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凜は立ち上がり、部屋を出た。もと来た廊下を少し戻って、「教授室」と書かれた扉をノックする。室内から返事が聴こえるのも待たずに、扉を開いた。
「失礼します」
室内の奥のデスクに向かって、ひとりの男性がこちらに背を向ける形で座っている。すぐに、彼はオフィスチェアごとぐるりと回転して、凜の方を向いた。額まで上がった頭髪に、人をあざ笑うかのように細くなった目、面長の顔がそれらを支えている。彼がこの研究室のボス、石山 満男教授だった。
「やあ、鳥須くん、早々に呼び出してすまないね。まあ、座りたまえ」
石山は室内の隅に置かれた椅子を指さして言う。研究室のメンバーが彼と話をする時に座れるようにと用意されたものだ。凜は彼に従って、椅子を隅から中央付近に引っ張り出し、石山と対面する形で座った。
「……昨日の集まりはどうだったかね?」
石山は自分が参加を勧めたコンパの感想について訊いてきた。
「どうだった――とは」
「何か収穫はあったかな」
「収穫といわれてもピンきませんが。ひとり知り合いはできましたね」
「知り合い? どんな人かね」
「他校の女の子でした」
「そうかそうか」
石山は何が嬉しいのか、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「ああいう場に行ってみるのも、悪くないものだろう。私は、君の研究に対する思いの強さを評価している。ただ、人との関わりを疎かにしていることは少し残念なところだ。この社会において、人間関係は必須科目だよ。その練習の意味でも、人が集まるような場に顔を出してみるのも、いいものだと思うね」
「はあ――」
凜は気のない返事をした。石山は本当に凜を思って、あの会に参加するように言ったのだろうか。いや――と凜は内心で思った。石山が心から人を気遣うような人間だとは思えない。むしろ、他人の心の内を見透かし、その裏をかこうとするような、したたかさのあるタイプだ。
「まさか、それを言うために、僕を呼び出したんですか?」
「いいや。ただの雑談だよ」
石山はさらりと言った。
「例のサンプルの件はどこまで進んだか聞いておきたくてね」
それは石山に解析を依頼されたサンプルだった。凜は答えた。
「一昨日までに、精製したDNA断片をPCRで増幅して、いまは冷凍保存しています。これから、解析を進めていく予定です」
先ほど遙に作成を頼んだバッファーは、その実験に用いるためのものだった。
「そうか。引き続き頼むよ」
「一体、あれは何のサンプルなんですか?」
凜は訊ねた。実は、サンプルは石山から渡されたものだったが、実のところその時彼はその詳細はあまり教えてくれなかったのである。
「ある被験者の細胞を採取したものだ」
「人間のですか」
「当然だよ」
「どんな素性の人なんです」
石山は宙を仰ぎ、ふーん、と唸った後で応えた。
「詳しいことはおいおい話していくことにして。とりあえず、いまはSTR配列が存在しているかどうかのみ、解析を進めてもらえないかな」
STR配列とは、石山が若い時に発見し、現在凜が研究テーマとしているDNA配列である。
生物は、その生物種によって、ほぼ共通したゲノムをもっている。ヒトにもヒト特有のゲノム配列があり、その差異は個体によって0.1%ほどしかない。ゲノムのDNA配列は、領域によって担っている機能が異なっており、その中には染色体分配に関わるセントロメアや、末端を構成するテロメアなど、特定の反復配列のパターンを示す領域もある。
石山たち研究グループは、そんなヒトのゲノムについて、日本人を対象に包括的に調査した。すると、ごくごくわずかなパーセンテージではあるが、一部の被験者のゲノム内に “GCAGTGCATAGTGATCAGTGCCCTA”という特殊な配列パターンが繰り返されていることを発見した。興味深いことに、その配列が確認された人のなかでも、その領域の長さはそれぞれ異なり、長い者もいれば、短い者もある。さらに、世界に目を向けてみると、地域によって割合のばらつきはあるものの、同パターンの配列をもつ人間が一定数存在することが明らかになった。
それは領域特異的な反復配列と認められ、石山の「石(Stone)」と共同研究者の双葉 繁の「双葉(Twin-leaves)」、さらに反復という意味の「Repetitive」の頭文字をつなげて、“STR配列”と名づけられた。ただ、それが生体内で一体どのような意味をもつのかまでは突き止められなかった。追加の実験で、その配列に局在するタンパク質が同定され、それらは“STR因子群”と名づけられたが、それらの因子の生体内でのはたらきも、いぜん不明なままなのである。
つまり、STR配列にSTR因子群が結合することによって起こる分子遺伝学的機構と、その生物学的意義について調査することが、ここ石山研究室の研究テーマの一つであり、また凜自身に与えられた課題でもあるのだ。
正直なところ、石山が今回のサンプルについて詳細を教えてくれないことを、凜は不満に思っていた。突然、解析を指示してきたにもかかわらず、実験の目的やサンプルに関する詳細は一切教えてくれない。学生を自分の意のままに操れるロボットとでも思っているのだろうか。彼は他人からどう思われようが気にしないが、自分が納得できないことを、無理強いされるのは嫌だった。
ただ、石山が詳細を教えないのにも、彼なりの考えがあってのことなのだろう。いまは不満をぐっとこらえて、彼に従うのが良いのかもしれない。答えは、その先に見えてくるはずだ。




