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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
10/11

第10話 選ばれなかった午後

教習所の教官たちは、まるで生乾きの雑巾のように、今日も変わらず淡々としていた。

教習そのものも例によって退屈で、声を張ることも、感情を動かすこともない。

それでも僕は、それなりに順調にカリキュラムをこなしていた。


僕としおりは無事に仮免許試験を通過し、晴れて路上教習のステージに突入していた。

とはいえ、教習所の周囲にあるのは、交通量の多い大通りや複雑な交差点といった都市的スリルとは無縁の風景ばかりで、農道と信号、そしてときどき現れる軽トラくらいしかない。

つまり、相変わらず眠気との闘いである。


一方、あおいとりかこは……不合格だった。

あおいはケラケラと笑い、りかこは「ウチの車、ブレーキ利き悪かったわ」と、例によって意味不明な責任転嫁をしていた。

りかこの運動神経も、どうやら運転向きではなかったらしい。

ともかく、彼女たちの合宿延長は、この時点で確定した。


そんな中、週に一度の休暇日がまた巡ってきた。

本当なら、しおりとどこかに出かけたかった。

けれどその日、僕には大学の入学手続きがあった。


とんぼ返りで京都の大学まで行き、また宮崎まで飛行機で戻ってくる。

卒業前の高校生としては、やや過剰な移動計画だった。


安くはない出費だったが、進学がかかっているとあって、親は快く出してくれた。


「空港まで送るよ」


と、しおりは言った。


「え、朝から?」


「うん。だって便が何時になるか、空港行かないと分かんないでしょ?」


彼女の提案は理にかなっていた。

地方空港の事情など知る由もなかったが、便数が限られている以上、出たとこ勝負になるのは間違いない。


朝、僕たちは並んで空港に向かった。

飛行機なんてすぐに乗れるものではない、という僕の固定観念とは裏腹に、空港はがらんとしていて、どこか地方都市の文化会館を思わせた。

ああ、こういう場所では、パスポートより先に新聞配達の集金袋の方が似合うのだ。


僕たちはロビーの案内板で便を確認し、たぶんこれかな、という便を選んだ。

ゲートの前で、別れのキスをする。


手荷物はなかった。

尻ポケットにくしゃっと突っ込んだペーパーバックが一冊あるだけだ。


『グレート・ギャツビィ』。

タイトルの似合う季節じゃない。春のように穏やかな冬の朝。

恋人とキスをして、手ぶらで飛行機に乗り、ペーパーバックを読む。

ずいぶん旅慣れた主人公のようだが、実際には、これがまだ三度目の搭乗だった。


一度目は、家族旅行で沖縄に行ったとき。

人生で初めての飛行機だった。揺れはしなかったが、耳がずっと詰まっていて、着陸した頃には、自分の鼓動しか聞こえなかった。


二度目が、ここへ来る便。

そして今回が三度目。

まだ『旅慣れた』には程遠い。


『グレート・ギャツビィ』。

場違いなくらい気取った選書ではあるが、こんな時こそギャツビィだと思った。

愛と野望、そして不確かさ。

ある意味、しおりとの関係も、この小説のようなものだ。

真実は、誰にも分からない。


飛行機の座席に腰を下ろし、シートベルトを締めると、僕はその紙の海に意識を沈めた。


大阪に着いた僕は、伊丹空港から京都駅行きの空港バスに乗り、地下鉄に乗り換えて今出川駅へ向かった。


入学手続きは、肩透かしのように呆気なく終わった。


同じ高校からこの大学に進む友達に会い、僕は合宿免許で宮崎にいること、そして素敵な女の子と出会って、かなりいい感じであることを話した。


「何しに行ってんねん?」


笑いながらそう言う友人の顔を見て、僕は苦笑いで応えた。


「ええやん、別に。教習だけやったらおもんないし」


「不届き者〜! 不純異性交遊〜!」


と連呼され、僕はくだらなさに笑いながらも、心ここにあらずだった。

早く、しおりのところに戻りたかった。


予定より少し早めに空港へ着いた。

空いていたロビーで紙コップのコーヒーを買い、ギャツビィとデイジィの世界に戻ろうとしたが、心がふわふわして文字が頭に入ってこない。


やがて搭乗のアナウンスが流れ、僕は再び空へ。


宮崎空港に到着し、荷物のない僕はそのままロビーに出て、しおりの姿を探した。


……いなかった。


10分、20分、30分。

どれだけ待っても現れない。

僕は諦めて空港バスに乗り、ひとりでホテルに戻った。


ホテルに戻っても、しおりはおろか、誰の姿もなかった。

しおりも、あおいも、りかこも、ヤンキーたちでさえも。

世界が一斉に、僕から退避したようだった。


うらぶれたロビーのソファで、深くため息をつく。

だが十五分ほどで玄関のドアが開き、見慣れた顔が戻ってきた。

しおりもいた。りかこも。

あおいの姿はなかった。


「青島に行ってきたんだよー! 鬼の洗濯岩、すごかったぜ!」


トオルの声が、やけに弾んでいた。


それを聞いて、僕は曖昧に頷きながらもしおりの顔は見ず、部屋へ戻った。

怒りが、静かに膨らんでいた。

裏切られたというより、選ばれなかったことへの腹立たしさだった。

