第38話:昼下がりのスモールトーク
河原に足を延ばすと、穏やかな川のせせらぎが耳に溶けて、心地よさにタヌライは目を細める。しばし、川辺の風を浴びながら、思わずまどろんでしまうほどの静かな風景に、ここが塔の中であることなど忘れてしまいそうになる。
ぐぅぅ……。
お腹が鳴った。
「ははっ。どうにもボクは詩的な気分に浸るのが下手だなぁ」
たまには風に身体を預け、思いのままに言の葉を流離わせてみようか、などと思っても、身体はそんなことより食事にしろとうるさい。タヌライは辺りを見回し、鼻をひくつかせ、川一帯を見回し——いた。
「へへっ。今日は大物日和かもー」
穏やかな眼光で、しかし確かに獲物を捉え。タヌライはぐっ、ぐっ、と軽くストレッチをすると。
——かさっ。
「ん?」
少し離れた場所から、何かが動く音が聞こえた。小さく、か弱く、そして臆病な足音。見事に隠れており、タヌライの存在に気づいておらず、その足は仲間たちがいるところへとこっそりと向かっている。
「あー……」
タヌライの鼻孔は、風の中に紛れて隠れるそれの臭いを嗅ぎつける。どうしたものか。ぽりぽりと頬を掻きながら、しかし、周囲を見渡しても耳を澄ましても、誰もいないことを確認してから、嘆息。
「仕方ないなぁ」
苦笑して、タヌライは見逃すことにした。そして改めて川へと向き直ると。
「よーし、いくぞっ」
勢いをつけて飛び出し、川の中へと飛び込んだのであった。
○
季節はいつだって変わりなく、青々とした草原が広がるその大地は、穏やかな気候に包まれている。
塔のダンジョン、第一層。
広く、果て無く、青々とした草原と森と青い渓谷が続くその大地は、塔に入った者を最初に迎える試練の地である。
クレバシにとっては既に何百回と足を踏み入れ慣れたこの場所は、いつも通りの平穏な道のりであった。
辺りには幌を張った馬車が数十台、共に長い行進を続けている。ただし、これらは初めてパメラがこの塔に入った時のような商隊ではない。ここにいる者は全員が探索者である。
塔の謎の解明、未踏の場所の調査、モンスターの生態や自然物の研究。これらを行う者を探索者と呼び、探検や魔物の討伐、宝物を求めて塔へ来る冒険者とはその役割が大きく異なる。
多くが研究者としての役割を担って塔の攻略を行い、ここにいる彼らもほとんどが探索者である。
最も安全な旅路は商隊の行進に参加することだが、彼らは一定の間隔で出発と帰還が決まっており、必ずしもそれに参加できるわけではなく、一度彼らが出発すると数週間から数ヶ月、あるいは数年以上を待たざるを得なくなる。
そうしたタイミングで突入したいと思っている連中同士が寄り集まり、今回のような旅団を結成して共に出発するのだ。今回はおよそ、三十を超える数のパーティが参加を表明した。これにクレバシたちも便乗したというわけである。
数多くの馬車は今、草原の街道で足を止め、昼食の準備を行っている。全員で協力というわけではない。各々のパーティが用意した物を、パーティ内で消化する。基本的に他のチームに分け合うのは望ましくなく、もしやるのであれば物々交換をすることが原則として徹底されているのだ。
さて、今クレバシは何をしているかというと、見ての通り煙草を吹かしているわけだ。愛用のパイプを口に挟み、ぷかぁ、と煙を吐き、のんびりとリラックス。空には青空。体は針葉樹に預け、風は心地よく、思わず眠りたくなってしまう。なんてことだ。これではまるで、仕事をさぼってだらしなく寝ているみたいではないか。
もちろん、そういうわけではない。パイプを吹かしていると、徐々に煙の量が多くなり、もくもくとクレバシの周りを漂う始末。まるで妖怪ケムリ魔人だ。
