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愛稀のアパートの最寄り駅で降りて、凜はすっかり暗くなった通りを速足で歩いた。行き方はおおかた覚えている。
先ほどのダイニングバーを出たところで、彼女に「今からそっちに向かう」とメッセージを送った。ところが、返信はなく、既読表示すらつかない。
やはり、何か良くないことが彼女の身に起こった気がしてならない。
目的地にたどり着いた。階段を上って、彼女の部屋の前に立ちドアホンを鳴らす。返事はない。もう一度鳴らしたが、同じことだった。ドアノブに手をかけてみる。手首を捻って扉を引いてみと、ギィィィ、とそれは音を立てて開いた。中を覗くと、日もすっかり暮れているというのに、部屋の中は電気すらついておらず、真っ暗だった。
「愛稀、いるのか?」
彼女を呼んだが返事はない。
「僕だ、凜だ。入るぞ」
玄関で靴を脱ぎ、部屋に上がった。暗がりの中、左手のがらんとした部屋の奥の角に、こちらに背を向ける格好でいる人の姿を発見した。
「愛稀か?」
凜は電気のスイッチを見つけて、それを押した。部屋の電気がつき、突然まぶしくなる。再び部屋の角を見やると、ひとりの少女が手を胸のあたりで組んで、うずくまっている。垂れた後ろ髪のせいで顔は見えないが、背格好からして愛稀に間違いはなさそうだ。
「おい、何をしてるんだ」
凜は愛稀の肩に手を当て、ゆすった。
「へ……?」
愛稀は凜を振り向き、呆けた声をあげた。茫然としたその表情は、どこか怯えているようであり、大きな瞳に宿る光は明らかに淀んでいた。
「凜くん……? どうしてここに」
「君が心配で来たんだ。一体何があった」
愛稀は何も答えず、ただ凜から顔を背けた。拒絶しているふうではなく、彼を注視する気力さえないような雰囲気だ。不安げな目を宙に落としている。
「何をしているんだ」
「お祈りを、してたの」
「お祈り……?」
「そう。世界の、真理を、司る、偉大なものに……」
何かに憑りつかれたような、抑揚のない声だった。
「でも、ぜんぜんダメなの。苦しいの。きっと、こんなところじゃ、祈っても届かないんだ。もっと願いを聞いてくれるところに行かなきゃ……!」
おもむろに愛稀は立ち上がり、部屋の外へと出ていこうと歩きだした。
「ちょっと待て」
凜は彼女の両肩を掴んで、制止しようとした。
「いやだ、離して!」
愛稀は凜に抵抗する。
「君、ちょっとおかしいぞ。落ち着けよ」
と、凜は語気を強める。愛稀は大声をあげた。
「邪魔しないで!!」
刹那、愛稀の頭髪、特に頭頂部辺りがぞわっ、と逆立った……ような気がした。その瞬間――。
――ドン、という衝撃が腹の底を突き上げた。気づいたときには、凜の身体は宙を舞っていた。刹那、背中に何かに強くぶつかったような衝撃があり、すぐ近くで何かが割れたような破裂音が鼓膜を震わせる。
突然の出来事に、何が起こったのか理解できない。凜はその場に崩れ落ちたまま、呆気にとられた顔で愛稀を見上げた。愛稀自身もいま何が起こったのか分からないふうで、怯えた顔で凜の方を見つめていたが、やがて「わあああ!」と声をあげて、玄関の方へと走り、外へと飛び出していった。
凜は、よろよろと立ち上がった。今さらになって、じんわりとした痛みを背中に感じる。
(何が起こったんだ――)
わが身に起こった現象の説明がつかない。部屋の中には小物が散乱し、椅子や机がひっくり返っていた。後ろを振り返ると、壁が無惨にも亀裂を走らせている。古びた薄い木版とはいえ、よほどの衝撃だったことを思わせた。
念のため、壁のヒビと、物が散乱した部屋の様子をスマホのカメラで撮った。しかし、この先のことについては、ひとりでは考えがまとまりそうにない。
誰か相談できる相手は――。
思い当たる人間はひとりしかいなかった。彼なら、既成概念にとらわれず話を聞いてくれるかもしれない。
だが、自分の身に起こった出来事が、他人からみてあまりに荒唐無稽であることは、凜自身よく分かっていた。ひょっとしたら、話したところで笑い飛ばされて終わりかもしれない。だが、それでも、一縷の望みをかけるしかない。




