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第6話・中編:凍りついた心と、温かいベリーのクランブル

 俺は厨房に戻り、高齢の男性客の「氷のように冷たい苦味」と向き合った。

 彼の心は、まるで分厚い氷に覆われた湖のようだ。

 表面は冷たく、硬く閉ざされているが、その深奥には、きっと温かい水が眠っているはずだ。

 この冷たい苦味を、無理に打ち消すのではなく、ゆっくりと溶かし、温かい甘みへと変化させる。

 それが、俺の目指す「味」だ。


 ふと、頭に浮かんだのは、温かいベリーのクランブルだった。

 クランブルは、サクサクとした食感が特徴で、その下には、温かく煮込まれたフルーツが隠されている。

 冷たく閉ざされた彼の心に、温かいクランブルが触れることで、ゆっくりと氷が溶け始めるように。

 そして、酸味のあるベリーは、彼の心の奥底に眠る、微かな「後悔」や「悲しみ」の酸味と共鳴し、それを温かい甘みへと昇華させる力がある。

 クランブルのサクサクとした食感は、彼の心の壁が、ゆっくりと、けれど確実に崩れていく音を表現できるはずだ。


「これだ……」


 俺はすぐに、材料を手に取った。

 まずは、ベリー。

 冷凍のミックスベリーではなく、新鮮なラズベリー、ブルーベリー、ブラックベリーを選ぶ。

 それぞれのベリーが持つ、独特の酸味と甘み、そして鮮やかな色。


 真っ赤なラズベリーは、甘酸っぱく、情熱的な「味」。

 深みのあるブルーベリーは、静かな「癒し」の「味」。

 そして、野性味あふれるブラックベリーは、力強い「生命」の「味」だ。


 これらを丁寧に洗い、水気を切る。一粒一粒が、まるで小さな宝石のように輝いている。

 大きめのボウルに移し、レモン汁と少量のグラニュー糖を加え、優しく混ぜ合わせる。

 レモン汁の酸味が、ベリーの風味を一層引き立てる。


 鍋に移し、弱火でゆっくりと煮詰めていく。焦げ付かないよう、木べらで時折かき混ぜる。

 鍋から立ち上る、甘酸っぱい香りが、厨房に満ちていく。

 その香りは、まるで、彼の心の奥底に眠る、忘れかけていた「温かい思い出」を呼び覚ますかのようだ。


 煮詰まるにつれて、ベリーの鮮やかな色が、さらに深みを増していく。

 グツグツと音を立てるベリーは、まるで彼の心の奥底で、何かが煮え滾っているかのようでもあった。


 次に、クランブル生地。

 冷たいバターを細かく切り、薄力粉、アーモンドプードル、きび砂糖、そして少量のオートミールとシナモンを加える。

 バターは、冷蔵庫から出したばかりの冷たいものを使う。

 指先の熱で溶けないよう、手早く、けれど丁寧に作業を進める。


 指先でバターと粉を擦り合わせるように混ぜていく。

 サラサラとした粉が、次第にポロポロとした塊になっていく。まるで、砂が固まっていくような感覚だ。

 このサランとした感触が、彼の心の壁が崩れていく音を表現する。


 オートミールの香ばしさが、クランブルに素朴な風味を加え、シナモンの温かい香りが、クランブル生地に深みを与える。

 この香りは、まるで、遠い記憶の扉を叩くかのように、俺の鼻腔をくすぐった。


 ──あの時の、俺みたいだ。


 俺の脳裏に、自身の過去が鮮明に蘇る。

 この能力を持つことで、他者の感情に深く触れすぎ、自分自身の心が疲弊し、まるで感情が凍りついてしまったかのような時期があった。

 喜びも悲しみも、怒りも苦しみも、全てが遠く、ぼんやりとしたものに感じられた。


 その冷たさは、まるで俺自身の心に、分厚い氷の壁ができてしまったかのようだった。

 何を見ても、何を食べても、何の感動もない。

 パティシエとして、それは最も恐ろしい状態だった。


(このままでは、俺はもう、何も作れなくなる)


