第40話:妖怪魔獣ホワイトバケダヌキ
冷たく、乾いた大地が広がっていた。
空には一切の光が差し込むことなく、暗澹とした曇天だけが広がっている。
微かにしぶとく生き残っていた草木は枯れ果て、風は死を運ぶばかりであった。
「お父様、お母様!」
パメラは、走っていた。
何十年も放置され、朽ち果てた家。辺りに転がる腐った死体たちは誰にも埋葬されることなく、無惨な姿で転がり、しかしそれを食う獣さえも息絶えた死の大地。
かつての暖かなアルテトの大地は失われ、優しい人々は男も女も、老人も、子どもすらも。誰一人として弔ってもらえず、道端で朽ち果てていた。
必ず聖冠を持って帰ると約束した大地は、しかし、約束を果たす前にその命が尽きた。もはや冥界へ誘う鴉さえ鳴くことなく、死以外の全てから見捨てられた大地が、ここにあった。
それでもパメラは懸命に走った。
冷たく、腐った城下町を駆けた。毎日祈りを捧げていた教会はドアが壊れ、二度と開くことは無い。紋章は壊れ、ステンドグラスは雨風によって穢れ、割れていた。
住民たちの家は幾年にも渡る冷たい風に曝され、手入れする者がいなくなって久しく、ずっと前に風化していたことがわかる。食料を扱う店の奥からは、腐り、カビた食料が元の原型を忘れて、悲惨な有り様になっている。
街を抜けて、城が近づくと、その途中から見える麦や葡萄の畑には禿げた土地だけが残っている。あの黄金の丘はどこにもなく、けれどパメラは涙を堪える。せめて、せめて、誰か生き残っていてくれと、叫びにも似た声を上げながら、家族の名前を、友の名前を、街の人の名前を呼びながら、城へと向かった。
しかしパメラが城へとたどり着いた時、鋼鉄の門は錆びついて半端に開いたまま、中からは鼻が捻じ曲がるほど悲惨な臭いが充満していたことに気づき、今までにないほどに胸が嫌な跳ね方をした。
冷や汗が噴き出し、どくどくと心臓が早鐘を打つのは決してここまで全力で走ってきたからではないはずだ。
「……っ、お父様! お母様!」
頭の中に浮かぶ絶望の光景を必死になって否定しながら、それでもパメラは進まざるを得ない。ホールに倒れているメイドや兵士の姿が、腐れ落ち、ミイラになり、ウジ虫がわいて、その姿に恐怖で凍り付きそうになっても、城の中がカビの臭いに満ちて、呼吸をすることさえ苦しくなるほどの悪臭に包まれていても。
「——テット!」
それでも、彼女の足は両親の寝室へと向かうのだ。
階段を駆け上がり、その道中に奇妙な形で首が曲がっているメイドたちを避け、二階へと飛び込んだ。両親の部屋は、一番大きな中央ホール近くの大部屋である。パメラは真っ先にそこへと駆けこんだ。
「お父様!」
叩き壊すほどの勢いで扉を開き。
「おか、ぁ……さ、ま……っ」
抱き締め合うように朽ち果てた両親の遺体が床に倒れ伏しているのを見て、パメラは絶句した。
「お、おと……さま……」
厳しく、言葉数が少なくも、優しかった聡明な父。
「おか……さ……」
口うるさく、心配性で、やることなすことあれこれと文句をつけてきて、正しい淑女像というものを押し付けながら、将来を案じて、故郷を離れる時に誰よりも涙を流して反対してた愛情深き母。
「あ、ぁ、あぁ……ぁぁあ……ぅ」
手紙で、いつだって最後はパメラの身を案じて、帰りを待っていると温かい言葉で結んでくれた愛する両親が、死んでいた。
パメラの帰還を待ち続けて、待ち続けて、待ち続けて……間に合わなかった。
「ぁぁあああ……っ!!」
認められない現実に、パメラは声を張り上げて泣きそうになった。傍に駆け寄りたいのに、身体は、心は、それを拒んで、足を後ろへと下げている。嫌だ、逃げるな。逃げないでくれ。叫んでも、身体は後ずさる。心は認めようとしない。両親の死という現実が、パメラには受け入れられない!
