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第1話・中編:塩味の涙と、甘い再出発のショートケーキ

 俺は、再び厨房に立っていた。

 さっきの試作の失敗は、もう頭の中にはない。

 目指すのは、ただ甘いだけのケーキじゃない。

 彼女の「塩味の涙」を包み込み、その奥に隠れた「甘い希望」を引き出す、そんなショートケーキだ。


 まずは、スポンジ。

 しっとりとして、口の中で優しく溶けるような食感が理想だ。

 新鮮な卵を丁寧に泡立て、きめ細やかな生地を作る。


 泡立て器がボウルの中で奏でる、軽快で心地よい音。

 この音は、いつだって俺の心を落ち着かせ、集中させてくれる。


 次に、生クリーム。

 彼女の悲しみの「塩味」を包み込むには、上質で、それでいて重すぎない、ふわりとした口当たりのクリームが必要だ。

 乳脂肪分の高い生クリームを、氷水で冷やしながら、ゆっくりと、丁寧に泡立てていく。


 ツノが立つ直前の、絶妙な柔らかさ。

 これが、彼女の心を優しく包み込む「味」になるはずだ。


 そして、最も重要な「塩」。

 様々な種類の塩を試した。

 ミネラル豊富な岩塩、まろやかな海塩、ハーブの香りがするブレンド塩……。

 一口ずつ味見をするたび、俺の舌は、それぞれの塩が持つ個性を、繊細に感じ取っていく。


「これだ……」


 選んだのは、ごく微量の岩塩だった。

 口に入れた瞬間はほとんど感じないが、甘みの後にふわりと広がる、あの独特のミネラル感。

 それが、生クリームのコクと、スポンジの繊細な風味を、最大限に引き出す。

 まるで、涙の塩味が、甘さをより深く、豊かに感じさせるように。


 この配合は、本当にわずかだ。

 多すぎれば、ただの塩味のケーキになってしまう。

 少なすぎれば、彼女の感情を「受け止める」ことができない。

 繊細なバランスが、このケーキの命運を分ける。


 ──あの時も、そうだった。


 ふと、俺の頭の中に、遠い日の、大切な記憶が蘇る。

 まだ、俺がこの能力を、ただの呪いだと感じていた頃のことだ。


 人の感情の「味」に、毎日毎日、ただただ疲弊していた。

 特に、負の感情は、俺の舌と心を蝕むようだった。


 そんな俺を、そっと救ってくれたのは、祖母が作ってくれた、ごく普通の「おはぎ」だった。

 一口食べると、まず口の中に広がるのは、祖母の愛情が詰まった、優しい甘み。

 でも、その甘みの奥に、ほんの少しだけ、祖母の「心配」の苦味が混じっていた。

 俺の体調を気遣う、その苦味が、なぜか温かかった。


「譲、辛い時は、無理しなくていいんだよ」


 祖母の言葉と、そのおはぎの味が、俺の心をじんわりと温めた。

 苦味があったからこそ、甘みがより深く感じられた。


 あの時、俺は思ったんだ。

 感情の「味」は、ただ感じるだけじゃない。

 それを理解し、受け止めることで、新たな「味」を生み出すことができるんだ、と。

 そして、その「味」で、誰かの心を癒せるパティシエになりたい、と強く願った。


 その時の「味」が、今の俺の原点だ。

 彼女の「塩味」も、きっとそう。

 ただの悲しみじゃない。

 その奥には、きっと、彼女自身も気づいていない、新しい甘みが隠れているはずだ。


 オーブンから、甘く香ばしい匂いが、店内にふわりと漂ってくる。

 焼き上がったスポンジは、黄金色に輝き、触れるとふわりと弾む。

 完璧な仕上がりだ。


 カウンターの向こうでは、女性客がハーブティーを飲み終え、静かに座っていた。

 顔はまだ俯きがちだが、来店時のような、張り詰めた空気は、少し和らいでいるように見える。

 俺の舌には、まだ彼女の「塩味」は残っているが、その中に、ほんの少しだけ、「落ち着き」の微かな甘みが混じり始めていた。

 ハーブティーの効果か、それとも、俺がデザートを真剣に作っている気配を感じ取ってくれたのか。


 俺は、焼き上がったばかりのスポンジを冷まし、丁寧に三枚にスライスする。

 一枚一枚に、優しい甘さのシロップを打ち、しっとり感を出す。

 そして、泡立てたばかりの生クリームをたっぷりと乗せる。

 クリームの白が、まるで彼女の悲しみを優しく包み込むようだ。

 その中に、ごく微量の岩塩を混ぜ込んだクリームを、隠し味のようにそっと忍ばせる。


 いちごの鮮やかな赤色が、白いクリームの上で、まるで宝石のように映える。

 この赤は、彼女の情熱、そして、これから始まる新しい人生の輝きを象徴する。

 一つ一つ、丁寧にデコレーションしていく。

 まるで、彼女の人生に、彩りを添えるように。


 最後の仕上げ。

 粉糖をふわりと振りかけると、ショートケーキは、まるで雪化粧をした小さな山のようになった。

 完璧だ。

 見た目も、そして、俺が込めた「味」も。


 俺の舌には、完成したショートケーキの「優しく包み込むような甘さ」と、まだ彼女の心に残る「悲しみの塩味」が、複雑に、けれど調和して広がっていた。

 これは、彼女の今の感情そのものだ。


「お待たせいたしました」


 俺は、完成したショートケーキを、彼女の前にそっと差し出した。

 その所作の一つ一つに、彼女への深い配慮が込められている。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、目の前の美しいショートケーキが映る。

 微かな光が宿ったように見えたが、まだその表情には深い悲しみの影が残っていた。


 彼女は、ゆっくりとフォークを手に取った。

 そして、ケーキに、そっとフォークを伸ばす。


 この一口が、彼女の感情をどう変えるのか。

 俺は、固唾を飲んで、静かに見守った。

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