第5話 昼下がりの猫と告白
「それで、そのとき彼氏がね……」
その一言が、予告なしにテーブルの上に落ちてきた氷のかけらのようだった。
透明で小さな破片なのに、不思議なほど冷たかった。
恒例になった夜の大部屋飲み会は、その夜も賑やかだった。
湿った畳の匂い。安い缶ビールのプルタブが開く音。コンビニ袋からはみ出したスナック菓子。
消えかけた蛍光灯が時折ちらつき、天井近くに煙草の煙がうっすら層をなす。
笑い声がその間を縫うように跳ねていた。
しおりが話していたのは、高校最後の文化祭のこと。
自分でデザインした衣装でファッションショーをやったという。
いつもより少し饒舌で、生き生きとしていた。
みんなが「へえ、そんなことやったんだ」と感心して耳を傾け、僕も当然その輪の中にいた。
ただ、その“彼氏”という単語は、ごく自然に、しかし僕にはあまりに唐突に現れた。
しかもそれを告げた彼女の声が、あの胸の奥をくすぐるような声だったからこそ、余計に効いた。
真綿のようにやさしく、でも容赦なく突き刺さってきた。
「へえ、彼氏いるんやね」
僕は煙草に火を着けながら、何とか声を平静に保って訊いた。
その瞬間、彼女の表情がほんのわずかに強ばった。目が遠くを見た気がした。
「しまった」と思った顔だったのかもしれない。
僕は話題に熱を加えぬよう、さりげなく自分の文化祭の自主映画の話に移した。
演出の工夫や苦労した編集のことなどを話すと、皆が興味を持ってくれ、しおりも頷きながら笑っていた。
酒のまわりは会話の輪郭を曖昧にし、やがて誰がどんな話をしていたのかも分からなくなった。
僕は彼女の隣で相槌を打ちながら、自分がうまく傷をなぞって消したような気持ちになっていた。
でも、布団に入っても、頭の中は彼女の“彼氏”で埋め尽くされていた。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日の教習は、いつも以上にぼんやりしていた。
信号の数も標識の意味もどうでもよくなる。
助手席の教官が鼻を鳴らして眠りに落ちていくのを横目に、僕はなかば自動運転のようにコースをなぞった。
午後、待合所のベンチでひとり缶コーヒーを飲んでいた。
ぬるくて甘いコーヒーは眠気覚ましにもならず、煙草の煙も喉にイガイガと絡みつく。
そんな僕の隣に、猫が体を擦り寄せるようにあおいが腰を下ろした。
昼下がりの光の中で、彼女の髪がふわりと揺れ、シャンプーの匂いが淡く漂う。
ぴたりと身体を寄せてくる感じは、繊細さと図々しさが同居していた。
この頃やけにあおいの距離が近い。
昼の個人授業以外でも、気がつけば近くにいる。
折れそうに細く儚いしおりとは、全く違うタイプ。
あどけない顔立ちに健康的な体つき、陽気で人懐っこく、会話には常にぎりぎり下品にならない下ネタがスパイスとして混ざる。
合コンなら一番人気になる、そんな子。
彼女はイタズラっぽく僕の顔を覗き込んで、言った。
「ショックだったんでしょ?」
「ん?何が?」
「しおりちゃんに彼氏がいる話。動揺してたもんね」
あおいはケラケラと笑う。
笑いながらも、その目は意外なほど鋭かった。
「いや、別に。いるやろ、そら。あんだけ可愛い子なんやし」
僕はなるべく軽く言ったつもりだったが、あおいはその言葉の奥を見透かすように、さらに身体を近づけて、目を細めた。
「中田がしおりちゃんに夢中なの、みんなにバレバレだよ?」
あっけらかんとした明るさでそう言われると、反論もできなかった。
僕が次に口にする言葉を探していると、あおいはさらに距離を詰めてきて、声を少しだけ低くした。
「私が、慰めてあげようか?」
そのとき、世界が少しだけゆがんだ。
春の光がふと止まり、空気の色がわずかに変わったような気がした。
彼女の笑顔が一瞬だけ固く見え、その目は冗談のようでもあり、本気のようでもあった。
僕が考えあぐねているうちに、あおいはスカートの裾をさっと払って立ち上がった。
「ほら、次の教習始まるし!」
と、いつものようにケラケラ笑いながら廊下へ消えていった。
残された僕は、ベンチの背もたれに身体を預けて、しばらく天井のスピーカーから流れるラジオの天気予報をぼんやり聞いていた。
晴れ、と言っていた。
宮崎の2月は、いつまでも春の予感を引きずっていた。
そして僕は、しおりのいないベンチに、もうしばらく座り続けていた。