パメラは逃げ出した。
まるで無かったことにしたいかのように、娘を待ち続けたまま息絶えた両親の身体を抱き締めてあげることも、手を握ってあげることすらも出来ず、泣いて逃げた。もう耐えられなかった。誰か、誰かいないのか。誰か生きていないのか。
「——だれ、かっ! だれか! だれか、生きてないの!?」
誰でも良い。恨み言をぶつけてくれたって構わない。誰か一人で良い、声をかけてくれ。
パメラは片っ端からドアを開いて、生存者を探した。だが、どこにそんなものがいるという。食べる物も無く、水も枯れ、動物の一匹さえ、雑草の一本もないこの地に、誰が生き残っているという。
だが、それでも探した。そんな冷静な考えなど、当になかった。ただ、誰かが生きているという、ありもしない幻想にばかり縋って、片っ端からドアを開け続けて、声張り上げた。
「誰か! だ、れ——か」
だから、いずれこうなった。
「だ、れ……」
屋敷中を探していれば、遅かれ早かれ、こうなったのだから、両親の死を目撃した時に、逃げ出せばよかったのに。
探してしまった。
見つけてしまった。
「—————テット」
最愛の弟が、腐れ落ち、死んだ姿を、見つけてしまった。
「———————ッッッッッ!!!!!!」
間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった。
叫びは声にならなかった。痛みで張り裂けそうなほどに胸は絶望に震え、哀しみという針が内側から噴き出して全身を突き刺した。
涙は血に代わり、床へと垂れる。濁流の如く溢れる涙がパメラを飲み込み、鮮血へと染めた。人々が流した、もう二度と流すことがない温かい赤。自分も喪ってしまえばいい。
誰のせいでこんなことになった。誰のせいでみんなが、家族が、こんな目に遭った。自分だ。全て全て自分のせいなのだ。遥かなる故郷で帰りを待っていた人々が、故郷の人々のために残した希望が、人々を絶望の地に縛り付けて、誰もが救われぬ最期を迎えてしまった。
それを引き起こしたのは自分だ。自分が、故郷を救うなどと言って飛び出さなければ。半端な言葉を残して人々に希望を残さなければ。きっと彼らはこの地を離れて、救われたかもしれないのに!
父も。
母も。
テットも。
死んだ。
みんな、みんな、死んだ。
自分だけを残して、みんな死んだ。救われなかった。苦しんだ。生き続けたいと願った人々を、自分が殺したのだ!
なのに!