 そう思った時、俺は、店を閉め、あてもなく旅に出た。

 北欧の凍てつく大地、雪深い山々、そして、暖炉の炎が揺らめく小さな小屋。

 そこで出会ったのは、素朴な人々と、彼らが作る、温かい家庭料理だった。


 特に印象的だったのは、薪ストーブで焼いた、ベリーのクランブルだ。

 一口食べると、まず口の中に広がるのは、焼きたての香ばしいクランブルと、温かいベリーの甘酸っぱさ。

 その温かさが、俺の心の氷を、ゆっくりと、けれど確実に溶かしてくれた。


「譲、冷えた心は、温かいもので溶かしてあげるのが一番だよ」


 祖母の言葉が、その時、俺の脳裏に響いた。

 祖母の言葉と、その温かいクランブルの味が、俺の心をじんわりと温めた。


 無理にこじ開けるのではなく、そっと寄り添うことの重要性を。

 あの時、俺は知った。

 温かさは、時に、最も強力な癒しになることを。

 そして、その温かさで、誰かの心を癒せるパティシエになりたい、と強く願った。


 この男性客の「氷のような苦味」も、きっとそう。

 彼の心は、何らかの理由で深く傷つき、自ら感情を凍らせてしまったのだろう。


 過去の出来事、大切な人との別れ、あるいは大きな後悔。

 それが彼の心を閉ざし、冷たい壁を作ってしまったに違いない。

 だが、その奥には、きっと、温かい感情が眠っているはずだ。

 その「味」を、もう一度、ゆっくりと、温めてあげたい。

 彼が、再び、人との温かい繋がりを感じられるように。


 俺のクランブルは、その凍りついた心を溶かす、温かい光となる。


 煮詰めたベリーを耐熱皿に敷き詰め、その上からクランブル生地をたっぷりと乗せる。

 クランブル生地は、まるで雪のように、ベリーの上にふわりと降り積もっていく。


 オーブンに入れると、甘酸っぱいベリーと、バターの香ばしい匂いが、店内にふわりと漂ってくる。

 焼けていくクランブルの表面は、次第に黄金色に変わり、サクサクとした焼き色がついていく。

 その香りは、彼の冷たい心を、少しずつ温めていくようだ。


 オーブンの中で、ベリーがグツグツと音を立て、クランブル生地がゆっくりと膨らんでいく。

 その様子は、まるで彼の心の奥底で、新しい命が芽生えようとしているかのようだった。


 その間、カウンターの男性客は、コーヒーカップを両手で包み込むように持ち、じっと窓の外を見つめていた。

 彼の「味」は、まだ冷たい苦味が強いが、来店時のような鋭い「痛み」は、少し引いているように感じられた。


 俺がクランブルを丁寧に作っている気配が、彼の心を、ほんの少しだけ、揺り動かしているのかもしれない。

 彼の背中から伝わる「味」は、冷たい苦味の奥に、微かに、「温もりへの渇望」という、小さな炎のような味が感じられた。

 その渇望は、まだ小さく、弱々しいが、確かにそこにある。


 そうだ、彼はまだ、温かさを求めている。

 その小さな炎を、俺のクランブルで、そっと温めてあげたい。

 彼が、再び、人との繋がりを感じられるように。

 俺は、彼のその小さな渇望を、決して見逃さない。


 オーブンから取り出したばかりのクランブルは、熱気を帯び、ベリーの甘酸っぱい香りが一層強く香る。

 表面はサクサク、中は温かく、ベリーの果汁がとろりと輝いている。

 湯気と共に立ち上る香りは、彼の心を包み込むように、店内に広がる。

 完璧な仕上がりだ。

 見た目も、そして、俺が込めた「味」も。


 俺の舌には、完成した温かいベリーのクランブルの「温かい甘酸っぱさ」と、まだ男性客の心に残る「氷のような苦味」が、複雑に混ざり合った「味」が広がっていた。

 これは、彼の今の感情そのものだ。

 冷たさの奥に、温かさへの渇望と、微かな希望の光。

 すべてが混じり合った、彼だけの「味」。


「お待たせいたしました」


 俺は、完成した温かいベリーのクランブルを、彼の前にそっと差し出した。

 その所作の一つ一つに、彼への深い配慮が込められている。

 俺の願いが、この一皿に、全て込められている。


 男性は、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前のクランブルを見る。

 その瞳に、微かな驚きの色が宿った。


 彼は、フォークを手に取り、クランブルに、そっとフォークを伸ばす。


 この一口が、彼の凍りついた心に、どのような変化をもたらすのか。

 俺は、息を潜めて、その瞬間を待った。

 皿を置いた俺の指先には、微かな熱が残っていた。

 この一皿が、彼の心の奥底に、温かい光を灯すことを、ただ静かに願った。

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