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第7話・前編:焦燥の渇きと、レモンのタルト

 今日の「味覚の記憶」は、いつもとは違う朝を迎えていた。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いはいつも通り店内に満ちているが、穏やかな空気を切り裂くかのように、外からは絶え間なく車のクラクションと、工事現場の騒音が耳に届く。


 カウンター席の常連客たちも、どこか落ち着かない様子で、新聞をめくる手つきがいつもより速い。

 彼らの「味」は、微かな”苛立ち”の酸味と、”日常への焦り”の苦味が混じり合った、せわしないコーヒーのような味だ。


 俺の舌にも、その落ち着かない”味”が伝わり、心がざわつくのを感じた。

 こんな日は、いつもと違う何かが起こりそうな予感がしていた。


 ガラン!


 その予感は、荒々しい音と共に現実となった。

 ドアベルの軽やかな「カラン、カラン」という音とはまるで違い、まるで扉が殴りつけられたかのような鈍い音が響き渡り、ドアが勢いよく開け放たれた。


 ガラスが揺れ、店内の空気が一瞬で張り詰める。


 顔を上げると、そこに立っていたのは、30代後半くらいの女性だった。

 彼女の服装はオフィス仕様でぴしりと決まっているが、肩からかけたバッグはわずかに傾き、髪は乱れ、そして何よりも、その表情からは激しい”焦燥”と”渇き”の、強い酸味が吹き出していた。


 それは、喉を焼くような、突き刺すような酸味で、まるで水分を失って干からびた果実のような”味”だ。

 その味の奥には、抑えきれない「怒り」の辛味と、「切迫した時間」の苦味が混じり合っているのが分かった。

 まるで、砂漠を彷徨う旅人のような、極度の渇きと焦燥に駆られた”味”だった。


 女性は、周囲を気にする様子もなく、まるで店内の空気を威圧するかのように、足早にカウンター席に詰め寄った。

 その動きは、無駄なものを一切許さない、機械的な早さだ。


 彼女の視線は、ショーケースのケーキにも、店内の温かい雰囲気にも向けられることなく、ただ時計の針を睨みつけている。

 その表情は、今にも爆発しそうなほど感情が張り詰めていた。


「ご注文は……」


 俺は、いつものように穏やかな声で問いかけたが、その声は、彼女の放つ強烈な”焦燥の味”にかき消されそうになる。

 これほどまでに強い酸味を感じるのは、久々だった。

 彼女の心は、まさに今、限界寸前の状態にあるのが分かった。


 女性は、メニューを手に取ることもなく、カウンターに両手をついて前のめりになった。


「……何か、すぐに、甘酸っぱいものを。とにかく、気分を変えたい。早く、早くしてください!」


 彼女の声は、命令するように鋭く、そして感情が剥き出しになっている。

 その声に、焦りと苛立ちの”味”がはっきりと感じられた。

 彼女の指先は、まるで今にも何かを掴み取ろうとするかのように、カウンターを強く叩いていた。


「何か、お急ぎですか? それとも、何か悩みでも?」


 俺は、彼女の”焦燥の味”の奥に、何か切羽詰まった事情があるのではないかと感じ、そっと問いかけた。

 彼女の放つ強い酸味は、単なる感情的なものではなく、具体的な問題に直面していることを示唆していた。


 女性は、俺の言葉に、ギロリと鋭い視線を向けた。

 その瞳には、寝不足とストレスで、充血した色が浮かんでいる。


「悩み? そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんです! 企画の締め切りは今日、それなのに最後の資料が見つからない! 探す時間もない! もう、どうしたらいいか……っ!」


 彼女の声は、次第に切迫感を帯び、声の震えと共に、強い”絶望寸前”の苦味が混じり始めた。

 その苦味は、努力が報われないかもしれないという、深い諦めと苛立ちの味がした。


「毎日毎日、こんなことばかり。仕事に追われて、自分の時間なんてどこにもない。食事も適当、睡眠もまともに取れない。もう、限界……。でも、ここで諦めるわけにはいかない……っ!」


