花火の残光は仄(ほの)かに瞬き、そして静かに消えゆく ~挿絵あり~
ああ、ずいぶん降って来たな。もう土砂降りだ。
俺は、親父から借りた20年落ちのおんぼろクラウンで、甲州街道を調布から八王子方面に向かっていた。
だが、東府中を過ぎて府中駅前に差し掛かるあたりで、急に道が混み始めた。
なんだ、何かあったかな? 歩道には浴衣姿のカップルが大勢歩いている。
ああ、そうだ。今日は競馬場の花火大会だった。そういえばさっき西の空が染まって「ドドンパンパン」って、鳴ってたな。丁度、終わりの時間に差し掛かっちゃったのか。アンラッキーだった。
俺は、渋滞に嵌り込み、フーっと一つ息を吐いたが、イライラしたところで道が空くわけでもない。諦めてノロノロと最後尾に付ける。
******
ああ、花火で思い出した。
美紀は、元気にしてるのかな? 細身の色白の美人で、水色の浴衣が、すごく似合ってた。丸いうちわと、浴衣に合わせた青い鼻緒の下駄が可愛かった。夢中で花火を見上げ、こちらを向いて「ねー、裕ちゃん、綺麗ねー!」って大声で話し掛けるその笑顔は、花火よりずっと綺麗だった。
美紀とは、高3の夏から、3年も付き合ったんだよな。
あいつはすごくピアノが上手で、芸大を目指してたんだ。
才能はあったと思うけれど、メンタルが弱くて、いつも本番でダメで、それで何浪もしてた。 それであるとき、「私、こんなに幸せじゃだめなんだと思うの。裕君の優しさに触れていると、きっと私ダメになるの。不幸になって追い込まないといけないと思うの。裕君、本当にごめんなさい」って、ライン一本で別れを告げてきた。
もちろん俺は、「美紀がそう言うなら仕方ないけれど、ちゃんと最後に顔を見て、言葉を尽くして別れたい」って返したけど、美紀は、「本当にごめんなさい。裕君に会ってしまうと、優しさに触れると、私、決心が変わっちゃいそうだから。私、まだ、裕君が大好きだから。本当にごめんね」って返信があって、それきりだった。
美紀は、今はどうしているんだろう。ピアノは続けてるのかな。新しい彼氏と一緒にいるのかな。だけど、美紀が夢を叶えて、俺たちを隔てる壁がなくなった後に、もう一度だけ会いたかったな。やり直せるかは分からないけど。
そうボーっと考えていたら、おっと危ない、信号が赤になった。
俺は渋滞の列の先頭に停まり、目の前の横断歩道を急ぐ浴衣姿のカップルを眼で追った。
そして、顔が右を向いたとき、隣に停まったベンツCLAクーペの助手席に座っている、水色の浴衣を着た美女に眼が釘付けになった。
美紀だ。全然変わってない。
******
美紀は、あの頃のままだった。
一緒に競馬場で花火を見たときと同じ、水色の浴衣に、アップにした栗色の髪。ちょっとレトロな鼈甲色のかんざしを差して、少し首を左右に動かしている。
ワイパーが水滴を掃いて、流れ落ちていくのを眺めているんだな。あれ、美紀は好きだったよな。変わってないんだな。
隣に乗っているのは、若い男か。まあ、花火の帰りならそういうことなんだろう。
俺がそうして、懐かしい白い横顔をじっと見ていたら、横から刺さる視線に気が付いたのか、美紀がふとこちらを向いた。
そして、俺を見て、瞬時に理解して、眼をまん丸にして、口に手を当てて心底驚いた顔を向けてきた。
美紀は、運転席をちょっと振り返って、すぐこちらに向き直り、俺に向かって手をぶんぶん振って、『ちがうの!』っていうジェスチャーをしてきた。
? 今の彼氏じゃないということなのか? ちょっと分からないな。
俺が、少し首を傾げて、不可解な表情で返すと、美紀は、今度は、サイドガラスに「はーっ!」って息をかけて曇らせて、必死に何か書き始めた。
何? 逆さまなんでよく分からないよ。なんだか、「わたし」って書いてるように見えるけど、時間ないんだから主語なんか抜けばいいのに。
美紀も、そんなことしても上手くいかないとすぐわかったらしく、サイドウィンドウを開けて、浴衣の袖をまくって、細く白い腕を俺に差し出してきた。
何も持っていないから、何かを渡そうとしているんじゃない。気持ちを伝えようとしているんだ。強い雨が当たって、瞬く間に腕が濡れて水滴が流れ落ちる。
俺は、やっぱり苦い記憶が蘇って、ほんの少し迷ったが、美紀が何かを必死に伝えようとしているのは分かったので、ウィンドウを開け、右手を伸ばす。
だけど届かない。車線上の車って、案外離れてるんだな。
そうして、俺が身を乗り出して腕を伸ばし、あと少し、10㎝……あと5㎝。
しかし、そのとき、信号が変わった。
触れそうだった美紀の手は、すり抜け、俺の手を残したまま、ベンツCLAクーペは、滑るように走り出した。また、美紀は俺を置いてけぼりにして、去って行った。
******
後ろから、クラクションが聞こえる。
俺は、右手で「悪い」ってやってから、おんぼろクラウンでベンツを追いかける。
……だけど、そこで、ふと我に返った。俺は、何をやってんだ?
俺は、一つ「ふーっ」っと鼻から息を吐いて、スピードを緩め、ウィンカーを点けて、競馬場に降りる道へ左折した。
******
これでいい。これでよかったんだ。
今日まで、諦め切れずに心のどこかで追いかけてきたけど、ようやく整理がついた。
美紀が、ピアノを続けているのか、誰かと一緒にいるのか、それは分からないけれど、今幸せでいるらしいことは良く分かった。
だから、もう、俺はいいんだ。美紀の、大切な今とこれからに、俺は出てこないんだ。
一緒に過ごした3年間は、大事な宝物にして胸の奥にしまっておく。
だから、お前も、俺の大切な今、そしてこれからの未来に、出てこないでくれ。
そっとして、乱さないでくれ。
そんなことを考えていたら、雨がもっとひどくなった。
競馬場を出た、たくさんの浴衣姿の男女が家路を急いでいる。
俺はそれを見ながら、ほんの少し、眼を閉じる。
やめろよ。だから、出てくるなよ。涙が押し寄せてくるだろ。
雨は激しく降り続く。
もう、ワイパーも効かないくらいだ。
~ 花火の残光は仄かに瞬き、そして静かに消えゆく ~ (了)