感情を押し殺すのに、少しだけエネルギーを使った。


大部屋に戻っても、そこは当然、ひとりになれる場所ではない。

やがて皆が戻り、話しかけてきたが、僕は生返事しかできなかった。


それを察したのか、皆は僕をそっとしておいた。


夕食の時間。

皆が食堂へ向かう中、僕は行かなかった。


しばらくして、しおりがやってきた。

背後からそっと腕を回し、僕の首に両腕を絡ませる。


「ねえ、怒ってるの?」


「当たり前やろ。空港で、君が来るのをどんだけ待ってたか分かる?」


「ごめん……でも、ご飯、食べよ? 外でもいいし」


憮然としたまま頷き、僕たちは駅前へ出た。

いくつかある店の中から、「創作和食」と書かれた看板の店を選ぶ。


料理は美味しかった。

ラタトゥイユやローストビーフなど、和の味付けでアレンジされた洋風メニュー。

あの教習所の夕食とは、もはや同じ「日本の食事」という枠には収まらない。


酒も頼んだ。「千徳 純米吟醸」。

フルーティで繊細な味だった。

彼女みたいな酒だ、と、ほんの一瞬だけ思った。


しおりは、空港で僕を見送ったあとのことを話した。

ホテルに戻ると皆が青島に行こうと言い出し、その勢いに流されて一緒に行ってしまったこと。


ヤンキーたちは三人でパチンコへ。

あおいは、合宿なんてものに出かけたあおいを心配した彼氏が、今日が休みだと聞きつけ、昨夜から夜通し車を走らせて京都から会いに来たので、デートに出かけたという。

ご苦労なことだ。

そして、あなたの心配はもう、時すでに遅しだ。


話を青島に戻そう。

しおりは、鬼の洗濯岩を見て、青島神社に参拝したあと、僕を迎えに空港へ向かうつもりだった。

時間も、十分に余裕があるはずだった。


ところが、小清水くんが妙なところで発揮する例のこだわりで、「トンボロを渡るまで帰らない」と言い張った。

現地で地元の人に聞くまで、次のトンボロが深夜まで現れないと知らなかったこと。

無為な二時間。

なかなか納得しない小清水くんをなだめ、帰りの電車に乗る頃には、僕の到着時間に空港へ向かうのは、もう絶望的だった。


正直、しおりの話は面白かった。

小清水くんが言い張ったのなら仕方ないし、ひとりだけ帰るわけにもいかなかったことも理解できる。


「分かった。でも……寂しかった」


「ごめんね」


その声が耳に触れた瞬間、胸の奥の固いものが、ふっとほどけた。


そのあとは、もう、いつものふたりだった。

馬鹿な話に花を咲かせた。

よかった。いつもの二人だ。


ほろ酔いでホテルに戻ると、ちょうどあおいが、カリーナEDに乗った彼氏に送り届けられたところだった。


「はじめまして。あともうしばらく、あおいをよろしくお願いします」


――ごめんなさい、もう、よろしくしちゃってます。


心の中で手を合わせ、僕も軽く会釈をした。


ホテルに戻ると、しおりと僕は大部屋には戻らず、女子三人で使っていた個室に入った。

二人きりだった。

言葉は要らず、交わしたのはキスだけ。


長いキスを何度も交わしたあと、僕たちはベッドの縁に腰掛けたまま、言葉もなく、互いの存在を確かめ合っていた。

外からは、風呂場へ向かうらしいサンダルの擦れる音や、廊下ですれ違った誰かの「なんでやねん」という笑い声が、薄い壁越しにぼんやりと聞こえていた。


そのときだった。

ガチャリ、と唐突にドアノブが回る音。


間の悪さというのは、常に最悪のタイミングを嗅ぎつけて現れる天才だ。


「あらあら、これはこれは」


入ってきたのは、りかことあおいだった。

風呂に行くので着替えを取りに来たという。


りかこは僕たちを一瞥し、唇の片端だけでにやりと笑った。


「は〜ん……」


もはや言葉というより、効果音だ。

表情は、漫画で真相にたどり着いた探偵のそれに近い。


あおいは腕を組んで仁王立ちになり、わざとらしく眉をひくつかせる。


「お邪魔さまで〜す。ごゆっくりぃ〜」


明るい声で茶化しながら、彼女はバタン、と文字通り盛大にドアを閉めて出て行った。

古典的なコントのツッコミ役のように。


一瞬、部屋の空気が真空のように静まった。

そして戻ってきたのは、ぬるま湯のような沈黙。


蛍光灯が、静かに天井を染めていた。


僕は咳払いをし、どこかへ逃げ出したくなる気持ちを抑えながら、目線を泳がせた。

そのとき、しおりがぽつんと呟いた。


「こっち、来て。……いいよ、今日は」


その声は、声というより、ページの端に小さく書かれた追伸のようだった。

けれど、胸の奥に、深く静かに染み込んできた。


でも、僕は考えた。

今日も酒を飲んでいる。

前回のあの混乱は、もう繰り返したくなかった。


「うん。でも……今日はまた酔ってるから。次、飲んでない時に」


精一杯の平静を装い、やっとの思いでそう言った。


「うん。ありがとう」


その言葉に、僕は救われた。


「下、行こうか?」


「うん」


大部屋では、もう宴が始まっていた。


「仲直りしましたー!」


と、僕はしおりと並んで宣言する。

誰かが笑い、誰かが茶化した。


いつもの夜。

ワイワイとした、でもどこか温かい喧騒。

ゆるやかに、冬の終わりが近づいていた。

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