「んー、こんなもんかしらねー」
パイプを外し、ふーと大きくを息を吐くと、口の中から大量の煙が吹きあがる。それはクレバシの周りをふよふよ漂う煙と同化して、まるで地上に雲が降りて来たかのようだ。もしかすると、妖怪雲魔人だったのかもしれない。
クレバシは小さな口をなるべく大きく開ける。本人が大口を開けることになれていないので、あまり広がらない口で煙を吸い込み始めると、クレバシを隠すほどの煙が不思議とするすると口の中に吸い込まれていく。
煙は瞬く間に口の中に全て入り、するとクレバシはそれを地上に向けてふぅー……っ! と強く吐き捨てた。すると、煙は固まり、地面に固定され、柔らかなそれは硬い石へと姿を変える。クレバシが全ての煙を吐くと、なんと煙は石の暖炉へと姿を変えるではないか。
「はいよ、っと」
さらに、パチンと指を鳴らすと暖炉に火が点り、その上に薄く平たい石をセットすることで即席のキッチンへと変貌した。なんて便利なのだろう。旅をする人はこれをぜひ覚えておきたいものである。
「相変わらず便利ですね、あなたのそれ」
そこへやってきたのは、つい先ほどまで玉ねぎやベーコンなどを切り分けていたパメラである。彼女は手袋と外套を外した身軽な格好で、切り終えた食材をクレバシの元へと持って来るところであった。
「あんまり楽をし過ぎるのも良くないんだけどね、師匠の教え的に。まぁそれはそれとして、塔の中は常識外だから出来る楽はなるべくして、少しでも万全に近い状態を維持しておかなきゃね」
その辺りに転がっていた石ころを拾い、手のひらに収め、ぐっと握る。すると石ころはスキレットへと変わり、クレバシはそれを即席オーブンの上に置いて、オリーブオイルを多く垂らした。
「なんだか反則染みてますねぇ」
「人の努力を反則とは言わないわよ。あたしだってこれが出来るように本当に血が滲むほど……毎日ご先祖様たちの顔が見えるほどの酷い目に遭ってきたのよ。ああ、今思い出してもムカついてくるわね。クソ師匠め」
スキレットに熱が行き渡ったのを見て、クレバシは傍に置いていた食材入れから卵を取り出し、片手で割って中に落としていく。殻は火の中へ放り込むと、卵の殻は火に変わって熱を強めた。それを三つ。そして、ソーセージを6本放り込む。
「クレバシがそこまで言うのですから、きっと素晴らしいお師匠様なのでしょうね」
「ええ、素晴らしい人格破綻者よ。厭味ったらしくて、人のやること成すこと全部先視してきて、おまけに寂しがりとか言い出す割にはふらりと出かけて半年以上も帰ってこない、カス中のカス。子どもが飢え死にするとか欠片も考えない最低の師匠よ」
「それはまた、難儀ですねぇ」
パメラが隣に腰を下ろすと、クレバシは再び石ころを握り、鍋へと変えてスキレットの横に置いた。パメラはそれにオリーブオイルを垂らし、玉ねぎを炒めていく。
「難儀で済むなら可愛い話よ。師匠がいようがいまいが、毎日死にかけてたわ」
大量の油で揚げ焼きされた目玉焼きは白身を透明から雪色へと変え、ソーセージは香ばしい香りを漂わせて腹を刺激する。肉が焼ける匂いはなぜこんなにも空腹を刺激するのだろうか。
隣では玉ねぎをあめ色になるまで炒めているパメラ。玉ねぎにある程度火が通ると、今度は一口大に切ってあるベーコンを投入し、焦げ目がつくまで炒めていく。ベーコンの脂が溶ける音がパチパチと弾け、腹を刺激する香りを放つ。その間にクレバシは卵とソーセージを引き上げて皿に移し、さらに追加で同じ分の目玉焼きとソーセージを焼いていく。
「でも、少し羨ましいです。私には魔術の先生のような方はいませんでしたから」
「ああ、そういえばあんたの回復術って自己流なの?」
