第18話:血海の侵略者
風が吹いた。
木立はさやさやと揺れ、青葉は歌うように囁く。小鳥の歌を乗せて踊る風は商隊を歓迎するように前から後ろへと流れて、男たちの火照った体を優しく撫でた。
轍が続くあぜ道も、あと数キロ進めば宿場に着く。塔の中のダンジョンタウン。その最初の町だ。
コトコトと車輪が揺れる音に混じって、護衛隊たちの息を吐く音と、時折痰を吐く音、嗚咽、愚痴、文句がぶつくさと混じって汚いオーケストラが続くのも、ようやくいったんはフィナーレを迎えることだろう。タヌライも、少し気が滅入っていた。うるさいのだ!
「……ん?」
ふと、違和感に足が止まった。
「タヌ?」
クレバシの声が飛ぶも、タヌライの足はその場に止まる。動かない。身体の奥底から叫ぶ強烈な危険信号が、タヌライの足をそれ以上進ませないのだ。
「どうした、坊主?」
「しっ。みんな止まって」
タヌライが目を閉じ、耳を澄ます姿に怪訝な表情を浮かべる商隊の仲間たちに、クレバシは即座に停止命令を出す。それどころか信号弾まで持ち出すクレバシに、周囲の人々はぎょっとして、護衛隊たちは即座に武器を構えた。手すきの者は走って後ろの方にまで停止の命令と武装の準備を伝える。
何か、異常があるのだろうか。あるいは、タヌライの思い過ごしか。
「おい、何かあったのか?」
「何やら、馬車が止まったようですが……」
馬車の中から顔を出したテットとパメラが外の様子を伺うや、状況に気づき、すぐに馬車の中に引っ込むと、武装をして飛び出してきた。彼女らだけでなく、同じように休んでいた人々も慌てて戦闘態勢を取る。状況は、まだ動いていない。
涼やかだったはずの風はいつしか緊張感と共に、凍てつくようなおぞ気を纏いながら冒険者たちを抱き締め、声を出すことさえ憚られるほど張りつめた空気に、息を呑むことさえ苦痛に感じさせる。
「……タヌ、何があったの?」
耳鳴りがするほどの無音の中、クレバシが音を発した。
「……血の臭いだ」
タヌライは、脂汗を垂らしながら、そう言った。
「風上から血の臭いがする。一人、二人どころじゃない。とんでもない数だ」
「血?」
「……オレたちの鼻は相当敏感だが、血の臭いは感じないぜ」
同行している犬型のビーストの男たちが首を傾げながら反論するが、「タヌの鼻はあんたたちより遥かに鋭敏よ」とクレバシは返す。嗅覚に自信のあるビーストたちは納得し難そうではあるが。
「……ん?」
タヌライの視線が、目の前の小高い丘の方へと向いた。あの丘を越えたら、しばらく先に大樹が姿を現すのだ。タヌライがそちらを見遣ると、周りも息を呑んで武器を構える。
なんだ、なにがくる。
護衛隊と商隊が身構えていると、丘の頂上からそれが姿を現した! ——可愛らしい小型のうさぎの魔物が。
「へ?」と、誰かが気が抜けた言葉を零すと、それに連られて、さらに数匹、頭にツノを着けたうさぎの魔物たちが現れて坂を下ってきた。可愛い!
ぴょんぴょんと商隊の隣を横切って、足早に通過していく姿は見ていて愛らしい以外の何物でもない。気を張っていた者たちは脱力と苦笑で次々と現れるうさぎの群れを微笑ましく見つめていた。
「キラーウサギ……住処を決めたら滅多なことじゃ大移動なんてしないはずなのに」
横切るその姿にタヌライが険しい顔で見つめていると、今度は犬やきつねの魔物たちが丘の向こうから顔を覗かせ、同じようにせっせと横切っていく。さらには鳥型の魔物、蛇型の魔物、虫型の魔物たちが、ぞろぞろと群れで大移動を始めてきた。
彼らの獲物は商隊ではない。こちらに一切の興味はなく、むしろ邪魔だとでも言いた気に避けて左右の道を走り抜けていく。
魔物の数は徐々に数を増す。獣や虫、爬虫類に近い小型の物から、岩の形をしたゴーレム、小型の竜、雷を纏う恐竜たちまでが群れを——いや、大群を成して駆け抜けていく。いや、駆け抜けるという言葉では足りない。これは、何かから逃げ出しているかのようだ!
