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夢の螺旋  作者: Tomokazu
第一章
6/21

2

 K大学は市内に大きな敷地を構える総合大学だ。

 新入生に向けたレクリエーションやクラブ勧誘でここしばらく、学内は慌ただしい様相を示していた。その時期が過ぎ、少しは落ち着いたものの、相変わらず朝のキャンパスは大勢の学生たちでにぎわっている。


 凜は他の学生たちにまじってキャンパスを歩き、理学研究棟へと足を踏み入れた。エレベーターに入って最上階である五階のボタンを押す。階につき、エレベーターを出て、廊下を少し歩くと、「ゲノム高次機能研究室」と表に書かれた部屋の前に来た。凜はそのスライド式の扉に手をかけて開いた。

 同じ院生である洲崎と軽く挨拶を交わして、デスクへと向かう。鞄を置くと、壁際のロッカーに向かい、中から自分の白衣を出して、着た。


 K大の理学研究科には、数多くの生物系の研究室がある。ゲノム高次機能研究室はその中の一つだった。


 生物の細胞の中にはDNAという二重らせん構造の高分子化合物が存在する。ゲノムとはその生物がもつ全DNA情報のことを指す。

 DNAの情報は親から子へと受け継がれていき、またさらにその子にも受け継がれてゆく。まさに生命の根幹といっても過言ではない物質だ。ゆえに、生体内では厳密な制御機構のもと、その存在が維持されている。細胞分裂の前には、複製が行われ同様のゲノムが各細胞に分配される。また遺伝子と呼ばれる領域は、メッセンジャーRNAという一本鎖の物質として転写され、その配列をもとにアミノ酸を繋ぎ合わせてタンパク質を造る翻訳が行われる。また、紫外線や外的損傷によって傷ついてしまった場合は、速やかに修復が行われる。このように、染色体DNAは生体内で安定して存在できるよう、さまざまな制御がなされている。

 ゲノム高次機能研究室では、そのようなゲノム、染色体DNAにかかわる制御機構について、さまざまな観点から解明を行っている。凜は院生として、ここの研究に従事しているのだ。


 デスクに戻って、鞄から筆記用具を出し、ダッシュボードから実験ノートを出した。昨日はコンパ参加のため実験は休んだものの、一昨日までにサンプルを調整し、いつでも続きが行える状態にしていた。これまでの実験の進度を確認し、本日行うべき作業について頭の中でイメージする。計画を立てているところで、後ろから声をかけられた。


「鳥須さん」


 可憐な女性の声だった。振り返ると間宮 遙が立っていた。利発そうな顔立ちにボーイッシュな髪型、眼鏡ごしに覗く瞳は、輝かしい未来を信じて疑わないように澄んでいる。

 K大学では、学生の生活支援と早いうちからの専門教育を掲げ、研究室への学部生の受け入れを推奨していた。学部の二年生である遙は、その制度を利用して、ここ石山研究室でアルバイトをしているのだった。


「おはようございます」


「ああ、おはよう」


「何かお手伝いすることはありますか?」


 遙に与えられた役目は、研究室に必要なものの準備や、研究を行う学生たちのサポート、言ってしまえば雑用である。そういった仕事を通じて、基礎スキルを身に着けてもらおうという目的だ。凜はデスクの上にあるメモ用紙を取り出して、今日の実験に必要な薬品の名前を書きだし、それを破いて遙に渡した。


「バッファーを作るから、必要になるこれらの材料をそろえて、調合して欲しい。あと、調合を終えたら、オートクレーブにかけて滅菌もしたいんだが、それも頼めるかな」


 このくらいのことは凜ひとりでも難なくできるが、彼も遙の立ち位置を理解していた。雑用を手伝ってもらうことが、彼女の経験の一つになるのなら、とも思う。


「もちろん大丈夫です」


「よろしく」


 話はこれで終わりかと思ったが、遙はなおもそこに立ったまま、さぞ面白そうににやにやとした笑みを浮かべている。どうしたのかな――と凜は思った。


「鳥須さん、昨日、R大の生物学科に通う女の子と会いませんでしたか」


「……? ああ、そういえば、そんな子がいたな」


 凜は、昨日のコンパで出会った女の子のことを思い出した。しかし、なぜそのことを遙が知っているのだろう。


「私とその子、もしかしたら同郷の幼馴染なのかもしれないんです」


「そうなのか」


「ええ。昨日、あの子から急に電話があって、超ハイテンションで喋ってこられたんです。私と同じ学科の人に会った、知り合いじゃないか――って。そこまで大騒ぎするようなことなんですかね……?」


 遙は少し呆れたように言って、それからその幼馴染の特徴について話した。昨日見た女性の記憶が鮮明になってゆく。同一人物で間違いはなさそうだ。確かに、彼女にはK大に通う幼馴染がいるとのことだった。しかし、それが遙のことだったとは。面白い偶然だ。


「『名前も聞いてなかった』って、すごく残念がってましたよ」


「確かに、ほとんど自己紹介はしなかったな。彼女の名は何というの?」


「愛稀です。日下 愛稀」


「そうか。じゃあ、その日下さんとやらに、間違いなかったと伝えておいてくれるかい」


「はい。鳥須さんの名前も、教えといていいですか?」


「ああ、もちろん」


 そんな話をしていたところに、「おい」と尖った声が聴こえた。見ると、この研究室を担当する助教の上島 孝平が仁王立ちになっていた。背は低くやや小太りの体型をしていて、声ばかりでなく眼鏡ごしに凜を見るまなざしも鋭い。


「そんなとこで、何を油売ってんだ。始業時刻は過ぎてんだぞ」


 室内の壁に掛けられた時計の針は、十時過ぎを示している。研究室では、稼働は十時からと定められていた。


「少し雑談をしていただけですよ」


 上島に対し、凜はそう答えた。上島はむっとした顔で凜をにらんだ。


「それじゃあ、試薬を用意してきますね」


 遙は気まずそうに言って、そそくさとその場を去っていった。


「ああ、よろしく頼む」


 と、凜はその背中に言って、改めて上島を見る。彼は相変わらず不機嫌そうな表情を浮かべていた。


「まったく、教授が甘やかすから、研究室全体の規律が疎かになるんだ……」


 と小言を言ってくる。助教といえば、教授と学生たちの板挟みになる、いわば中間管理職的な存在だ。彼なりに、研究室内の有り様にストレスを感じているところはあるのだろう。

 とはいえ、そこまで杓子定規にならなくても良いのでは――と、凜は思わなくもなかった。セミナー参加や実験の準備、解析の待ち時間といった都合もあり、必ずしも定刻通りに作業がはじめられるとは限らないからだ。現に、これから実験をはじめるにはバッファーの調整が必要不可欠であり、遙にはそれを依頼していたにすぎない。しばし雑談もしてしまったが、このくらいは許容範囲内だろう。

 以前より、上島はどうにも自分に対して当たりが強いところがあるようである。しかし。凜はあまり気にすることはなかった。他人にあまり関心がないのだ。


「それで、僕に何か用ですか」


 凜は改めて上島に言った。上島はフン、と鼻で息をついて、


「石山教授がお呼びだ。早く行け」


 と返した。

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