なのに、自分は、役割を果たせなかった。聖冠を持ち帰ることが出来なかった。なのに、のこのこ故郷へと帰って来て、何の意味がある。この地で涙を流すことしか出来ない自分に、何の価値があったのだ。
何の価値もない自分だけが、生き残った——。
「——ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
○
「起きなさい!」
「——はっ!?」
電撃にも似た強烈な衝撃が全身を走り抜け、パメラは滂沱の涙と共に、意識が覚醒した。
「……ぁ、え? ぅあ……?」
「……はっ、はっ、はぁ、はぁ」
傍には、蒼褪め、息が荒くなったクレバシ。クレバシ? そうだ、クレバシだ。
「く、クレバシ……っ!?」
「な、なんとか……はっ、間に合っ、た、みたいね……」
「間に合った……?」
どっどっどっ、と心臓が今までにないほどの早く波打ち、目からは大量の涙が溢れている。辺りを見渡せば、小さな洞窟。なぜ。いや、そうだ。
「——私は」
「そうよ、あいつにやられたのよ」
弱々しい手でクレバシが指さした方向を見遣れば、そこには。
「あ」
そうだ、あれを追ってきたのだった。
白く、ずんぐりむっくりとした、犬のような何か。
「と、とりあえず、他の奴らも、た、助けなきゃ……」
辺りには意識が混濁としたまま、あるいは白目を剝き、茫然として立ち尽くす者、倒れ伏す者、何かに許しを乞う者、様々な人々で溢れ、そうだ、彼らは共にここへと、食料泥棒を追い掛けて来た、共に塔の探索をする仲間たちであった。
「ふぅっ!」
クレバシが両手を突き出し、強烈な魔力の波動を叩き込むと、途端に彼らは意識を取り戻し、先ほどのパメラのように、夢から醒めたような状態で困惑し、現実を現実と認識しきれないまま、意識を取り戻した。そして辺りを見回し、徐々に記憶を回復させている。
「……だから止めといたほうが良いって、みんなを止めたのに」
そんな、温かくも呑気な声が広がって、ほんのりと胸の中に安堵が広がる。
「た、タヌライ……」
「うん、ボクのことはわかるね? もう大丈夫そうだ」
ほっとした様子のタヌライが居て、今にも倒れそうなクレバシに肩を貸して支えた。
「……タヌ、あんたわかってたわね?」
「まぁね。だから極力知らんぷりして、みんなにも注意したんだけど……」
タヌライとクレバシの視線が奥へと向かい、パメラもそちらへと見る。
全身の白い毛を逆立て、威嚇するようにふぅー、ふぅーと息を吐き、大して怖くない目つきを鋭くしている、あの白い毛玉のような生き物。奥にはまだ通路が広がっているが、あの犬らしきものの足元には、パンを始め、いくつかの食料が転がっている。
畏怖するような存在ではないのに、ちっぽけな存在だと手に取るようにわかるのに、パメラを含め、皆がその威嚇に心の奥からの恐怖を感じて、ぞっとした。今にもここから逃げたいほどに、二度とその姿を見たくないと思うほどに、鉛にも似た、冷たく重い嫌なものが胃の腑に落ちるような感覚がした。見つめ合っているだけで、吐き出しそうだ。
「クレバシ、ちょっと休んでて」
そう言ったタヌライの声はしかし、この場に似つかわしくないほどに呑気だ。クレバシを地面に座らせ、歩を進める。
「タヌライ!」
「大丈夫だよ」
前へ前へと出るタヌライに手を伸ばし、けれども足は動いてくれない。前に行くことを赦してはくれない。今にも後ろへと逃げ出そうとしている。それは他の誰もがそうで、タヌライを案じているのに、言葉すら出ないほどに疲弊して、あるいは恐怖して、止める勇気が持てない。クレバシもだ。クレバシも、何かを言いたげにして、けれど声を上げることが出来ない。
タヌライは、そいつの前に立ち、膝を折って屈む。
そいつは、変わらず、ふぅーっと威嚇をしている。
両者が睨み合い、睨み合い——いや、見つめ合っているのか。
「大丈夫だよ、怖くないよ」
