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夢の螺旋  作者: Tomokazu
プロローグ
4/18

2

「……眠っているの?」


 という問いかけに、鳥須 凜は目を開いた。


 彼はデスクチェアの背もたれに背中を預けるようにして、しばらく目を瞑っていた。目の前には、学習机の上に大学の過去問題集とノートが開かれたままで置かれている。傍らに、大きな瞳でしっかりと彼を見て、口元をほころばせる女性の姿があった。


「寝てないですよ」

 と彼は答えた。


「少し疲れて休んでいただけです」


「えー、本当に?」


 女性はいたずらっぽく言った。凜は観念したようにふたたび目を閉じた。


「すいません。少しまどろんでしまっていたみたいです」


 時間にして、一分も経っていないだろう。しかしそれでも、眠りに誘われていたことは間違いなかった。


「やっぱり。誤魔化したって、お見通しなんだから」


「おみそれしました。夢まで見ていましたよ」


「――夢? どんな?」


「よく覚えていません。ただ、荒れ狂う海の中を、航海する夢だったような」


 現に、覚醒と同時に夢の内容などほとんど忘れてしまった。しかし、ほんの一瞬まどろんだにしては、やけにリアルで長い夢だったような気がする。


「君自身が航海をしていたの?」


「いや、夢の中の自分は実は僕じゃない。他の誰かになり切っていたようです。周りにいる人たちの格好も、現代っぽくはないというか、どこか古風な感じがありました」


「――ふぅん。もしかすると、それは君の前世の記憶だったのかもしれないね」


「前世だなんて」


 凜はまるで熱のない口調で呟いた後、ニヤリと笑って彩を見た。


「彩さんも冗談を言うことがあるんですね」


 凜は自分のことをリアリストだと思っていた。霊や前世などという非現実的なものは信用しない。机の上に開かれている参考書も、府内の国立大学の理系学部の過去問集だった。世界の仕組みを論理的に解き明かす理学部への進学を希望している。


 目の前にいる女性は、志望校に通う先輩だった。武崎 彩、それが彼女の名前である。近所に住む3つ年上のお姉さんで、周りの人たちからも才色兼備と評判高い。凜は以前より彼女に憧れを抱いていた。自分の適正上、理系分野への進学は当然のことであるように思う。だが、実際のところ、全国でも指折りの学力を誇るK大学を志望したのは、彩の存在が大きい。高嶺の花と世間でも評判の彼女と肩を並べられるだけの存在になりたい――そう彼は願っていた。そして、できることなら――。

 それで、彼は彩に半ば強引に頼み込んで、家庭教師を務めてもらっているというわけである。


「冗談なんかじゃないわ」


 彩は眉を少しひそめて、凜に言ってきた。


「前世なんてものが、本当にあるとでも?」


「可能性はゼロじゃないと思う」


「まさか、ナンセンスですよ」


「そんなことないわ。科学で証明できないことなんて、この世にいくらでもあるのよ」


 彩も譲らなかった。


「ちょっと頭の体操がてら、お話しない?」


「お話、どんな……?」


「非科学的なものがこの世に存在するかもしれないって話」


 他の人に言われていたら、くだらないと拒否していたことだろう。だが、彩には人を惹きつける不思議な力があった。凜は彼女の魅力に圧されて、つい話に付き合ってしまう。


「私たちヒトの身体は、約何十兆個もの細胞で構成されている。細胞のひとつひとつには核があって、その中には染色体DNAが存在する。DNAにはAアデニンGグアニンCシトシンTチミンという4種類の塩基があって、AはT、GはCと水素結合を起こすことで、二重らせん構造をとっているわ」


「そして、それぞれの細胞核に含まれるDNAの総数は60億塩基対というわけですね」


 それは、高校生物の学習分野であり、遺伝学の基礎ともいえる内容である。今しがた解いていたのも、その分野に関わる問題だった。


「じゃあ、ここで質問。DNAにはどんなはたらきがある?」


「色々ありますが、まずは自身のコピーを作り出す複製機構。ヒストンタンパクと結合して染色体構造をとる機構。そして、タンパク質の設計図となる遺伝子領域。染色体を父母で半数ずつ子孫に分け与え、DNA情報を継承してゆく生殖能力……」


「そうね。大学生になると、染色体の凝集度合いや、核内局在、制御遺伝子や組み換え……そんな内容にも触れることになるけれど、細かいことは省きましょう。とにかく、DNAは生命が存在するうえで重要なはたらきをいくつももっている。故に、生命の根幹なんて言い方をされることもあるわ」


「『利己的な遺伝子』ですね」


 “利己的な遺伝子”とは、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した生物理論である。端的にいえば、生命の本質はDNAであり、生物はその乗り物にすぎないという説だ。同名のタイトルの著作も発表され、ベストセラーになった。彩は微笑んでひとつ頷いた。