「なんだ、何が起こっている!?」
地鳴りを起こし、砂塵を巻き上げて走り去って行く魔物たち。ベテランの護衛隊たちですら狼狽える中、タヌライ砂が口に入らないように腕で覆いながら、正面を睨み続けている。
もはや地震とさえ思えるほどの振動に襲われながら立つことさえままならない護衛隊たちは、頭を抱え、身体を丸め、息を殺し、生き物の嵐が通り過ぎるのを祈りながら待つしか出来ない。それでもタヌライとクレバシは膝をつけることなく、その先に備えている。
やがて獣の嵐が過ぎ去って、辺りはしんと静まり返った。
「クレバシはここにいて」
斧を手に、タヌライが先行する。小高い丘を駆け抜けながら、周囲から生き物の気配が完全に途絶えていることをタヌライは感知していた。先ほどの魔物の群れだけではない。そう、この先にある町からも、命の気配がないのだ。
「う……っ」
死臭。
丘を越えた先に広がるのは、血と肉が飛び散った凄惨たる血の海。まさに惨劇としか言いようがない光景に思わずタヌライも顔を顰める。嗅覚と視覚の二つを襲う不快で生理的嫌悪感を催すそれに、タヌライは微かに狼狽した。
慎重に足を進めながら生存者がいないかを探りながら、荒れ果てたなだらかな坂道を下る。
眼下に見えるそれは、目指していた塔の中のダンジョンタウンだ。大樹のダンジョンタウンだ。見上げるだけで空を隠すほどに巨大な大樹の中をくり抜いて作られた町。天を突くほどに大きく、太く、頑丈な。まるで蟻のように木の中に巣を作り、人々は生活を送っていた。タヌライだって何度も足を運んだことのある、温かさと安らぎに包まれた住処。
この塔の中で築かれた、人の町。土と岩と粘土と木と、植物の繊維を用い、外からも鉄やガラスなどの数多の資材を持ち込みながら完成させ、塔の調査を支えた人の文明と自然の象徴。
それが呆気なく、倒壊している。
樹の中から、血と肉の汚泥が零れ出している。
これほどに巨大な大樹が呆気なく根元から崩れ、観測所は砕かれ、大樹の脇にある警ら隊の詰め所は叩き潰されている。畑も牧場も地面ごとひっくり返され、逃げそこなった人や動物たちが倒れた建物に潰される形で埋められている。
血の海の中で臓物をさらけ出し、身体が裂かれ、あるいは何かに潰される形で、ここにあった命が温もりを失っている。生存者は、もちろんいない。
地獄だ。
「いったい何が……」
町の前には逃げ出そうとしたのだろう、まだ若く、幼さすら残る二人の女の死骸が転がっている。尖った耳からエルフであることと、身に着けている装備と近くに転がっている剣から、恐らくは駆け出しの探索者であることはわかった。
「ごめんね」
腰から下を両断されたような遺体は、すぐ傍で無造作に転がる下半身に反し、まるで互いを守り合うかのように抱き締め合って絶命している。そんな二人に謝りながら引きはがし、その遺体を注意深く見つめた。
断裂した部分からは血と内臓が飛び出し、顔は血の色が抜けて青白い。肉が硬直し、しかし大量に出血したためか、どこか白んで見える。裂傷以外の外的なダメージはほとんどなく、微かに頬についている擦り傷は恐らく倒れた時についたもので、戦闘によるものではないだろう。
「——ん?」
そうして目線を上から順に落とし、いよいよ失われた腹の部分に目を遣って、タヌライは傷口に気づく。
上半身と下半身を分かつ傷痕は、何かに無理やり圧迫されたかのように潰れている。当然ではあるが、牙や爪による鋭利なものではない。もっと圧倒的な質量によって潰されたものだ。
それに上半身と下半身を見比べてみると、腹部が無い。恐らく巨大な何かに圧迫されて、そこの部分が消し飛んでいる。ちょうど、あばら下から腰の辺りまで、ぱったりと潰されているのだ。タヌライはこれに見覚えがあった。どこだ、どこでこれを見た。
「こ、これは……っ!?」
そうして傷口を見て、触れていると、不意に指先に触れる小さな感覚に、タヌライは息を呑んだ。
タヌライの指に触れたのは、小さな石の欠片。
「岩蟹……っ!?」
はっ、とした途端、タヌライは死体を横に置き、辺りを見回した。これがタヌライの思っている魔物の仕業なら、姿が見えないのなら、必ずあるはずだ。どこだ、どこにある。
注意深く辺りに視線を配らせて、ふと、視界の奥、大樹が倒れた幾分か先に、確かに見えた。大地に走る亀裂、盛り上がる地面と荒らされた時に飛び散るまばらな岩塊。そして地面が大口を開けたような、ぽっかり開いた地下へと続く大きな空洞。
地面に耳を当てた。風さえ黙るほどの逼迫した空気の中、タヌライは固唾を飲み、耳に全神経を集中させる。僅かな音さえ聞き逃さないように、呼吸を止め、心臓の音さえうるさく聞こえるほどに聴覚に意識を集中し、聞き耳を立てる。
——ざり。
確かに、地中から音が聞こえた。
タヌライが離れた、丘の向こうから。
「——っ!!!」
刹那、タヌライは放たれた矢よりも迅いスピードで丘を越えた。瞬きをするよりも早く飛び上がったタヌライは、叫ぶ。
「岩蟹だー!! 地中にいるぞー!!!」
その瞬間、大地を割って岩石が突き出し、商隊の馬車と馬と、護衛隊が血を噴き出して宙へと舞い上げられた。