タヌライの口から零れる言葉は恐ろしく穏やかで、この場に似つかわしくない優しい声色が、逆に怖いほどだ。
対してそいつは、気づけば威嚇の音が鳴りやみ、ぽけっとした顔でタヌライを見つめていた。
驚いているような、困惑しているような、しかし敵意は確かに持っていない、いや、何も考えてい無さそうな顔かもしれない。それほどに隙だらけの様子で、タヌライに近づき始めた。
思わず誰もが凍り付く中、てちてちと短い手足を動かしながら、そいつはタヌライの臭いを嗅ぎ始める。差し出した手を嗅ぎ、足を嗅ぎ、くるくるとタヌライの周りを回りながら全身の臭いを嗅ぎ、やがて正面に戻って来て、もう一度手の臭いを嗅いだ。
「大丈夫だよ」
もう一度、タヌライは言う。
すると、そいつは手をぺろりと一舐めし、もう一度、ペロリ、ペロリ。すると強く臭いを嗅ぎ、何度もぺろぺろと嘗め回し、タヌライの胸に飛びついて、顔面を猛烈に舐め回し始めた。
「わ、わっ! こら、やめてよ! あはは! よーしよしよし」
うゆーん、うゆーん、と奇妙な鳴き声を発するそいつは明らかにタヌライに好意的である。甘えるように舐め続け、タヌライはというと「やめてったら、こら、あはははっ」と笑っている始末だ。
「え、え……?」
困惑するなという方が不可能である。自分たちは、この謎の生き物に恐怖を感じているのに、タヌライはまるで家族のように、友のように、そいつを受け入れているのだ。
「た、タヌライ、大丈夫なのですか!?」
「大丈夫だよ、この子たちはそんなに狂暴じゃないんだ。こちらから敵意をむき出しにしなきゃ穏やかで臆病だよ」
「この子、たち……っ!?」
「うん、ほら」
タヌライが奥に目を遣ると、奥からはきらりといくつものが光が浮かぶ。それが徐々に近づくと、この白い動物らしきものと同じ姿、大きさがばらばらのものが何匹も何匹も集まってきた。
「ひっ」と誰かが悲鳴を上げる。それはパメラだったかもしれないし、クレバシだったかもしれない。ともかく、そいつの登場に、誰もが逃げることを忘れ、身体を凍り付かせた。
だが、どうだ。そいつらは皆、タヌライに駆け寄ると、同じように臭いを嗅ぎ、舐め回し、全身に飛びついて甘え始めるじゃないか。
「きゃーっ」
タヌライは楽しそうに悲鳴を上げるが、パメラ達からすれば半ば恐怖映像に近い。今一体、自分たちの身に何が起きて、タヌライの身には何が起きているのだろうか。あれはいったいなんなのだろうか。
「この子たちはね、ホワイトバケダヌキっていう魔物だよ」
こちらの心情を読み取ったかのように、タヌライは魔物——ホワイトバケダヌキに包まれながら、説明を始める。
「エルメル皇国の中でも東部の方に生息する魔物でね。見ての通り甘えん坊な子たちさ」
「あ、甘えん坊って……」
「うん。さっきも言ったけど、本来は臆病で優しい性格をしているんだ。だからパメラ、さっき外で見た時はこの子、何もせずパメラのことじっと見てからどっかに行ったんじゃない?」
「——あっ」
思い出す。
そうだ、確かにそうだ。パメラが初めてこの生き物を見た時は、馬車の中からパンが消えていて、それを咥えて去ろうとしているのを見つけた時だ。ホワイトバケダヌキは驚き、一度パンを落としたが、その後、パメラと見つめ合うと、しばらくして何事も無かったかのようにパンをまた咥えて去って行った。あの時、パメラは何もなかったはずだ。
「た、確かにそうです……っ。タヌライは、どうしてそれが……?」
「そういう気質の子たちなんだよ。基本的には人に警戒心はあまりないんだ。この子たちが生息する地域のハイマンたちは、みんなホワイトバケダヌキに手なんて出さないからね」
「どういうことなんですか……?」
パメラの疑問も尤もだ。ここには多くの人がいるが、今回の旅、ハイマンはあまり多くない。多くがビーストやエルフで構成されている。その少ないハイマンたちもホワイトバケダヌキに馴染みがないのか、不思議そうな顔をしているし、クレバシだって驚いている様子である。
