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第6話・前編:凍りついた心と、温かいベリーのクランブル

 今日の「味覚の記憶」は、朝から穏やかな空気に包まれていた。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いが、店内にふんわりと漂い、カウンター席では常連客たちが、淹れたてのコーヒーを片手に、静かに新聞を読んでいる。


 彼らの「味」は、温かいミルクティーのような、じんわりと広がる「日常の満足」の甘みだ。

 俺の舌にも、その穏やかな甘みが心地よく広がり、心が落ち着くのを感じた。


 窓から差し込む朝日は、磨き上げられたショーケースのガラスに反射し、色とりどりのケーキを一層輝かせている。

 店内のBGMとして流れるクラシック音楽の調べが、この静かで満ち足りた空間を、さらに優雅なものにしていた。


 俺は、いつものようにカウンターの奥で、焼き上がったばかりのフィナンシェを丁寧に並べながら、この穏やかな時間を慈しんでいた。


 カラン、カラン。


 そんな静かな午前のひととき、突然、ドアベルが、どこか軋むような、重々しい音を立てた。

 その音は、店内の穏やかな空気を一瞬にして切り裂くかのようだった。


 顔を上げると、そこに立っていたのは、70代くらいだろうか、一人の高齢の男性だった。

 彼の背中は少し丸まり、長年の苦労が刻まれたかのように、深い皺が顔全体に刻まれている。

 服装はきちんとしたツイードのジャケットにスラックスだが、どこか古めかしく、流行に左右されない頑なさを感じさせる。

 その佇まいからは、まるで周囲との間に見えない壁を築いているかのような、冷たく、近寄りがたい雰囲気が感じられた。


 彼の全身から放たれる「味」が、俺の舌に、まるで鋭利な氷の刃が触れたかのような衝撃を与えた。

 彼の姿を捉えた瞬間、俺の舌に、氷のように冷たく、触れると痛みを伴うような、鋭い苦味が、一気に、そして容赦なく押し寄せてきた。


 それは、ただの苦味ではない。

 長く、深く、そして心の奥底で何かが凍りついているような、底冷えする苦味だ。

 その苦味の奥には、微かな「後悔」の酸味と、「孤独」の塩味が混じり合っているのが分かった。


 まるで、長い冬を一人で耐え忍んできたかのような、感情の凍てついた大地を思わせる、そんな味だ。

 彼の内側から発せられる冷気は、店の温かい空気さえも凍らせるかのようだった。


 男性は、ゆっくりと、まるでその場に根を張るかのようにカウンター席に腰を下ろした。

 その動きは、世界との接触を避けるかのように、静かで、そしてどこかぎこちない。

 彼の視線は、ショーケースの色彩豊かなケーキにも、店内の温かい雰囲気にも向けられることなく、ただ窓の外の、ぼんやりとした街の景色を見つめている。

 彼の瞳の奥には、何の光も宿しておらず、まるで深い氷の底を見ているような感覚に陥った。

 その表情は、感情を完全に封じ込めたかのようだ。


「ご注文は……」


 俺は、いつものように穏やかな声で問いかけた。

 彼の「味」があまりにも冷たく、閉ざされていることに、俺は心を痛めた。

 こんなにも強い「無」の感情を感じるのは、あの「無味」の女性以来かもしれない。

 だが、この男性の「無」は、虚無感ではなく、自ら感情を凍らせたような、より強固なものだった。


 男性は、メニューを手に取ったものの、その指先は微かに震えている。

 その震えは、彼がどれほどの感情を押し殺しているかの証拠のように思えた。


「……コーヒーを。それだけでいい」


 彼の声は、低く、そして感情がほとんど感じられない。

 まるで、長い間、言葉を発してこなかったかのような、掠れた声だ。

 その声に、やはり何の「味」も感じられない。

 ただ、冷たい空気が声帯を震わせているような、そんな無機質な響きだった。


「かしこまりました。温かいコーヒーですね」


 俺は、彼の「味」から感じ取れる冷たさに、どう向き合うべきか、考えを巡らせる。

 無理に話しかけても、さらに心を閉ざしてしまうかもしれない。

 だが、このまま放っておくこともできない。


 彼は、コーヒーカップを両手で包み込むように持ち、じっと見つめている。

 その指の節々は太く、長年の労働を物語っているかのようだ。

 カップから立ち上る湯気が、彼の顔に触れては消えていく。

 その湯気さえも、彼の冷気によって、すぐに消え去ってしまうかのようだった。


「何か、お探しですか? それとも、何かお困りごとでも?」


 俺は、彼の閉ざされた心に、そっと触れるように、しかし決して踏み込みすぎないように問いかけた。

 彼の「味」の奥に、助けを求める微かな響きを感じたからだ。


 男性は、俺の言葉に、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、何の光も宿しておらず、まるで深い氷の底を見ているような感覚に陥る。


