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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
8/11

第8話 佳きに計らえ

「え?」


僕は言葉をなくした。

どういうことだ。混乱する。


昨夜、しおりは僕に何かを伝えようとしていた。

あれは、告白と呼んでもいいものだったはずだ。

少なくとも僕には、そう思えた。

そして僕たちは、確かにキスをした。あれは、確かに、した。


じゃあ、今ここで彼女が見せているこの温度差はなんだ?

熱したグラスに注いだ冷えたビールみたいに、思考は一瞬でくもり、泡立つ。それから一気に静まった。


僕がその場で固まっている間、他のメンバーたちはいつも通りに感想戦を繰り広げ、ホテルに向かってぞろぞろ歩いていった。

まるで僕たちだけが、静止したフレームの中に置き去りにされたようだった。


あたりは夕暮れ。光はすっかり役割を終え、街並みに灰色のフィルターをかけはじめていた。

風が少し冷たくなり、猫たちが物陰に退散していく時間帯。


「俺、また何かした?」


何でもない風を装って訊く。声はどこか頼りない。


「昨日、君、酔ってたでしょ?」


しおりがようやく口を開く。

あのミルキーボイスが、感情を押し殺している。


「酔ってキスしたでしょ? 私は勇気を出して、あおいちゃんと楽しそうにしてる君のところに行ったんだよ。ものすごい覚悟で本当の気持ちを伝えたんだよ? でも君は、酔った勢いで私にキスをした。」


声はやわらかいのに、逃げ場がない。

甘くて切ない声に、今回は棘があった。

それが余計に痛む。


――いや、酔ってたのはお互い様じゃなかったか?

バーのカウンターで、彼女のグラスが空になるのを何度も見た。

それでも、何も言わなかった。

たぶん言ってはいけない気がした。


「酔った勢いでキスするような君は好きじゃない。嫌い。」


そのひと言は、冬のプールみたいに冷たくて深い。

言い放った声は、僕の胸の奥底に残ったままだった。


どうすればよかったというのか?

あの状況でキスをしない男なんて、この星にいるのか?

いや、君も酔ってたじゃないか。

大胆な行動ができたのは、そのせいじゃなかったのか?


でも、たぶん、そういうことじゃない。


思考が渦を巻く中で、ふと昔の先輩の言葉を思い出す。

女性にやたらモテる男だった。外見より言葉選びの巧さで勝率を上げていた。


「いいか、女が全然理解できない理由で感情をぶつけてきた時は、男にできる行動は一つしかない。とにかく『謝れ』。それから『寄り添え』。」


いささか女性を単純化した考え方かもしれない。

でも、今の僕に他の明るい未来は見えない。


「ごめん。確かに酔った勢いですることじゃなかった。」


「そうだよ」


「僕は、寒い夜にストーブの前を独占する猫みたいに、不躾で愚鈍だった。本当にごめん。」


「ぷ」


しおりが吹き出した。


「あは、それ何? 村上春樹の真似?」


小さな、でもはっきりした笑い声だった。


「…バカみたい」


彼女はそうつぶやいて、僕の胸に額を押しつけた。

そのまま、そっと顔を上げて、唇を重ねる。

それは、昨夜の情熱的なものとも、責められた棘のあるものとも違う。

静かで、優しくて、どこか諦めと許しが入り混じったキスだった。


「今日は酔ってないよ」


僕は、小さな声で言った。


「うむ。佳きに計らえ」


しおりが照れくさそうに笑う。

僕も、ようやく息を吐いて、彼女の背中に腕を回した。


◇    ◇    ◇    ◇


翌日から、また教習所の平坦な日々が戻ってきた。

午前中の実車を終えた僕は、午後の学科まで時間がぽっかり空いてしまった。

しおりは入れ替わりで実車に出ていった。

ベンチに座って、新しい煙草の箱からフィルムを剥がしていると、何の前触れもなく――あおいが僕の横にすっと腰を下ろした。

例によって猫のような静けさだった。

身体をぴったり寄せてきたかと思うと、すぐにふっと距離を取る。


「やめとこ。くっついたらアホが移るわ。」


京都弁だった。

普段ほとんど標準語なのに、その一言が妙に耳に残った。

言っているのは明らかに、あのバーの夜のことだった。

カウンターで10年来の恋人のように過ごしていたのに、途中で別の女の子と出ていって、そのまま戻らなかった――それが、すべてだった。


謝ろうか、茶化そうか、一瞬迷う。

でも今回は、先輩の教えを無視した。


「俺がアホなら、お前は何や?ボケか?マヌケか?」


「ひっど~い!」


あおいは明るく笑った。


「確かにマヌケな役回りだけど、私をマヌケにした張本人がそれ言う!?」


「まあ、仕方ないね。私は彼氏いるし。頑張って!」


その言葉にどう反応するのが正解か、答えを探していると、あおいから反撃。


「でも、しおりちゃんも彼氏いるんだよね?(笑)

まあ、…せいぜい頑張れ(笑)あの夜のことは黙っといてやるから!」


そう言い残して、あおいはケラケラ笑い声を風に乗せて去っていった。


そうだった。

僕はすっかり――完全に――「しおりの彼氏」の存在を忘れていたのだ。


あの話を聞いたのは、四日前の大部屋飲み会の席だった。

しおりが何気なく言った「彼氏がね」という言葉に、わずかに反応し、それきり意識の底に沈めてしまった。

いや、沈めたというより、積極的に忘れようとしたのかもしれない。

都合の悪い現実には、そうやって無関心でいるのが僕の癖だった。

目を逸らせば、なかったことになると思っていた。なってほしかった。


しおりがどこまで本気なのか、僕には分からない。

この前のキスも、昨日の険しい言葉も、感情の波に乗った瞬間的なものかもしれない。


仮に恋人がいたとして、僕たちのこの数日間は何だったのか?

気まぐれか。一時の逃避か。それとも……勘違いだったのか?


……と、そこまで考えて、僕は疲れた。

思考が輪を描きすぎて、脳の中でタイヤが空転していた。


少なくとも、しおりは僕に微笑んで、キスを受け入れ、「佳きに計らえ」と冗談めかして言った。

それがすべてじゃないか――と、誰かが耳元で囁いたような気がした。


今の関係がこの合宿の間だけでも続くなら、それでいい。

未来に借金をしてでも、今はこの日々を満喫したかった。


「まあ、いいか。」


僕は、ひとつ呼吸を吐いて、心のどこかで小さく頷いた。

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