だから、タヌライは説明を買って出る。
「んー、簡単に言うとね。ホワイトバケダヌキっていうのは、すごく強力な幻術や妖術を使う妖怪なんだ。みんなもさっきすごく嫌なものを見たでしょ?」
途端に記憶が蘇り、嫌な汗が噴き出る。そこにいる誰もが、静かにうなずいた。
「この子たちは全然強くない代わりに、相手の心に入り込んで、その人が一番見たくない幻覚を見せるんだ。これはとんでもなく強いよ。なにせ、ボクが助けるまでクレバシですら防御できずに引っかかったレベルなんだから」
「く、クレバシが……っ!?」
驚きのあまり誰もがクレバシの方を見遣れば、クレバシはバツが悪そうに側方を向き、「なによ……」と不貞腐れたように、ぼそっと呟く。
「ボクはこの洞窟に入るのが遅れたからバケダヌキの術には引っかからなかったけど、まぁ見ての通り、防御も回避も対策してても無理だよ。この術を掛けてから本来は逃げ出すんだけど……ここが巣なんだね。驚かせてごめんねー」
もこもこまみれのタヌライは、申し訳なさそうにタヌキたちを抱き締めながら言う。そしてホワイトバケダヌキはと言えば、うゆーん、うゆーん、と大合唱。別に構わないよ、とでも言ってるかのようだ。
「そろそろみんなも記憶が整理されてきたんじゃない? どう、落ち着いてきた?」
尋ねられて、皆は話し合う。自分たちの身に何が起きたのか。
そうだ。
パメラが食料を盗んでいったホワイトバケダヌキを見つけ、それを食事中の皆に伝えたのだ。タヌライを除いた全員が、その食料泥棒を捕まえようとホワイトバケダヌキが去って行った川辺のほうへと向かうと、食料を引きずった跡から、川辺の近くに小さな洞窟があるのを見つけたのである。
しめしめと勢いよく乗り込めば、そこにこのバケダヌキがいた。バケダヌキは驚いたように飛び跳ね、困惑したように、うゆーん、と鳴いていた。そして足元に転がっていた食料を見て、間違いなくこいつが犯人だと皆が捕まえようと飛び掛かろうとして——。
「………」
そこから先は、思い出したくもない光景が広がり、誰もが口を閉ざす。
「ボクの故郷じゃあ、バケダヌキはしょっちゅう出てたから、この子たちの危険さは知ってるし、虐めなかったら害もまぁ、畑にちょっと出て来る程度くらいしか無いから放っておくんだ。今回の塔はエルメル国の南東部に生えたから、バケダヌキの生息域と被って、たぶん外から流れて来たんだろうね。おお、よしよし。怖がらせてごめんよー」
まるで赤ん坊でも抱くように、タヌライはバケダヌキを抱きかかえ、優しくあやしている。なんだか釈然としない気分がそこにいる全員に広がった。
「食料だってこの子たちが運べる量なんてたかが知れてるよ。繁殖力だってそんなに強い方じゃないし、襲ったっていいことなんかないさ。肉は硬くて臭くて不味いし、毛皮の質だって良いとは言えないうえに、一頭から採れる量も少ない。見逃すのが吉なのさ」
タヌライはホワイトバケダヌキを下ろすと、群がっている周りのものにも離れるように促す。すると、タヌキたちは大人しく離れた。
「タヌキっていうのは、元から人に対して敵意を抱き辛い。それは人があまりタヌキを襲うことが無いからさ。故郷にいた頃は、ドアを開けてると勝手に入ってきて、テーブルの下で昼寝して、涼しくなったら帰って行くような奴らばっかりだった」
そして、タヌライはポケットからビスケット取り出し、いくつかに折って地面に撒く。するとタヌキたちはそれに群がって食べ始めたのだ。
「だからさ、みんな。悪いんだけど、今回の件に関してはボクに免じてどうか許してやってくれないかな」
申し訳なさそうにへにゃっと笑い——しかしその瞳の奥に決して譲らぬ光を宿して——タヌライは頭を下げた。
「それは……どう、しますか?」
「どう、って……」