「いえ、修道院で学びました」
ベーコンにも程好い焦げ目がつく。クレバシが指を鳴らすと、鍋の底から水が湧き出て鍋の半分と少しを満たした。それからパメラは塩と、切り分けたトマトを入れ、ハーブを入れて煮込む。その間に、クレバシは出来上がった目玉焼きとソーセージを、再び皿へと移した。
「私が生まれた時はまだ三月でした。まだ初春の頃合いなのに、庭いっぺんに青い薔薇が咲いたと言います。父はそれを見て、きっと私には大いなる使命があるのだと感じ、修道院で修行するように命じたのです。二十過ぎまで、お世話になっていまして、回復術はその時に」
「生まれた時に青い薔薇ねぇ。あ、その髪飾りって」
「ええ。私が生まれた時に咲いた薔薇を、母が切り取ってコサージュにしてくれたの」
ぐつぐつと鍋が煮え、程よい酸味と塩っ気の風味が鼻に届く。これもまた、良い香りであった。
「おかげで“青薔薇の君”などと、貴族の中では呼ばれています」
「あー。マルトーとかテットが言ってた“青薔薇の君”ってそういうことだったの?」
「おかしいですよね。私自身、別段何かを果たしたわけでもないのに、うわさが独り歩きして青い薔薇の公女だなんて言うのよ。だから、未婚の女なのにミドルネームまでつけられてしまったわ」
「あんたのフルネーム、パメラ・ロズ・クロエルドだっけ。ずっと不思議には思ってたのよねぇ、なんであんたにミドルネームがあるのか」
「でしょうね」
鍋は程よく煮えているが、食材にはまだまだ熱を通すべきだろう。少し味見をしてみると、少し塩が多かったか。あるいはベーコンの塩が強かったか。パメラは瓶から牛乳を少し垂らし、味をマイルドに整える。塔に突入する前に購入したものだが、どうせ日持ちするものではない。さっさと使うべきだ。
「よその国はわかりませんが、少なくともフランカ王国においては、ミドルネームは貴族だけが持ちます。父エルドは、エルド・アルテト・クロエルド。ミドルネームは、その貴族が所有する最も大きな土地の名前であり、その土地の統治者である証拠ですから」
「でもあんたは“ロズ”って名前があるのよね」
「女性の場合は、どちらかというと二つ名とか、異名とか、そういった意味合いで称号として用いられることが多いですね。あくまでも通り名です」
「あだ名みたいなものってことかしら」
「そんなところです」
もう一度味を確認すると、今度はパメラの納得いくものに仕上がった。なめらかで食べやすく、味の主張もまとまりがある、良いトマトスープだ。
「おーい」
「ん?」
「あら」
二人の会話が一息ついたころになって、遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。やっと帰って来たかと二人が振り返れば、その姿にぎょっとする。
「おーい!」
タヌライだ。
魚を捕りに行ってくると川へと向かったタヌライだが、彼女が持ち帰ってきた獲物。それはタヌライの身の丈の三倍はあろうかという巨大魚であった。なんてとんでもない獲物を持ち帰ってきたのだろう。クレバシとパメラのみならず、他のパーティも目を丸くしている。
「これさー、思ったより大きかったんだよー。みんなで食べようよー!」
全身をずぶぬれにして、黒いフードを頭に張り付けて、ぼたぼたと水を滴らせながら帰って来る妹の姿は、なんとも形容しがたい物であり、クレバシも思わず顔を覆った。
「タヌライ、時々突拍子もないことしますね」
「知らんっ」
どうやって切り分けるとか、何と交換するとか、もう考えるのも面倒臭くなったし、調理法を考えたくもない。クレバシはヤケになって、手近に置いてあった酒瓶を掴んで、ぐいっと煽った。