 彼女は、自らの感情を押し殺すように、唇を強く噛み締めた。

 その唇の震えから、彼女がどれほどのプレッシャーに晒されているかが伝わってくる。


 彼女の”味”は、強い酸味と苦味の中で、微かな”諦めない気持ち”という、細い糸のような甘みが混じり合っていた。


 俺は、彼女の言葉に、強い共感を覚えた。

 俺自身も、パティシエとして完璧を求めるあまり、時間に追われ、精神的に追い詰められた時期があったからだ。

 最高傑作を生み出すプレッシャー、想像力を絞り出す苦しみ、そして、完成した作品がお客様に受け入れられるかどうかの不安。


 あの頃の俺の”味”は、まさにこの女性のように、強い”焦燥”と”責任感”の酸味、そして”重圧”の苦味が混じり合っていた。

 そんな時、俺を救ってくれたのは、意外にも、祖母が何も言わずに差し出してくれた、冷たいレモネードだった。


 一口飲むと、舌に広がるのは、レモンの爽やかな酸味と、程よい甘み。

 その冷たさが、熱くなった頭と心をクールダウンさせてくれた。


「時には、一呼吸置くことも大切だよ。酸っぱいものは、心をリフレッシュさせてくれるからね」


 祖母の言葉と共に、レモネードの爽やかな”味”が、俺の心の渇きを癒し、冷静さを取り戻させてくれた。


 この女性の”焦燥の渇き”も、きっとそう。

 彼女の心は、極度のストレスと疲労によって、干からびてしまっている。

 だが、その奥には、きっと、まだ”諦めない情熱”が燃え盛っているはずだ。


 その”味”に、今必要なのは、一時的な逃避ではなく、心をリフレッシュさせ、冷静さを取り戻すための”刺激”と”潤い”だ。


「お気持ち、お察しいたします。ですが、今のあなたには、少しだけ、心を落ち着かせる時間が必要なのではないでしょうか。何か、甘いものでも、お作りしましょうか?」


 俺は、彼女の焦燥を真正面から受け止めつつ、静かに提案した。


 女性は、俺の言葉に、まるで火に油を注がれたかのように、さらに苛立ちを募らせた。


「甘いもの? そんな場合じゃないんです! デザートなんて、食べてる暇なんてない! それより、どうしたらこの状況を打開できるか……っ、もう、本当に、どうしたらいいんですか!」


 彼女の声は、悲鳴に近い。

 その声と共に、彼女の”味”の酸味が、さらに鋭く、突き刺さるように増した。


「私が求めているのは、甘いお菓子なんかじゃない! 時間を、時間をください! それか、この状況をどうにかする魔法を!」


 彼女は、カウンターを強く叩き、瞳には絶望の色が浮かんでいた。


「だからこそ、です。焦りや苛立ちだけでは、良い解決策は見つかりません。ほんの少しの時間で、心をリセットできるようなものをお出しします。どうか、私に少しだけお時間をください」


 俺は、彼女の感情の波に飲まれることなく、静かに、しかし毅然とした態度で言葉を返した。

 俺の言葉には、彼女の感情を否定するのではなく、受け止め、そして導こうとする”味”が込められている。


 女性は、俺の真剣な眼差しに、一瞬、言葉を失った。

 その瞳の奥に、わずかながら、”戸惑い”と”微かな期待”の、薄い甘みが灯ったのを、俺は見逃さなかった。


「……っ、何を言ってるんですか、この人は……」


 彼女はまだ疑念を抱きつつも、マスターの揺るぎない態度に、わずかに押し黙った。

 その沈黙の中に、彼女の心の奥底に眠る、助けを求める小さな声が聞こえた気がした。


 俺は、彼女のその小さな変化を確信し、言葉を続けた。


「承知いたしました。では、今、あなたに最も必要なデザートをお作りしましょう」


 俺は、彼女の”焦燥”の感情に、新しい活力を与えることを決意した。

 その小さな変化が、俺の背中を、そっと押してくれた。


 俺は、彼女の”味”を深く感じ取りながら、固く決意し、厨房へと向かった。

 彼女の心に、再び、冷静さと活力を届けたい。その一心だった。

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