パメラは弱々しく、皆に問う。
この魔物の穏やかさは確かに今、目にしている。だが、一度敵意をむき出しにされれば、先ほどの自分たちのように心が壊されてしまいかねない。危険な魔物かと問われれば、間違いなく危険な魔物である。
「でもよ、クレバシでもさっきの幻術を弾けなかったんだろ……?」
誰かが言ったその言葉に、場の空気は凍り付く。
クレバシはこの塔の探索者においても最高位のレベルであり、その実力は並の探索者、冒険者と比較にならないほどに図抜けている。特に魔術の分野に関しては並び立てる者はおろか、足元にも及ぶ者はいないとされるほどに、別格の存在である。
そんな彼女が、なんの抵抗も出来ずに受け入れてしまうほどの強力な幻術の使い手が、この小さなバケダヌキ。
「……あたしたちの手に負えるレベルじゃないということで、手を引くのが安牌じゃないかしら」
クレバシの弱々しい言葉に、その場にいた誰もが頷かざるを得ない。まして、そこにタヌライからの懇願もあれば殊更だ。
「そう? よかったー、わかってくれて! じゃあ今後も少量の被害が出ると思うけど、見逃すように次の村で注意喚起出してもらうようにお願いしなきゃ!」
あっけらかんというタヌライの言葉に、どうにもモヤモヤを抱える形になったが、それでも対策の仕様がないということで、彼らは状況を飲み込む形で、この件は決着となった。
○
「あんた、最初からわかってたならなんで言わなかったのよ」
洞窟を出て、自分たちの荷物を置いてきた場所に皆で戻る最中、クレバシはタヌライに耳打ちをする。
「クレバシはバケダヌキ見たことないんでしょ? じゃあ言ってもきっと納得しなかったよ。むしろ逆に気になって何が何でも見に行くでしょ」
問いに対し、タヌライはそう言い返すと、クレバシは苦虫を嚙み潰したような色を浮かべ、「……それもそうね」と納得する。クレバシは研究者気質であるから、未知のものがそこに現れたとなれば是が非でも確認したいという性分であるのだ。
「でも、あれがタヌの言ってたホワイトバケダヌキなのね。実物を見たけど……うん、見たけど、なんであんな弱々しい魔力と肉体の持ち主があんなに強力な術を使えるのかさっぱりわからないわ」
「それは昔からみんな分からないねー。バケダヌキとバケギツネは術が上手いって言われてるから気にしたことなかったけど」
エルメル皇国の東部にはこんな言葉がある。
「キツネは神をも化かすが、タヌキはキツネをも化かす」と。
それだけ生物を欺く術に掛けては、タヌキとキツネは別格であるという話だ。なぜだなんて、いちいち考えはしない。
「クレバシの故郷は西部だから、バケダヌキもバケギツネも生息してないもんねー」
「……迂闊だったわ。えぇ、本当に。警戒してバリアを張っておけば……」
「いえ」と思い直し、クレバシはため息を吐く。
「しっかりバリアを張っていても、あれは無理ね。幻術という一点に限ってはあたしのレベルを遥かに超えていたわ、警戒してても防げなかったでしょう」
「だろうねー」
姉の弱気を、珍しくタヌライは否定しない。それほどまでに両者の力量差は広がっていたのだから。
「はぁ。あんなマヌケな見た目のやつに劣るなんて、なんだか悔しさを通り越して笑えて来たわ」
「仕方ない、仕方ない。失敗も学びだよ、クレバシ」
「……人の理念を勝手に引用するんじゃないわよ」
キャンプ地に戻ってくると、どっと疲れた。
今日は進むのをやめて、ここにテントを張って、休憩しようと誰かが言い出した。心なしか食料がまた少し減っている気がするが、またタヌキだろうか。
誰も反論の声を上げることは無く、キャンプから少し離れた場所にタヌキ除けの食べ物を置いて、その日は終了となる。
もうバケダヌキが現れないことを祈って。
「まぁ、何度も言うけどこっちから手を出さなきゃ大丈夫だから。そんなに怖がらなくていいよー、ボクが保障するから」