「……別に。ただ、通りかかっただけだ」


 彼の返事は、短く、そして突き放すような響きがある。

 その言葉の「味」は、さらに冷たく、俺の舌に氷の粒が触れたかのような感覚だ。

 彼の周囲の空気は、一層冷え込んだように感じられた。


「そうですか。この店は、『味覚の記憶』と申します。もしよろしければ、何か、心に残るようなデザートをお作りすることもできますが……」


 俺は、彼の「無味」の感情の奥に、何か隠されたものがあるのではないかと感じ、もう一歩踏み込んでみた。

 彼の冷たい「味」の中に、微かな「渇望」の甘みを嗅ぎ取ったのだ。


 男性は、俺の言葉に、再び窓の外に視線を戻した。

 その横顔は、まるで石像のように固く、感情の動きを一切見せない。


「……必要ない。甘いものは、昔から苦手だ」


 彼の声は、相変わらず抑揚がないが、その言葉の奥に、微かな「拒絶」の苦味が混じった。

 その苦味は、まるで彼が過去に、甘いものによって深く傷つけられたかのような、そんな物語を語っているようだった。


 だが、その苦味の奥に、ほんの、ほんの微かに、「諦めきれない何か」の、薄い甘みが灯ったのを、俺は見逃さなかった。

 それは、まるで、凍りついた湖の底で、かすかに揺らめく、小さな光のようだ。


 その光は、彼の心の奥底に、まだ希望の種が残っていることを示唆していた。

 この男性は、甘いものを拒絶しているが、心の奥底では、何か温かいものを求めている。


 彼の「味」は、まるで、分厚い氷の下に、熱いマグマが眠っているかのように、矛盾した複雑さを持っていた。

 その矛盾こそが、彼がまだ完全に感情を失っていない証拠だった。


 俺自身の過去にも、似たような経験があった。

 この能力を持つことで、あまりにも多くの感情の「味」に晒され、心が凍りついてしまいそうになった時期があったのだ。


 特に、人の悲しみや怒り、絶望といった負の感情は、俺の心を深く冷やし、時には、自分自身の感情さえも凍らせてしまうのではないかと恐れた。

 あの頃の俺の「味」は、まさにこの男性のように、冷たく、そしてどこか孤独な苦味を帯びていた。


 そんな時、祖母が、暖炉のそばで、温かいココアを淹れてくれた。


「譲、冷えた心は、温かいもので溶かしてあげるのが一番だよ」


 祖母の言葉と共に、俺の舌に、祖母の「無償の愛」の温かい甘みと、「人生の厳しさ」の苦味が混ざり合った、複雑な味が広がった。

 あの時、俺は知った。


 冷たく凍った心には、温かい光と、ゆっくりと溶かす時間が必要であること。

 無理にこじ開けるのではなく、そっと寄り添うことの重要性を。

 祖母の温かいココアは、俺の心の氷をゆっくりと溶かし、再び感情の「味」を感じられるようにしてくれた。


 この男性の「氷のような苦味」も、きっとそう。

 彼の心は、何らかの理由で深く傷つき、自ら感情を凍らせてしまったのだろう。


 過去の出来事、大切な人との別れ、あるいは大きな後悔。

 それが彼の心を閉ざし、冷たい壁を作ってしまったに違いない。

 だが、その奥には、きっと、温かい感情が眠っているはずだ。

 その「味」を、もう一度、ゆっくりと、温めてあげたい。

 彼が、再び、人との温かい繋がりを感じられるように。


「そうですか。では、コーヒーをお持ちしますね」


 俺は、彼の言葉を尊重し、深入りはしない。

 無理にデザートを勧めても、逆効果になるだけだ。

 だが、心の中では、彼の「味」に寄り添うデザートのイメージが、ゆっくりと形になり始めていた。


 彼の冷たく閉ざされた心に、温かい光を灯すような、そんなデザートを。

 俺は、彼の「味」を深く感じ取りながら、固く決意し、厨房へと向かった。

 彼の心に、再び、温かい「味」を届けたい。その一心だった。

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