「このように、科学的な解析を通じて、DNAにまつわる生物的機構はこれだけたくさんあることが実証されているわ。でも、もっと考えていくと、こういう問題にぶち当たる。なぜ、DNAがそのようなはたらきを担うことになったのか――」


「どういうことですか?」


「例えば、DNAが二重らせん構造を取るようになったのはなぜ? 塩基が4種類で構成されている意味は? 遺伝子領域がどうしてタンパク質の設計図になったの? そもそもDNAそのものが親から子へと受け継がれ、生命の根幹となった理由は何?」


「それはさまざまな化学物質がある中で、生命としての機能を担うのに相応しい性質をもつ物質がDNAだったからでは……」


「でもそれは飽くまでも結果論でしょう? 今の科学は“Howどうやって”を解明するのは上手いけれど、“Whyなぜ”を解明するのは難しいわ。ダーウィンの進化論のような偶然説に落ち着くのが関の山。でも、物事には因果応報、つまり原因があって結果がある。その原因から目を逸らしていては、本当に世界の謎を解き明かしたことにはならないと思うの」


 この時点で、凜は彩にすっかり圧倒されていた。普段クールな彼女が、ここまで持論を熱くなって語るなど、想像もできなかったのである。彩の意外な一面に驚くとともに、凜は彼女のことをもっと知りたいと思うようにもなった。


「じゃあ彩さんは、なぜDNAがそのような役割をもつようになったのだと思いますか?」


 今度は凜の方から質問してみる。そうね――と彩はしばし考えてから答えた。


「例えば、DNAを生命の本質にしようという意志が存在していたとしたら?」


「意志ですか?」


 凜は素っ頓狂な声を出した。あまりに予想から外れた回答だ。


「私たちが存在するこの世界とは別の世界が存在する。向こうの世界では、こちらの世界を構成するあらゆるものが存在している。物質だけじゃなく、感情や心といった類のものまでね。そして、互いの世界はリンクしていて、時折この世界に指令を出すの。『DNAを本質とした生命を創りだせ』という風にね」


「そんなバカな……!」


 さすがに凜は音をあげた。相手がいくら彩でも、これ以上はついていけないと思った。


「可能性としては、ない話でもないわ」


「可能性だけで話を進めるのも違うとは思いますが……」


「言いたかったのは、科学は万能じゃないってこと。世の中の仕組みを解き明かすためには、未知のものを想像する力も大切じゃないかと思うの。あるいは、私たちの想像も及ばないところに真理はあるのかもね。いずれにしても、考え続けないことには、そこにはたどり着けない。今日はこの程度だけれど。でも、君が私の大学に入ってきたら、もっと深いところまで話をしたいわ」


「絶対に入ってみせます」


 凜は力強く応えた。彩をしっかりと見て続ける。


「ですから、待っていてください。あなたと同じ場所へ、僕も必ず行きます」


 凜は基本的に色々なことへの関心が薄い性格だった。学校で話題になっている映画やドラマ、動画配信者などの話題にも何ら興味がない。だが、その一方で、自分がこうと決めたことに対しては、何が何でもそれを実現させようとするバイタリティがあった。明確な愛の言葉ではなくとも、いましがたの凜の発言は告白以外の何物でもなかった。彩は彼の気持ちを理解するかのように、にっこりと微笑んでいた。

 ふいに、眼前にある彩の顔がこちらに向かって動いたように思った。その刹那、彩の唇は凜のそれをとらえていた。唇同士が触れ合っている時間はほんの数秒であっただろう。しかし凜にとってそれは一瞬の出来事のようであり、果てしないスローモーションの中にいるようでもあった。


 ゆっくりと彩は凜から唇を離し、恍惚とした表情で言った。


「今はここまででおしまい。続きは、あなたが入学してから。じっくりと語らいましょう」


 そんな彼女の言葉が耳を素通りしてしまうほど、凜は呆然となっていた。ただ、胸の内にある彩の存在がさらに大きくなっている。さっきは荒唐無稽だと感じた彩の話さえ、身をもって感じられ、まるでそれが真実であるかのように思えてくる。


 ふいに、今しがた夢で見た風景を思い出した。嵐の大海原を船で往く光景。実は、彼はここのところ、何度も同じ夢を見ているのだった。そして、“前世”というフレイズを彩から聞いた時、凜はぽっかりと空いていたパズルのピースがかちりとはまったような気がした。もっとも、夢の内容が本当に前世の記憶だったのかは分からない。だが、そうでなかったとしても、太古の昔より連綿と続いてきた染色体DNAからのメッセージだという可能性もある。

 この先、彩とそんな世界の謎について、語り合える日が来るかもしれない。

 何にせよ、可能性はゼロではないのだ。

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