが残っているような気がして。
もちろん、何もない。
でも時々、人混みの中で、背後から聞こえる気がする。
――あなたの声がきこえる




