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第6話・後編:凍りついた心と、温かいベリーのクランブル

 男性は、ゆっくりとフォークを口元へと運んだ。

 唇が触れる寸前、その温もりが小さく脈打った。


 そして、小さく開いた唇から、温かいベリーのクランブルが、ふわりと彼の口の中へと消えていく。


 その瞬間、俺の舌に、”温かく、そして深く響く味”が、まるで春の雪解けのように広がった。

 それは、ただの味覚ではない。彼の心の奥底に触れる、感情の奔流だ。


 最初に広がるのは、焼きたてのクランブルの香ばしさと、温かいベリーの甘酸っぱさ。

 サクサクとしたクランブルの食感が、彼の心の表面にできた硬い殻を、優しく崩していくかのようだ。

 そして、煮詰まったベリーの、奥深い酸味と甘みが、彼の舌を包み込む。


「っ……」


 男性の瞳が、大きく見開かれた。

 その表情に、今まで見たことのない、驚きと、そして微かな戸惑いが浮かんでいる。


(彼の心の中で、長年凍りついていた感情が、ゆっくりと、けれど確実に、溶け始めたのが、俺にははっきりと分かった)


「これは……」


 彼の口から、微かな呟きが漏れた。その声には、抑揚が混じり始めている。

 彼の脳裏に、遠い昔の記憶がフラッシュバックしているのが、俺には感じられた。


 幼い頃、祖母が作ってくれた、素朴な焼き菓子の味。

 大切な人との、温かい食卓の風景。


 忘れかけていた、温もりと、人との繋がりの”味”が、クランブルの温かさと共に、彼の口の中に広がっていく。


 俺の舌にも、彼の感情の”味”の変化が、鮮明に感じ取れる。

 最初の「氷のように冷たい苦味」が、クランブルの温かさと混ざり合い、次第に”温もりと許しの甘み”へと変化していく。

 それは、過去の傷を受け入れ、自分自身を許すような、じんわりと広がる甘みだった。


 彼の心の中で、凍りついていた感情が、温かい雫となって、ゆっくりと流れ出していくのが分かる。

 その甘みは、まるで、長い冬の後に訪れた、春の陽光のように、優しく、希望に満ちていた。


 男性は、無言でクランブルを食べ進める。

 一口、また一口と、クランブルが減っていくたびに、彼の表情は、少しずつ、けれど確実に、柔らかくなっていく。


 来店時の固い表情は消え、その瞳には、温かさと、そして微かな安堵の光が宿り始めている。

 まるで、彼の心の中で、閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いていくかのようだ。


 彼の指先が、フォークを握る力が、少しずつ緩くなっている。

 その一つ一つの動作に、彼が内なる変化を受け入れていることが表れていた。


 彼は、ふと、皿の縁に付着した、ベリーの小さな粒に目をやった。

 そして、その粒を指でそっと触れる。


 その瞬間、彼の”味”に、”癒し”と”受容”の、穏やかな甘みが加わった。

 まるで、ベリーの酸味が、彼の心の奥底にあった苦い感情を、優しく中和し、受け入れているかのように。


「……こんなにも、温かいものだったとは」


 男性が、小さく、けれど確かな声で呟いた。

 その声には、深い感動と、そして、新しい発見への喜びが込められていた。


(彼の瞳の奥に、これまで見えなかった、人との温かい繋がりが見えたのかもしれない)


 彼は、さらに深く息を吸い込んだ。

 クランブルの温かい香りが、彼の肺を満たし、全身に新しい活力を与える。


 最後の一口を、彼はゆっくりと、まるでその温かさを噛み締めるように口に含んだ。

 その時、俺の舌に広がったのは、もう、冷たい苦味ではない。


 それは、”心の解放”という、満ち足りた甘みだった。

 過去のトラウマを乗り越え、温もりを取り戻した、彼の”再生の味”。


 彼の心は、もう、孤独に囚われていない。

 未来へと向かう、確かな一歩を踏み出す準備ができている。


 男性は、空になった皿をじっと見つめ、それから、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、来店時の冷たさはどこにもなく、温かく、生き生きとした輝きが宿っている。


 口元には、小さな、けれど確かな微笑みが浮かんでいた。


 彼は、俺の目を真っ直ぐに見つめ、深々と頭を下げた。

 その礼には、単なる感謝以上の、深い感動と、そして、新たな人生への希望が込められているのが分かった。


「マスター、この温かさ、本当に感謝いたします。凍りついていた心が、溶けていくようです」


 その声は、来店時とは打って変わって、温かく、そして、どこか震えていた。

 まるで、彼の心から、重い鎖が外れたかのような、そんな響きだ。


「このクランブルは、私に、もう一度温かいものを信じる力をくれました。

 これからは、もっと人との繋がりを大切に、日々を過ごしていきたいと思います。

 また、この温かい”味”をいただきに、必ず立ち寄らせていただきます」


 彼の言葉には、単なる感謝だけでなく、自分自身の未来への誓いと、再訪の意思が明確に込められていた。

 その言葉に、俺の胸に温かいものが込み上げてくる。


(彼の心に、俺のデザートが、確かに届いたのだ)


 パティシエとして、これ以上の喜びはない。


 男性は席を立ち、代金を払う。

 その足取りは、来店時よりもずっと軽やかで、迷いが消えたように見えた。


 背筋がピンと伸び、その姿勢からは、新しい人生への希望が感じられる。


 ドアのベルが、カラン、カランと、心地よい音を立てる。

 彼は、最後に一度だけ振り返り、俺に小さく頷いた。

 その笑顔は、まるで、長い冬の後に訪れた、春の陽光のように、まぶしかった。


 彼の背中からは、もう、「氷」のような冷たさは感じられない。

 代わりに、温かく、希望に満ちた”心の解放の甘み”が、ふわりと漂っていた。

 この味は、きっと彼を、もっと豊かに、もっと生き生きとした人間にするだろう。


 店を出ていく彼の後ろ姿を見送りながら、俺はカウンターに残る彼の”味”の余韻を感じていた。

 それは、温かく、優しく、そして、生命力に満ちた甘みだった。


 過去のトラウマを乗り越え、温もりを取り戻した、彼の”蘇る生命の味”。

 この味は、俺自身の過去の経験とも重なり、俺の心にも、新たな温かさをもたらしてくれた。


 今回のエピソードを通して、俺自身もまた、温かさの力と、それがもたらす心の癒しの真価を改めて知った。

 感情とは、ただ受け止めるだけでなく、温め、解き放つことで、人々の心はより深く、そして豊かに育まれるのだと。


(この共感覚は、誰かの心の奥底に眠る光を引き出すためにある)


 その確信が、じんわりと胸を満たした。

 そして、明日もまた、どんな”味”との出会いが待っているのだろうか。


 カラン、カラン。


 再び、ドアのベルが鳴る。

 新しい客が入ってくる音だ。

 その客からは、今度はどのような”味”が感じられるのだろう。

 俺の舌は、次の物語の始まりを、静かに、けれど期待に満ちて待っていた。

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