第8話 佳きに計らえ
「え?」
僕は言葉をなくした。
どういうことだ。混乱する。
昨夜、しおりは僕に何かを伝えようとしていた。
あれは、告白と呼んでもいいものだったはずだ。
少なくとも僕には、そう思えた。
そして僕たちは、確かにキスをした。あれは、確かに、した。
じゃあ、今ここで彼女が見せているこの温度差はなんだ?
熱したグラスに注いだ冷えたビールみたいに、思考は一瞬でくもり、泡立つ。それから一気に静まった。
僕がその場で固まっている間、他のメンバーたちはいつも通りに感想戦を繰り広げ、ホテルに向かってぞろぞろ歩いていった。
まるで僕たちだけが、静止したフレームの中に置き去りにされたようだった。
あたりは夕暮れ。光はすっかり役割を終え、街並みに灰色のフィルターをかけはじめていた。
風が少し冷たくなり、猫たちが物陰に退散していく時間帯。
「俺、また何かした?」
何でもない風を装って訊く。声はどこか頼りない。
「昨日、君、酔ってたでしょ?」
しおりがようやく口を開く。
あのミルキーボイスが、感情を押し殺している。
「酔ってキスしたでしょ? 私は勇気を出して、あおいちゃんと楽しそうにしてる君のところに行ったんだよ。ものすごい覚悟で本当の気持ちを伝えたんだよ? でも君は、酔った勢いで私にキスをした。」
声はやわらかいのに、逃げ場がない。
甘くて切ない声に、今回は棘があった。
それが余計に痛む。
――いや、酔ってたのはお互い様じゃなかったか?
バーのカウンターで、彼女のグラスが空になるのを何度も見た。
それでも、何も言わなかった。
たぶん言ってはいけない気がした。
「酔った勢いでキスするような君は好きじゃない。嫌い。」
そのひと言は、冬のプールみたいに冷たくて深い。
言い放った声は、僕の胸の奥底に残ったままだった。
どうすればよかったというのか?
あの状況でキスをしない男なんて、この星にいるのか?
いや、君も酔ってたじゃないか。
大胆な行動ができたのは、そのせいじゃなかったのか?
でも、たぶん、そういうことじゃない。
思考が渦を巻く中で、ふと昔の先輩の言葉を思い出す。
女性にやたらモテる男だった。外見より言葉選びの巧さで勝率を上げていた。
「いいか、女が全然理解できない理由で感情をぶつけてきた時は、男にできる行動は一つしかない。とにかく『謝れ』。それから『寄り添え』。」
いささか女性を単純化した考え方かもしれない。
でも、今の僕に他の明るい未来は見えない。
「ごめん。確かに酔った勢いですることじゃなかった。」
「そうだよ」
「僕は、寒い夜にストーブの前を独占する猫みたいに、不躾で愚鈍だった。本当にごめん。」
「ぷ」
しおりが吹き出した。
「あは、それ何? 村上春樹の真似?」
小さな、でもはっきりした笑い声だった。
「…バカみたい」
彼女はそうつぶやいて、僕の胸に額を押しつけた。
そのまま、そっと顔を上げて、唇を重ねる。
それは、昨夜の情熱的なものとも、責められた棘のあるものとも違う。
静かで、優しくて、どこか諦めと許しが入り混じったキスだった。
「今日は酔ってないよ」
僕は、小さな声で言った。
「うむ。佳きに計らえ」
しおりが照れくさそうに笑う。
僕も、ようやく息を吐いて、彼女の背中に腕を回した。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日から、また教習所の平坦な日々が戻ってきた。
午前中の実車を終えた僕は、午後の学科まで時間がぽっかり空いてしまった。
しおりは入れ替わりで実車に出ていった。
ベンチに座って、新しい煙草の箱からフィルムを剥がしていると、何の前触れもなく――あおいが僕の横にすっと腰を下ろした。
例によって猫のような静けさだった。
身体をぴったり寄せてきたかと思うと、すぐにふっと距離を取る。
「やめとこ。くっついたらアホが移るわ。」
京都弁だった。
普段ほとんど標準語なのに、その一言が妙に耳に残った。
言っているのは明らかに、あのバーの夜のことだった。
カウンターで10年来の恋人のように過ごしていたのに、途中で別の女の子と出ていって、そのまま戻らなかった――それが、すべてだった。
謝ろうか、茶化そうか、一瞬迷う。
でも今回は、先輩の教えを無視した。
「俺がアホなら、お前は何や?ボケか?マヌケか?」
「ひっど~い!」
あおいは明るく笑った。
「確かにマヌケな役回りだけど、私をマヌケにした張本人がそれ言う!?」
「まあ、仕方ないね。私は彼氏いるし。頑張って!」
その言葉にどう反応するのが正解か、答えを探していると、あおいから反撃。
「でも、しおりちゃんも彼氏いるんだよね?(笑)
まあ、…せいぜい頑張れ(笑)あの夜のことは黙っといてやるから!」
そう言い残して、あおいはケラケラ笑い声を風に乗せて去っていった。
そうだった。
僕はすっかり――完全に――「しおりの彼氏」の存在を忘れていたのだ。
あの話を聞いたのは、四日前の大部屋飲み会の席だった。
しおりが何気なく言った「彼氏がね」という言葉に、わずかに反応し、それきり意識の底に沈めてしまった。
いや、沈めたというより、積極的に忘れようとしたのかもしれない。
都合の悪い現実には、そうやって無関心でいるのが僕の癖だった。
目を逸らせば、なかったことになると思っていた。なってほしかった。
しおりがどこまで本気なのか、僕には分からない。
この前のキスも、昨日の険しい言葉も、感情の波に乗った瞬間的なものかもしれない。
仮に恋人がいたとして、僕たちのこの数日間は何だったのか?
気まぐれか。一時の逃避か。それとも……勘違いだったのか?
……と、そこまで考えて、僕は疲れた。
思考が輪を描きすぎて、脳の中でタイヤが空転していた。
少なくとも、しおりは僕に微笑んで、キスを受け入れ、「佳きに計らえ」と冗談めかして言った。
それがすべてじゃないか――と、誰かが耳元で囁いたような気がした。
今の関係がこの合宿の間だけでも続くなら、それでいい。
未来に借金をしてでも、今はこの日々を満喫したかった。
「まあ、いいか。」
僕は、ひとつ呼吸を吐いて、心のどこかで小さく頷いた。




