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第5話・中編:無味の日常と、スパイス香るエキゾチックなムース

 俺は厨房に戻り、中年女性の「無味」の感情と向き合った。

 彼女の心は、まるで長年使われずに埃をかぶった古い機械のように、感情の歯車が錆びつき、動かなくなっている。


 だが、その奥には、きっと、かつての「情熱」や「好奇心」の「味」が、眠っているはずだ。

 その「味」を、もう一度呼び覚ましてあげたい。

 彼女の人生に、再び、鮮やかな彩りを取り戻してあげたい。


(そのためには、日常にはない、意外な”刺激”が必要だ)


 ふと、頭に浮かんだのは、スパイス香るエキゾチックなムースだった。

 ムースの軽やかさは、彼女の心の重苦しさを吹き飛ばし、新しい感覚を呼び覚ますのに最適だ。

 そして、エキゾチックなスパイスの香りは、五感を刺激し、忘れかけていた感情を呼び覚ます力がある。


 マンゴーやパッションフルーツといった南国のフルーツは、その鮮やかな色と香りで、彼女の”無味”な日常に、新しい色彩をもたらすだろう。

 シナモン、カルダモン、クローブ、ナツメグ……。

 これらのスパイスが織りなす香りのハーモニーは、俺の”味覚”を覚醒させてくれた、あの時の感動を、彼女にも届けられるはずだ。


「これだ……」


 俺はすぐに、材料を手に取った。

 まずは、ムースのベースとなるマンゴーとパッションフルーツ。

 熟したマンゴーは、とろけるような甘みと、濃厚な香りを放っている。その鮮やかなオレンジ色は、まるで南国の太陽のようだ。


 パッションフルーツは、爽やかな酸味と、独特の芳醇な香りが特徴だ。

 表面のしわが、熟している証拠。ナイフを入れると、中からゼリー状の果肉と黒い種が顔を出す。

 これらのフルーツを丁寧にピューレにし、鍋に移す。フルーツを潰すたびに、甘酸っぱい香りが厨房に満ちていく。


 次に、スパイスの準備。

 シナモンスティック、カルダモンポッド、クローブ、そしてナツメグ。

 それぞれのスパイスを、丁寧に挽き、香りを最大限に引き出す。

 シナモンの甘く温かい香り、カルダモンの爽やかでエキゾチックな香り、クローブの力強い香り、ナツメグの優しくスパイシーな香り。


 これらの香りが、混ざり合い、複雑で深みのある香りの層を作り出す。

 この香りが、彼女の五感を刺激し、心の奥底に眠る感情を揺り起こすきっかけとなるはずだ。

 挽きたてのスパイスを、温めたフルーツピューレに加え、ゆっくりと混ぜ合わせる。


 鍋から立ち上る、今まで嗅いだことのないような、複雑で、刺激的な香りに、俺自身も心が躍る。

 この香りが、彼女の心に、忘れかけていた”情熱”と”好奇心”の甘みを呼び覚ましてくれることを願う。

 スパイスが熱いピューレの中で、その香りを最大限に引き出していく。湯気と共に立ち上る香りは、まるで異国の地へと誘う魔法のようだ。


 ゼラチンを加え、ムースの滑らかな口当たりを作る。

 ゼラチンが溶け、液体に透明なとろみが加わっていく。


 そして、泡立てた生クリームとメレンゲを、丁寧に、そして優しく混ぜ合わせる。

 生クリームは、乳脂肪分の高いものを選び、ふんわりと、しかししっかりと泡立てる。

 メレンゲは、卵白を角が立つまで泡立て、きめ細かく、軽い口当たりになるように。


 泡立て器の音が、厨房に軽やかに響く。

 その音は、まるで彼女の心の重苦しさが、少しずつ軽くなっていく音のようだ。

 ムースの軽やかさは、彼女の心の重苦しさを吹き飛ばし、新しい感覚を呼び覚ますのに最適だ。


 まるで、彼女の心に、新しい風が吹き込むように。


 型に流し込み、冷蔵庫でじっくりと冷やし固める。

 焦らず、じっくりと。

 このムースが、彼女の心を、ゆっくりと、けれど確実に、目覚めさせてくれることを願う。

 ムースが固まっていく間、俺は何度も冷蔵庫を覗き込み、その状態を確認した。

 完璧な固まり具合と、なめらかな舌触りを追求する。


 その間、カウンターの女性は、コーヒーカップを両手で包み込むように持ち、じっと虚空を見つめていた。

 彼女の”味”は、まだ”無味”に近いが、来店時よりも、ほんのわずかだが、その”無味”の中に、微かな”期待”の甘みが混じり始めているように感じられた。


 俺がエキゾチックなムースを丁寧に作っている気配が、彼女の心を、ほんの少しだけ、揺り動かしているのかもしれない。

 彼女の背中から伝わる”味”は、無味の奥に、微かに、”何かを感じたい”という、小さな渇望のような味が感じられた。


 その渇望は、まだ小さく、弱々しいが、確かにそこにある。

 そうだ、彼女はまだ、諦めていない。

 感情を取り戻したいと、心の底で願っている。


 その小さな渇望を、俺のムースで、そっと満たしてあげたい。

 彼女が、再び人生の彩りを感じられるように。

 俺は、彼女のその小さな渇望を、決して見逃さない。


 冷え固まったムースを、型からそっと取り出す。

 なめらかな表面は、まるで宝石のように輝いている。

 マンゴーの鮮やかな黄色と、パッションフルーツの種が、ムースの中に美しい模様を描いている。


 その見た目だけでも、彼女の心に、何か新しい感情の芽生えを促せるように。

 俺は、ムースを皿に乗せ、最後に、ミントの葉と、少量の砕いたピスタチオを添える。

 ミントの緑とピスタチオの緑が、ムースの鮮やかな黄色に映え、見た目にも美しい。


 このミントの爽やかさとピスタチオの香ばしさが、彼女の五感をさらに刺激し、新しい感覚を呼び覚ますように。

 完璧な仕上がりだ。

 見た目も、そして、俺が込めた”味”も。


 俺の舌には、完成したエキゾチックなムースの”複雑なスパイスの香りと、爽やかな甘酸っぱさ”と、まだ女性客の心に残る”無味”の感情が、複雑に混ざり合った”味”が広がっていた。


 これは、彼女の今の感情そのものだ。

 無味の奥に、新しい刺激と、微かな希望の光。

 すべてが混じり合った、彼女だけの”味”。


「お待たせいたしました」


 俺は、完成したエキゾチックなムースを、彼女の前にそっと差し出した。

 その所作の一つ一つに、彼女への深い配慮が込められている。

 俺の願いが、この一皿に、全て込められている。


 女性は、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前のムースを見る。

 その瞳に、微かな驚きの色が宿った。


 彼女は、フォークを手に取り、ムースに、そっとフォークを伸ばす。


 俺は、固唾を飲んで、静かに見守った。

 俺の指先が、皿を置いた瞬間に微かに震えた。

 この一皿が、彼女の心の奥底に、光を灯してくれることを願った。

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